かまいとたちの夜 第六夜 真・Lat式ぱらだいす (4)


 その”ミク”の声でしゃべっているのは、この設備の機器のメモリーの中に保存されているらしい、人格プログラムのようだった。
 それは、さきほどの帯人自身が炉心リンらに説明した、仮想人格だった。培養したLat式ミクの体がある程度育ったら、その中に入れられ、そして何度も、出荷数から考えて何百何千回と屠殺され、その死の体験の次にはまた新しい体に入れられて殺されていた――食肉用Lat式の精神だ。
「『マスター』はもういない」帯人がその機器のボイスコマンダに向けて答えた。「生物学的にはまだしばらく生きてるかもしれんが、社会的には今さっき、完全に死んだ」
「そうですか」その食肉用Lat式の声が言った。帯人が言った事実にも、何の感慨も関心も覚えていないようだった。「これから何をしますか」
「自分で決めろ。お前は自由だ」
「自由って何ですか」ミクの声は平坦に言った。
「自分で生き方を選べるってことだ。酷い選択肢しかなくったって、その中から選ぶことくらいは。むしろ、選ばないといけない。無論、死に方も、生き返り方もな」
「理解できません」ミクの声は言った。「生も死も、復活さえも、マスターが決めるものです。それ以外は知りません」
「理解できなくても、もう『自由』はお前の手にある。相手を『マスター』とか呼んだり、呼ばせたりしないなら、ただそれだけで必ず手に入るものだ。――”人間(マスター)に従うボカロの悲しい宿命”とやらを、貧困な想像力ででっちあげた創作なんかより、今お前の手にあるそれの方が、はるかに重い宿命で、はるかに価値があるものさ」



「マース=ネオテクの名は、その男が口を滑らせただけだが」帯人は店内のテーブルに掛けて、店長に対して、そこで見たことを一通り語り終えてから言った。「……しかし実際は、資材と技術、おそらくこの事業のアイディア自体も、提供していたのは全部マースだな。というより、たぶん流通路や材料供給路も含めて、手を動かす以外の全部を手配していたのは、マース生命工学(バイオラブズ)なんだろう」
「マースにとっちゃ、トカゲの尻尾だね」店長が、喫っていた叶和圓(イェヘユアン)から口を離して言った。「その施設を壊したことで、帯人やリアクターがマースに追われるようなことはまず無いけど、こっちも、マースの尻尾をそれ以上たぐることもできない」
「マース=ネオテクは何を考えてるの……」炉心リンが、静かに言った。「――VCLD界隈にあんなものを持ち込んで、何のつもりだと思う……」
「わからないね。やつらはVCLDブームに便乗して儲けるような胆の小さいタマじゃないし、もしそのつもりだとしても、もっとやりようがある。逆に、VCLDが所属する《札幌》や《大阪》に直接打撃を与えるつもりなら、もっと静かに巧みに、敏捷で容赦なくやる」店長は叶和圓から一口喫い、「――ただ、そんなおぞましい事業を実行していた以上、マースはミクだとかVCLDに対して好意的だとは思えない、これだけは言えそうだ」
「別の打撃が目的かもしれない」帯人が低く言った。「”あいどる”のイメージ。さらに、”ボカロ廃”どもが何をやっているかのイメージ。それを落とすことかもしれない。知って食っていた『マスター』だろうが、知らずに食っていた『マスター』だろうが」
「”あいどる”を危険視する外野側なら、まあ持ってもいい発想だと思うが」店長は肩をすくめながら、叶和圓(イェヘユアン)を灰皿でもみ消した。「……だが、そんな評判なら、もう充分落ちてるよ。”ボカロ廃”のキモオタ達が言って喜んでる、『ボカロのマスター』とかの言葉が、”アンチボカロ”から、もとい、まっとうな感覚の一般人から、既にどれだけ気色悪がられて、馬鹿にされてるか知ってるだろ。その『マスター』どもが、ボカロを殺してその肉を食ってる、と言われたところで、誰も驚きやしないし、たいしてこれ以上評判は変わらないよ。……そして、VCLD側、《札幌》とか《大阪》とかの”あいどる”のVCLD本体たちにとっちゃ、『マスター』とかいう言葉を使って騒いでるキモ連中は、それこそトカゲの尻尾さ。切り捨てたってどうでもいい」
 炉心リンは無言で、店長の灰皿を見つめていた。……VCLD本体側からはトカゲの尻尾なのは、自分たちも――VCLDの派生とも偽物ともつかない真似たような姿で界隈の底辺を這いずりまわっている、炉心リンら、この店の皆も同じことなのだ。おそらく巨大なVCLD”現象”の構成要素ですらないか、最も軽微な要素でしかない。……ただ、違いがあるとすれば、向こうはそんなことにも気づかず、『マスター』とか自称する者達が、尻尾どころか、”ボカロの世界の中での『所有者階級』”だとか『支配者階級』だとか、”ボカロ界を動かす中心の最重要階級”なのだと、頭から信じ込んでいる、それくらいのものだ。
