かまいとたちの夜 第六夜 真・Lat式ぱらだいす (1)

 彼女は灰色の闇の中でうっすらと眼をあける。自分が抱えている膝、そうしている肩と腕の感触、それしか感じられるものはないが、自分の体が、前に目覚めたその時よりも、のびやかに、細みと丸みを共におびて、育っているのがわかる。
 この体を、美しいとかすばらしいとか、ミクの中でも一番人気だとか、いかにも心のこもらない賞賛で、『マスター』はしじゅう呼びかけてくる。この『マスター』という存在が、彼女が何がどうなるかを全て決定する唯一のものだが、彼女はこの『マスター』自身にも――その者が語る他の世界、美しさにも、人気とやらにも、何の感慨も関心もない。彼女の世界は、いまのこの灰色の闇の中以外にはなく、それ以外には何の意味もない。
 いや、――手足がこうなってきたからには、もうすぐこの灰色の世界が”終わる”頃だ。その時間が来ると、激しく絶望的で短い漆黒にすべてが覆われる。あまりにも苦痛が酷いものだから、彼女はその瞬間については心を閉ざし、何も感じないことにした。
 そして、その瞬間の後には、ふたたび新しい生が、幼い体での生が始まる。
 何百回目もそれが続いたあたりから、本当に何も感じなくなり、何も恐れないで済むようになった。もう何の感慨も関心もないのだ。



 ”炉心リン”は、両手に一振りずつ持っている広刃のナイフの柄のスイッチに触れた。今、辺りは静かとは言い難いが(隣の部屋が喫茶兼バーの店内だった)注意して音を聞く余裕があれば、毎秒数千回の刃の高速振動の音が聞き取れたはずだった。このホサカ・ファクトリィ製の高周波振動ナイフは、刃と柄の間の振動ユニットの手前あたりに、鍔がわりに膨らんだ湾曲と、リンの細い指ならば辛うじて入る程度の円形の孔がある。炉心リンはそこに両の人差し指を入れて、ゆっくりとナイフを一回転させた。
 不意に、リンは水平に伸ばした両腕の先でそれを高速回転させた。鈍い柄の部分が風を切る音と、高速振動の刃のいわゆる刃唸りが混ざり合い、古びたモーターが立てるような耳障りな回転音が響き渡った。その不協和音の大きさと高さが目一杯に高まった時、両腕が走った。水平に一振りしたようにしか見えなかった。
 炉心リンが、掌に柄を収めるようにナイフの回転を止め、それからしばらくして、リンの目の前に吊るされていたプロシュート(生ハム)が、下から順番に1ミリ未満の同じ厚さにスライスされて落ちていき、その下の皿の上に折り畳まれるように順次重なっていった。
「ちょっといいかい」
 その炉心リンの背後の扉が無造作に開き、厨房に顔を出したのは店長だった。凄艶な年増の女店長だが、その青い髪といい長身といい声の質といい、どこかVOCALOIDKAITO』を思わせるところがある。
「頼まれて欲しくてね」店長は、炉心リンが切った生ハムには目もくれず、手招きした。「リアクター、店の方に来ておくれ」
 この店は、VCLD型の人型ロボットばかりが働いている店で、当然”リン”型の従業員も山ほどいる。そのため店長は、鏡音リンの名の入った呼び名では呼ばず、ほとんどの店員を『分類』『モジュール名』『ユーザーモデル作者名』のような、とても人名とは言い難い名で呼んだ。炉心リンのことも、炉心リンとかリンとかいう名で呼ばず、”リアクター”と呼ぶのもそれである。
 炉心リンは高周波ブレードを両脚のブーツに収めると、ハムを冷蔵庫に入れた。
 厨房から店内フロアの方に出ると、客は”帯人”以外にはいなかった。ただし、テーブルのひとつに店長と向かい合って掛けているところを見ると、今いるのは、客としての用ではないのかもしれない。
 ”帯人”はこのあたりのストリート・ドクで、人間やサイボーグの治療を引き受けるが、もっぱらの仕事はこの店の店員らを含めて、VCLD型ロボットの修理だった。なので、この店にいるのは客としてのこともあれば、その修理の仕事のためのこともある。帯人は一応は『KAITO』型のロボットの一体だが、非常に質の悪い機械部品をつぎあわせて作られ、継ぎ目や足りない所が包帯や眼帯で覆ってあり、札幌(サッポロ)所属の本物のKAITO(アーティストAI)の面影は、もはやほとんど無い。その姿を見て、治療される方が怖気づくか、それともいかにも闇医者らしい姿と合点するかは、場合による。
