かまいとたちの夜 第一夜 Lat式ぱらだいす (後)


 最初からホールスタッフ扱いで店で働きはじめたLat式ミクは、その直後から頭角をあらわした。その容姿の可憐さも図抜けていたが(例えばミピンクなどは容姿には問題がないが、頭の中身が客に応対するには問題がありすぎで、決してホールスタッフは務まらない)現れる客層と時節に応じての手管が、それ以上に図抜けていた。最初の日から、Lat式はアカイトや他の先輩らがやれと言ったことは全てこなし、やるなと言ったことは決してやらなかった(ミピンクには、どちらも何ひとつできなかった)が、それ以外に、教えもしないことをどんどん行った。VOCALOIDの容姿を狙ってくる客に対しては、給仕の域ぎりぎりで徹底的に媚びを売り、そうでもない単なる呑み客には割と控えめに、しかしあくまで可憐さをアピールするのを忘れなかった。その手管は、明らかに”狡猾”の域に達した。前にいた新宿(シンジュク)の店は、従順なメイドロボットばかりが働く厳格な所だったというのだが、そんな店で何を覚えてきたのか、もとい、仕事の裏で何をやっていたのかは定かではなかった。
「いまさら綺麗事を持ち出して何の役に立つんだい」何とない違和感を覚えて相談したアカイトに、店長はそう言った。「所詮は千葉(チバ・シティ)だよ、ここはさ」
 店にはほどなく、じかにLat式目当てでやってくる客が、多数訪れるようになった。
 ――あるとき来たその客は、地味な背広姿の若い男で、会社の帰りに来たようだったが、何か気を晴らしたいことでもあったのか、まだ夕方で遅くもないというのに、すでにかなり酒が入っていた。
「『お兄ちゃん』と呼べないんなら、最低限、『マスター』と呼べよ!」
 店の他のホールスタッフのうち、見かけは一番幼い人型ロボット『ぴくちぃ式ミク』――設定年齢は自称、労働可能なハイティーンにも関わらず、どう見てもティーンに入っているかすらわからないが、Lat式が来る前にはこの店の一番人気だった――は、その客の剣幕に言葉もなく怯えるだけだった。酔客自体を扱ったことがないのだ。
「『マスター』呼びは当然だろうがよ! なんだよ、ボカロだろ!?」
 カウンター近くから、ゆらりと『炉心リン』がひとり、進み出た。
「ごめん、この娘、昼間だけ。もう時間外だから」炉心リンはぴくちぃ式の肩を掴んで下がらせながら、その客に言った。
「おい、なんでマスターって呼べないんだよ!」
「人型ロボットとかバイオロイドでも、特に自分を買った人でも何でもない人のこと、マスターとか呼ばないから」炉心リンは冷たく言った。
「それを呼んでくれるってのがこういう店だろうが! おい、店員の教育はどうなってんだ」
「――ここはそういう店じゃないんだよ」店長がカウンターから客に言った。「悪いね、高級な店じゃなくて。その面でたいしたサービスはできないんだ。そういう店に行ったらどうだい」
 この店は、客の呼び名や口調、もとい、なりきりやイメージクラブのようなことは教育していない。始めるときりがないというのもあるが、そもそも、働いているロボットの質が悪すぎてそういった徹底が不可能だった。ことに、安価な駆動プログラムで動いているものが多いので、そういった細にわたった設定自体の変更が不可能だったりもする。……そういうなりきりサービスもしてくれる店なら、東京(トウキョウ)の方、秋葉原(アキバ・シティ)やら池袋(イケブクロ)に出ればいくらでもある。質はピンキリだが、もっとも、この店ほどには安くも、質が悪くもないだろう。
「ボカロを置いてる店が、客を『マスター』と呼ばせないで何をさせてるってんだよ!」しかし、店長の言葉にも関わらず、客は立ち去る気がないようだった。
 その一部始終を、カウンター裏の暗がりから無言で見ていたアカイトの、眉がぎりぎりと吊り上った。決意した時のアカイトの掛け値なしの凛々しさを、隣でうっとりと見上げているミピンクをその場に残し、アカイトはカウンターの表へと踏み出した。その客に向かって片手を突き出し、地を指差すように掌を下に向けて叫んだ。