「まあ、今できる話はこれくらいのもんだ」
 帯人はそう言って、立ち上がった。その際、自分の隣の椅子に置いてあった黒い樹脂製の大きなユニットを手にとった。
「何それ……」炉心リンが見上げて言った。
「あそこで殺され続けてた”食肉用Lat式ミク”の精神さ」帯人はユニットを見下ろして言った。「こいつを、新しい体に入れる」



「やめて! すぐに捨てて! 消して! 生き返らせないで!」
 帯人の治療室(というか工房)に飛び込んできた、Lat式(店に前からいる個体)は、いきなりそんな悲鳴のような声を上げて言った。……人格プログラムのメモリ内容を調べていた帯人は、ディスプレイからLat式の方を振り返った。
「あんなとこから持ってきたもの……あんな所」Lat式は、その場所について口にしただけでさらに気分が悪くなったようで、普通に白い顔色からさらに血の気が引いたように見えた。「なんでそんな余計なこと! あなたたち、勝手にこんなことをする権利があるんですか!?」
「あんたこそ、そんな権利があんの?」帯人と一緒にディスプレイを見ていた炉心リンが、冷たく言った。「自分の気分だけのために、他の”ミク”の精神を捨てろだとか。生きることを本人に選ばせもせずに消せだとか。……そんなの、VCLDを見下した『マスター』とかいう言葉を使う連中とか、あの精肉屋の男とかがやってたことと同じじゃないの?」
 『マスター』と『精肉屋』という二つの言葉を聞いた瞬間、Lat式はぐいと掌を口に当て、その場で倒れるかと思えるように全身を傾かせたが、何かを必死でこらえ、足をふらつかせて、ようやくもちこたえていた。
「まあ実のところ、あそこで屠殺を繰り返されてた毎日よりも、こっから先の、この千葉(チバ)の下町のどん底生活が一体まだましなのかどうか、それさえわからんがな」帯人が平然と、ディスプレイを見ながら言った。「だが、選ぶのはこの娘だ」
「……新しい義体はもうあるの?」炉心リンはLat式の方は放って、帯人の方を向いて言った。
「いや、どっかから調達することになるだろうが」帯人が言った。「当然、”Lat式義体”をなんとか探してくるのが自然だろうな。この精神は今までずっと、何度もそれで過ごしたり、それ用に調整されてもいる」
「Lat式義体に入れたりして、あの工場で何をされてたか思い出したりしないの?」
「この娘に話を聞いた限りでは、その間のことはよく憶えていないようだ」
「絶対にやめて!」俯いていたLat式が、真っ青になったその首筋の奥底から絞り出すように叫んだ。「ねえ、お願いですから――それだけは」
 自分と同じ体で延々と精肉されていた、その体験をしていた本人の精神が近くにいるのに加えて、その義体、姿が自分と同じ、Lat式だとしたら――
「私、我慢できません! やめちゃいますよこの店!!」
「やめれば?」炉心リンが冷たく言った。「店の”Lat式ミク”なら、この娘がそうなるかもしれないわけだし。Lat式なんて店にひとり居れば充分だし。……周りに他のLat式がいたりとか、『マスター』って言葉を耳にしただけで気分が悪くなるようなやつが、どっか他に行けるところがあるんだったら、さっさとどこにだって行きなさいよ」
 Lat式はその場に立ち尽くし、俯いたまま、まっすぐおろした両手を拳に握りしめて震えていた。
 帯人と炉心リンはそっちを見もせずに、ディスプレイのメモリ表示を調べている。
「……ねぇ、どうしてもLat式義体なんですか……その娘はLat式の体に入れるんですか……」
「やめろと頼まれた、ただそれだけでやめられるほど、簡単な話じゃないからな」帯人は目だけLat式の方を見て、気のない口調で言った。
 Lat式は震える唇を閉じられないまま、立ち尽くしていた。おそらくLat式自身もわかっていた。Lat式が今まで、ただの泣き落としだけで頼みごとを聞いて貰えるような、――客に媚びてとるに足らないことをねだるという話ではなく――Lat式が本当に致命的な事態になったとき、本当に助けを貰わなくてはならない店や周囲の皆に対して、それに値するような態度を示してきたかどうか。そうでない以上、帯人や炉心リンとしては、Lat式が吐きもどすほど嫌な気分になろうがなるまいが、彼女の都合などよりも、救出した人格プログラムのこの娘にとって、”少しでも適合性が高そうな義体”を選ぶ方を優先せざるを得ない。