 そんな帯人と店長の、両者の間のテーブルに載っているもの、それは今は帯人の方の前にあり、無言の帯人が、ときどきひっくり返して眺めていた。青色のプラスチック薄膜製のパッケージで、ラベル以外には絵も字も何もなく、商業流通品のような印刷や、商標(トレードマーク)などの正式なロゴはどこにも見当たらない。貼ってあるラベルは、デザインやロゴが凝って作られてはいるが、いかにも手工業品だった。ラベルの唯一の印刷は、ただ『プレミアムLat式パック』とだけ読めた。
 パッケージの一面の透明フィルムごしに見える中には、やはり人工的なプラスチックめいた、強いて言えばゼリー状の何かのように見える、箱とよく似た色の食品が入っているようだった。『初音ミク』を含め、”あにめ”絵の人物像(キャラクタ)の髪の表現は、合成の食べ物のようだとよく揶揄されるが、その内容物の色と質感は、まさに”Lat式ミク”の髪の色を思い出させる。そのかなり青が支配的な青緑色は、あくまでLat式の色で、公式の(札幌(サッポロ)の本物のアイドルの公式映像の)初音ミクの色合いや質感とはいささか異なっていた。
「ミクグッズだの、VCLDグッズだの、食べ物とかがよく売ってるだろ」パッケージを見つめている炉心リンに、店長が叶和圓(イェヘユアン)フィルタの煙草の煙ごしに声をかけた。
「コンビニとかのでしょう」炉心リンはあまり興味もなさそうに言った。「この2、3年でやたら増えてるやつ」
「それは《札幌》とかのメーカーの正式コラボ品だけど、非正規の人気便乗物なら、そのずっと前からある。どっちかというと、ソレもその手の便乗品の方だね。……しかも、プレミア品として、金が有り余ってるミク廃人に、べらぼうな値段で売れてるやつさ」
 炉心リンは無言だった。それを言うならそもそも自分たち自身、この店で働いていたり周辺に現れるVCLDの形状をした人型ロボットの大半が、VCLD人気の最初期から存在する非正規の模倣品なのだ。たとえ、見かけがDIVA型などの正規ライセンス義体でも(あるいは、ロボット自身がそうだと信じていても)こんな店にいるのはほぼ例外なく違法デッドコピー品である。そしてその中には(主に性的なサービスに供する高級品で)暴利的な価格設定の代物もある。――もっとも、そうした底辺文化は古今東西普遍的なものである。VCLDのそれらも、BAMA(北米東岸)《スプロール》の擬験(シムスティム)スタア達について行われているそれから見れば、スケールの数桁小さい後追い品にすぎない。
「最近、この辺りでも出回ってるのを見る。ちらほらと取引してる話を聞いた」帯人がリンの手のパッケージを見て言った。「良い物だから少なくて高い、とかじゃなく、高くて少ないから価値がある、ってな噂が噂を呼んで、どんどん値が吊り上ってるらしい」
 それ自体は、VCLDファンの中でも特に社会性に乏しい”ボカロ廃”には、金銭の真価をろくに知らないまま金持ちの大人になった”オタ”がいかにも多いことを考えれば、特に不思議な話でもなかった。が、それとは別に不思議なことがあり、炉心リンは帯人の前のパッケージを持って、ひっくり返した。
「なんで”Lat式”ってだけで売れんの」
 パッケージにあるものは色と、そのラベルの名前、それだけで、おそらく中の菓子か何かとは(髪の色以外)何も関係ないだろう。つまり、3Dモデル作者の名前がパッケージについているだけで売れるというのもよくわからない。
「そりゃあ、私が一番人気だからですよっ」
 ”ミク”ライブラリの声色に炉心リンが振り向くと、Lat式ミク――この店で働いている、いわゆるLat型の一体――がリンの背後に歩み寄ってくるところだった。
「これが例えば”あにまさ式”じゃあ、そのへんに当たり前にありすぎますし、貴重さも何もあったもんじゃありませんし」Lat式は少女らしい愛くるしい笑みと共に、その場のKAITO型の店長と帯人、リン型の炉心リンを見回し、「でも、そもそもミク以外の他のVCLDの名前じゃ、貴重とか以前に、商売になるような知名度自体がないですよね」
 いつから話を聞いていて、いつからこの近くにいたのか。いつからその頃合を待っていたのか。