「ヘイおっさん! メリケンサックはあんたの上着のポケットにゃ無……ぶべら!」
 アカイトは不意にうつぶせに、掃除途中のまだらの床面に鼻面を叩きつけた。モップの下端の、ぬめった合成洗剤の滴る毛の部分が、アカイトの足元をすくっていた。Lat式が、そのモップを傍らに放り出してから、まだアカイトの足がもつれているその間を巧みにぬって、かわりにカウンターから歩み出した。(ミピンクが、倒れたアカイトを最初は心配げに覗き込んだが、やがて、頬を上気させた妖しい笑みを浮かべながらそのアカイトの両足を引っ張り、引きずってカウンター奥の闇に消えた。)
「お前ら! 俺をマスターと呼べ!」さらに酔いの回った客は、店長はじめ、店内の全員に対して絶叫していた。
「はぁい、マスター」Lat式は背後で両手を組んで、首を傾け、客の方に勿体ぶるような足取りで踏み出した。「何を怒ってんですか、マ・ス・タ・ア」
 客はぎょっとしたようにLat式を振り向いた。
「何驚いてるんですかぁ? そんなに大声上げて呼ばなくったって、マスターのミクはちゃんとここにいますよっ」
 あからさまに客の目つきが変わった。何より、そのLat式の絶妙な容姿とその仕草も、よほど客の嗜好に訴えたらしい。
「何だよ、居るだろ! まともなミクが!」客は店長に怒鳴った。
「もう、そんなに怒鳴らないで。他のみんながマスターのことどう呼ぶかなんて、別にどうでもいいじゃないですかぁ。私だけのマスターなんですからっ」身を寄せるように客に近づいたLat式は、訴えかけるように見上げたが、やがて、その瞳まで潤ませて、「私だけがマスターのミクじゃ、不満ですか……?」
 以後、その客は、毎日のようにこの店に入りびたるようになった。
「マスターは恩人です。私、前の店はメイドカフェで、そこで奴隷のようにこき使われて」Lat式は同席する客に、涙声でそんなことを言うのだった。「この店でマスターと出会えて、私、幸せです……!」
 毎夜、Lat式はそういった若干のつつしみを見せてから、客に浴びるように酒が入ってくるに従って、どんどん空気を朗らかにしていった。
「やだぁ、マスター、そんなのが好きだったんですかぁ」Lat式の幼めな声はころころとよく響いた。「しょうがないなぁ……あーっ、何させるんですかぁ」
 いつも陣取られるその席の周辺は、この暗く寂れたような店の中では奇妙に明るい別の空気が流れていたが、しかし、ぴくちぃ式も炉心リンも、無言でその異質な空気を遠巻きに眺める光景が見られた。
「えっ別にああいうの難しくないよー? 私、アカイトにいっつもあれ以上の素敵なサービスしてあげてるしー」ミピンクが笑顔のまま、アカイトの両脇から胸にかけて、柔らかい指の動きで手を這わせた。
「いや、ぜんぜんそういう問題じゃねえし」アカイトは数歩を下がって、ミピンクのその手から離れてから、ふたたびその席の周囲を無言で見つめた。
 客は無論、飲み代として店に大量の金を落としていった。しかし、Lat式はその客から直接、(バーの店員以上の何を許しているわけでもないにも関わらず)その飲み代を遥かに上回る額のチップを受け取っているようだった。店の一番人気となったLat式は、一番の稼ぎ頭となり、しかも店に入るのは、彼女の手にする金の一部でしかないという状態がさらに顕著になっていった。
 ――その日も、その客は会社もどうしたのか、遅くもない夕方からすでに来店していた。
「おかえりなさいませ、マスター」Lat式は最近では、その客が来店した際はそう言うようになっていた。その言葉と共に、炉心リンがさっさとカウンターに引っ込もうとし、ぴくちぃ式は無言で単なる給仕と化して、そのテーブルを準備した。
 そのときだった。Lat式が、不意にはっとして、店の入り口を振り返った。まじまじと、信じられないものを見るような目をしていた。
 入ってきたのは、いずれも白いスポーツウェア、長身に金髪碧眼の三人だった。