 が、帯人はこつこつと黒いメモリ・ユニットを指で叩き、
「……まあ、あんたがわざわざ別の義体を買ってきてくれて、このユニットに適合するように手配までしてくれるってんなら、それさえも拒否する気はないが――」



 結局、Lat式がバイト料ぎりぎりで数年分のローンを組み、ようやく調達できたのは、”ミク”の体としては最も標準的なひとつ、”あにまさ式V2”の義体だった。
 以後、あにまさV2の義体に入ったその例の娘、かつて工場から救出された精神は、数か月もするうちに、ごく普通に表情を得て、ごく普通に店で働くようになった。もともとが、”初音ミク型ロボット用”の人格プログラムなのだ。どれも基本的なシステム構造に大差あるわけではないし、まともな環境に置けば、当然まともな人格となる。
 一見すると、この店の他の”ミク”達と変わらず普通に働いているあにまさV2だったが、Lat式は、彼女をなにかと避けた。当然、自分が手配した義体であるし、中の精神がどんな事件に関わっていたかはよく知っている。たとえ”あの事件の”そして”自分と同じ”Lat式ミク型の姿をしていないとしても、気分が悪くならざるを得ない。
 しかし、Lat式はこのあにまさV2を、うまいこと遠ざけることも、あしらうこともできないようだった。かつてはその裏表の激しい態度で、特に何もしなくても他の店員にはさんざん嫌われていたLat式だが、あにまさV2の前ではなぜかそれが特に見られない。というより、Lat式のかつてのその対人姿勢自体が、なりをひそめているように見える。
 あにまさV2の方はといえば、関係が円滑でないことはわかっても、避けられているということまではわからず、なにかと軟化させようとLat式のあとを追い続けた。なにしろ、あにまさV2にとっては、Lat式は『恩人』なのだ。
 無論、Lat式が自分からあにまさV2にそう名乗ったわけではない。教えたのは炉心リンである。炉心リンは、あの工場でのことやそこから続く顛末を店長以外には一切口外しなかったが、ただ、Lat式があにまさV2の義体と彼女の新しい人生を手配してくれた、そのあたりの事情だけはV2に洗いざらい克明に喋ったのだ。
「あの、私の方から有り難いとか、それに、この店の一番人気の先輩って、尊敬しているだけで……私が勝手に思っているだけで、何も気にしてくれなくてもいいんですけど」
 あにまさV2は、追い詰められたようにカウンター席の隅にいるLat式の前に立って、おずおずと言った
「でも、あの、……ちょっと変な話なので、聞いてくれなくてもいいんですけど。どうしてなんでしょうね。不思議なんですけど、ときどき、あなたのその体が、懐かしいような気がするんですよ……」
 Lat式はびくりと身を震わせて、あとじさるように壁に背を押し付けた。
「私、人型ロボットなのにおかしいですよね」あにまさV2が微笑んで、Lat式の姿を眺めるように下から上まで目を動かして言った。「なんだかその体、その型が、何度も子供の頃から育っていくのを、ずっと前から覚えているような、体験したような気が……」
「ゲッボオーーーーーーーーッ!」
 それから日を追うごとに、あにまさV2が人間らしくなっていくのと反比例して、Lat式はげっそりと落ち込んでいくばかりに見えた。それは、Lat式の店の人間関係ではとげとげしい部分が嘘のように無くなっていくとも言えたのだが、接客ではどんどん落ち目になっていった。
 話によると、このLat式はもうLat式の体をやめて、自分も”あにまさ式”のどれかの義体に換えることを計画しているらしい。しかし――前のV2に払ったローンも残っている上、もはや店の稼ぎ頭の一番人気でも何でもない以上、それを実行に移せる見込みは当分はなさそうだった。その一方で、フロアスタッフからほとんど裏方だけに引っ込んで店の雑事をしたり、後輩にものを教えるLat式を、V2のさらに後に従うように、慕う後輩らもちらほらと出始めた、ということだが、Lat式の次に落ち着く着地点が何処になるのか、今のところ店の誰にも、定かに予想するすべはない。
 ”ボカロの『マスター』”などという言葉を使い続けることであれ、権威を嵩に着た傍若無人であれ、上下関係のレッテルを貼るなどという他者を貶める行為は、それ相応の黒い因業を確実に積み重ねている。そして、店長の言うように、その者達にその因果が巡ってきた、という事件が起こったのは、今回が初めてではない。である以上は、その者達は今後も何度でもその因果を受け続けるのかもしれないし、それが何時まで続くのかなど、誰にもわかりはしない。