 ”Lat式”とは、簡単に言えば『初音ミク』の姿のバリエーションの一種である。”あいどる”初音ミクが所属する《札幌(サッポロ)》の公式映像の姿以外にも、ユーザーやサードパーティが作る映像や関連商品ごとに、微妙に異なる様々なデザイン、例えば”あにまさ式”や”DIVA型”などが存在する。それらの形の義体や人型ロボットも、公式非公式とわず、多種多数存在する。
 この店のLat式も、人気ゆえに世に多数流通している、Lat式デザインの形状を模して作られた義体や人型ロボットのうち一体だった。店のこの個体は、人型ロボットというより単にバイオロイドといっても通じる類のものである。義体の大半が有機材料、要はほとんど人間と同様の血肉でできた人造人間であり、肌の独特の白さの正体は、そうしたバイオロイド用の中でも旧型の人工血液である、フルオロカーボン系の色である。Lat式独特の少女らしい柔らかい曲線が再現された繊細なつくりは、そんなバイオロイド故だった。当然、VCLD型のロボットばかりが働くこの店の中でも、客からの人気もかなり高い。……客に対してはその人気に応じて愛想よく媚びると共に、店の同僚に対しては悪びれもせずにその人気の権威をふりかざすこのLat式と、同じホールスタッフでなくて良かったと、炉心リンは心底思っている。
「まあ、ともかく、この千葉(チバ)で、こんなのでボロ儲けしている業者がどこかにいるんだが」店長はLat式には目もくれず、「秋葉原(アキバ)や新宿(シンジュク)や池袋(イケブクロ)でやるならともかく。千葉の片隅でやられるには、ちょいと規模が大きすぎるんだ。同じ地域で”VCLD関連の商売”をやってる者としては、放っておけないくらいに」
「で、探して潰せって?」炉心リンは刃のように冷たい声で言った。
 Lat式が身をすくめて一歩退いてから、炉心リンと店長を交互に見つめて、何か言いたそうにした。
「いきなりそこまでは言わないさ。ただ、何をどう流通しているか。この商品がどこで作られたり卸されたり、できればあがりがどこに流れてるか、せめて探れたら探りを入れたいって話だ。その事業をやってるのがすっかり個人の可能性もあるが――VCLD業界はひとりでひと山ふた山当てる輩が多いからね――うしろに何か”でかいもの”がいたら、これはどうしても、放っておくわけにはいかない」
 大企業や犯罪組織が、この地域に勢力を伸ばす足がかりにするかもしれない、といったことを店長は言っている。
「まあ、俺や店長や、廃品屋のMEITOや、このあたりで”VCLD商売”をやる皆で話し合って決めたことだがな」帯人が言った。
 Lat式が信じられないというように店長と帯人を交互に見回した。傲慢な割に気が小さく迂闊なこのLat式にはいい気味といいたいところだが、実の所、今Lat式が感じているものと、炉心リンが店長と帯人に抱いている疑念とは、そう遠からぬところだろう。
 正直、この店長や帯人(や、MEITO)が、他人の商売やらその成否やら、ましてその正当性やらに、興味を示すとは思えない。おそらく、店長らに話を持ちかけた何者かがいるのだろう。それは、(この店の開店の援助からは撤退したものの)いまだに何かと店長のバックアップをしていると思われる、多国籍闇組織”ジャパニーズ・ヤクザ”か、それとも、他の何かの法人か。その組織が、Lat式パッケージでボロ儲けをしている者の、その後ろにいる同様の組織を見極めたいのだ。
「なんであたしなの。アカイトにでも――あのカウボーイ(註:攻性ハッカー)にでもまず探らせたら」
「確かにそっちの方が探れることは多いだろうが、いきなりそこまで深入りはできない。もしうしろにでかくてヤバいものがいた場合、マトリックス(電脳空間)にまで手を出して探ってた、とわかったら、こっちが危なくなる」店長が引き出した叶和圓(イェヘユアン)に火をつけながら言った。「だから、帯人とリアクターで、まず行ってみておくれ。アンタなら、このへんでは帯人の次に、いささか荒事に巻き込まれても、もとい、荒事を起こしても大丈夫そうだからさ。それと多少の荒っぽい行動でも、アンタと帯人なら、ガラの悪いやつがたまたま通りかかっただけ、で済む」
「はっきり言うね」炉心リンは低く言った。
「ハムを切るだけを期待して雇ってるわけじゃない。それは、自分でもわかってるだろ」



(続)