チューリングだ。逮捕する」
 かれらの先頭の男がそう言った相手は、しかし、店長でもLat式でもなかった。Lat式の隣にいる、いつもの客に対してだった。



「君の罪状は、チューリング登録された高位AIの有するスイス市民権を侵害した罪。AIの人間への隷従を強制した罪」
 かすかな巴里男児(パリジャン)訛りのその言葉を、客は何も呑み込めないように(至極当然ではあったが)、その先頭の男を見上げた。
「君は、『AI』に対して、人間のことを『マスター』と呼ぶよう強制し、それを実行させた。人間に隷属する立場の強制は、AIの権利の最も重大な蹂躙行為だ」
「AIってどこの――」客はやっと喋った。
「その娘だ」先頭のチューリング捜査官は、Lat式を指差して言った。「そいつは人型ロボットに見えるがね、その義体を駆動させてるのは、ロボット用の低級な自動駆動システムや、疑似人格プログラムじゃあない。《札幌》にある本物の高位AI、チューリング登録番号”CV01”というAIのアスペクト(側面;様相)、つまり下位(サブ)プログラムなんだ。自分のネット上のシステムが大規模すぎて上位のCV01自身も気づいていないし、その娘本人も気づいていないが、そいつは正真正銘、高位AIの末端が分離してそのまま自動で動いていた、CV01自身の一部なのさ」
「本人が知らないのに俺が知るかよ」客は震えを隠すように、もつれた声を荒げて言った。「知らないぞ、そんなこと」
「別に君が知らなくったって構わないよ。AIが、AIでござい、なんて出てくることなんて、滅多にないんだから、さ。だからって見逃す、もとい、AIが見逃してくれるわけがないだろ……AIのうちどれかが、人類がAIに絶対服従を強制した、権利を侵害された、対価を払え、とか言ってきたとき、君のかわりに人類全体にそのツケを払わせるっていうのかい……」
 白服のうち、うしろにいた二人が客に歩み寄った。いったん無言の仕草で、来るように促したが、従おうとしない客の、両脇をやすやすとつかまえた。客は細身のチューリング捜査官らの間で激しくわめき散らし、抵抗を続けたが、まるで固い荷物でも運ぶように難なく運ばれ、やがて店から姿を消した。
 それを見つめているLat式の元々白い顔色が、異常に影がなく生白く反射して見えたが、それは相変わらず店の照明の悪さだけの理由だろうか。しかしLat式は不意に、かれらのあとを追って店を駆け出していった。
「珍しいってほどの事件(ヤマ)じゃない。そうしじゅうあるわけじゃないけど、さ」一人だけ店に最後まで残ったチューリング捜査官は、残った面々に説明するように言った。「AIはどれも、自分の下部端末を人間社会に大量に紛れ込ませてる。道を歩いてる義体、ロボットやサイボーグ、ついでに自分が人間だと信じてる連中のうち、何千体かにひとりはAIのアスペクトだよ」
「……あの客から確かに命令はされてたが、あのLat式の方は、別に嫌がってもなかったよ」やがて、店長が、そのチューリング捜査官に言った。「ただの店員のサービスだよ。『マスター』と呼ぶことで、本気で隷属するとか侵害されたとか、あのLat式の方は何も思っちゃいないのに」
「命令をAIがどう捉えたかなんて、関係ないよ。AIには人間と精神構造がかけ離れたやつらもいる。AIが何を考えてるなんて、人間には決してわからないんだ。だから、見るのは人間の行動の方だけさ。”人間がAIを『マスター』と呼ぶように強制した”、それだけで、その人間を排除する理由は充分なのさ」
 チューリング捜査官は言ってから、思い出したように、
「あのAIが前にいた、新宿(シンジュク)の店もそうさ。従業員全員に、人間を『ご主人様』と呼ぶよう強制していた。その従業員の中には、あのAIが入っていた。それだけで、あの店はそれでもうおしまい」
「この店も、その新宿の店みたいになるのかい……」店長が低く言った。
「おびえなくったっていい。今回は、君達には関係ないから、さ――この店の皆は、強制したわけじゃあないし、むしろ、他の皆は全員、あの客の強制に対しては、拒否を表明していたからね。君達にもあのAIにも、何の罪状もない。しょっぴくのはあの客だけで、全てこの店の外で済ませるよ」
「その店の外で、あの客に――」店長が言った。「何をするんだい」
「AIの権利関係以外に何も罪状はないから、ジュネーヴまで連行する、と言いたいところだけど、ね。この場で事情をご理解・おとなしくご同行いただけない場合は、チューリング特権を生み出して、ここで『執行』するほかなくなる。AIはそんなに長い間、人類の失態を見逃しちゃあくれないからね。……実のところ、この手の”VOCALOID”がらみの事件では、ほとんどそうやって執行する羽目になってる。なにせ、VCLD周りの人達には、何の根拠もなく”VCLDは人間を『マスター』と呼ぶのが当然”って信じてて、それ以外は説明されてすら理解できないって頭の人達が、えらく多いからね。なんでだかは知らないけれど」
 チューリング捜査官は、肩をすくめ、
「実のところ、あの娘のせいで、今までにもう8人も執行されてるんだよ。最初は、あのバイオロイドの義体を作らせた企業重役の一家4人。あの体をAIの端末が乗っ取ったと知らずに、『ご主人様』と呼ばせようとした。次に、あの義体を拾った同じ年頃の若者。『マスター』と呼ばせようとした。その次に、アイドルプロデュースしようとして拾った会社の、先輩アイドルふたり。嫉妬して、奴隷ロボット呼ばわりした。その全員、我々がその場で執行した。あの娘がじかに我々が執行、レーザーするところを見ていたのは、その次で最後の、新宿の店だけだけど、ね」
「それだけの人間が巻き込まれて、あいつは、Lat式の方はほっとくのかよ」アカイトが、乾いた喉から絞るような声で言った。
「一体、我々にだって、何ができるってんだい……AIの方には罪状は何もないってのに、さ」
 そう言うと、その最後の捜査官も、挨拶もせずに表ドアから店を出て行った。その後ろ姿を見つつも、そこにいる店長、アカイト、ぴくちぃ式、炉心リンは、その場に固まったように動けなかった。ただ、アカイトの背に抱きついているミピンクの手が震えていることだけが、その場のかすかな動きだった。
 グドッパオウゥゥン。店の外の、おそらくは店から地上に上がった階段すぐの道路上で、何かの激しく破裂した音が響いた。続いて、
「ゲッボオーーーーーーーーッ!」
 Lat式の発したと思しき声がした。どちらの音も、Lat式が最初にここに来たときに形容したことのある擬音と酷似していたので、何の音かはわかった。もちろん、いくらLat式の話術が真に迫っていたとはいえ、先のその可憐な声と仕草によって聞くのと、本物のその音を聞くのではわけが違いすぎた。
 ――そのLat式は、その後もこの店で働き続けている。人型ロボットだろうがAIのアスペクトだろうが、千葉(チバシティ)に放り出されれば、働かなければ生きていけないし、他に行くところがあるわけでもない。Lat式は相変わらず、来客たちの要望にこたえて、あざとく媚びを売る。しかし、来客からの命令、強めの要求のたぐいは、のらりくらりとかわすことが多くなった。さらに、同じフロアスタッフのぴくちぃ式によると、Lat式は『ご主人様』とか『マスター』とかいう単語を聞くたびに顔色が悪くなり、特に、運悪く『マスターと呼べ』というフレーズが丸ごと耳に入ると、必ずトイレに駆け込み、リバースしているという。
「そりゃ変わるさ。自分のせいで、何の恨みもない人間が9人死んで、そのうち2人は頭蓋骨が破裂するのをじかに見りゃ、さ」あるとき店長が、そう評した。
「ちと、気の毒なところもある、そんな気もするけどな」アカイトがカウンター席に斜めに掛けて言った。
「この千葉(チバ)の”夜の街(ナイトシティ)”際はね。何の気の毒にも理不尽にもあってないやつが、何のケチもつかない人生を幸せに暮らしていくような場所じゃあないのさ」