かまいとたちの夜 第四夜 ミクとレン、その情熱と理想の果て

 シャワーから出た男が寝室に戻ったとき、ベッドの中の”彼女”は、もうすでに眠りに――ロボット駆動システムのスリープに――ついていると思っていたが、そうではなかった。男の肌を感じると間もなく、その腕がそっとからまって、柔らかい裸体の曲線が、男の体を撫でるように動いた。
「ねぇ、マスタァ……」暗闇の中、ささやくような声が、男の耳に近づいてきた。「ねぇ、あと一回だけ……」
 それは『初音ミク』型の人型ロボットだった。あの有名”あいどる”の姿を真似たロボットや義体は、正規不正規を含めて、多数が販売され、出回っている。そして、不正規なものの中には、性的欲求に答えるもの――あの”あいどる”の姿をしたアンドロイドとの毎夜の生活を求める人間の要求に答えるもの――を、見つけることは難しくなかった。
「まだ欲しいのか……? 俺のが」男はミクの裸体に手を這わせて言った。「エロい子だな……ミクは」
「だって……」ミクは男の耳元に口を寄せ、さらに声をひそめ、「マスターのが、気持ちいいんだもん……」
 やがて、ベッドの上の闇には、静かな吐息の合間に、ひそめ押さえているようなミクのかすかな声が断続的に漏れ出始めた。その声は、次第に甘く高く、吐息との間に漏れる間隔が狭くなってゆき、やがてのぼりつめるように、男とミクふたりの熱く湿った激しい喘ぎとなって、闇の中を満たした。
 ――が、異変が起こった。最初は、かすかな煙の臭いのみで、湯上りのミクの芳香のために、男にも気づかなかったようだった。
 しかし、どこからともかく立ち上るその発煙が、次第に薄暗い部屋の中でも見分けられるほどになったかと思うと、ミクの全身がその腰を中心に、ものすごい痙攣を起こした。それは女性の絶頂、というよりも、人間の動き以前に、むしろ大型ディーゼル車のエンストを思わせるような震動に見えた。
 それが終わると同時に、これも軽油の不完全燃焼のような、大量の灰色の煙が吹き出した。
 ミクの体躯はそのまま停止した。瞬きも呼吸もなく、白い体の線、滑らかな肌の表面の一部たりとも、それきり、もう二度と微動だにしなかった。ただ、煙だけは依然として、その体からたえまなく立ち上り続けていた。



 千葉市(チバ・シティ)の片隅のビルの地下に、VOCALOIDに似せた安物の人型ロボットのみが働く、低質な『ボカロコスプレ喫茶兼バー』のような店がある。
 その店の奥の、カウンターからかなり離れた席に座っている、男性客がひとりいた。まだ時間が早く、他の客の姿はない。客は不自然に、かなり落ち着かなげである。
「あの客は、俺との待ち合わせさ」カウンター席に掛けた”帯人”が言った。帯人自身は、『KAITO』型の人型ロボットだが、各所が眼帯や包帯で覆われ、その狭間に粗雑な機械義肢のちぐはぐなパーツがむき出しになっている。一応はVCLD型ロボットの一体だが、この店の店員ではない。入り浸っている客である。
「なんで離れて座ってるんだ?」隣に掛けている”アカイト”、髪や服のポイントが赤の『KAITO』型が尋ねた。
「俺と、あともうひとりを待ってるからさ。依頼してきた”商品”を持ってくるやつでね」
 帯人は、この周辺の街のストリート・ドクだった。サイボーグの補修からバイオロイドの治療までこなすが、医師(ドク)という言葉には語弊があるかもしれない。このあたりで頼まれることが最も多いのは、ここの店員たちのような人型ロボットの、”修理”だった。
「あの客が、俺のところに修理に持ち込んできた人型ロボットがあってな」帯人が言った。「『初音ミク』型だったんだが、その義体は、一体何をやったのか、下半身を中心に電子系統が完全にダメになってて、廃棄するしかなかった」
「じゃ、修理しようがなかったのかい」カウンターの中の、この店の女店長、”KAMAITO”――青い髪の凄艶な年増で、声がなぜか男声VCLDの『KAITO』のGENを調整したものに似ている――が、帯人に尋ねた。
「俺にはな。だが、電脳はすっかり無事だった。それで、俺の知り合いに頼んで、その電脳にちょうど合うような、空いてる義体を探してもらうことにしたんだ。その知り合いが、新しい義体に入ったそのロボットを、ここの外に運んでくれるのを待ってるのさ」
「あの客は単に、自分のミクが戻ってくるのが待ち遠しくて、落ち着かないってわけか」アカイトが、奥の席の客を見て、身に覚えでもあるかのように顎を撫でた。
「――来たらしい」やがて、帯人が時計を見ながら言うと、カウンターから立って、店の外の路地に続く階段を上っていった。
 それからしばらく経って、帯人がふたたび階段をおりて、店に入ってきた。客も首を延ばしているが、店長とアカイトも見守る中、帯人の背後から姿を見せたのは、――『初音ミク』型ロボットの姿ではなかった。それは、『鏡音レン』の姿だった。ほぼVCLDのレンと同型だが、髪と服のポイントの色が、初音ミクのような緑になっている。
 帯人はまっすぐ、客のいる席の方に、緑レンをつれて歩いていった。
「俺のミクはどこだ」客は帯人だけを見上げて、まず言った。
「ここだ。あんたに頼まれたあの人型ロボットなら」帯人は緑レンを指差し、何かをためらう様子もなく(包帯と眼帯のせいで元から表情には乏しいのだが)言った。「あの頭脳に『合う義体』を探してもらったら、こうなった」
「……つまり、どういうことだ」
「あんたに渡されたロボットのあの電脳は、『鏡音レン』型ロボット用のものだったんだ」帯人は淡々と言った。「つまり、今まであんたが持ってたあの人型ロボットは、体は『ミク』だったが、頭の中身、電脳は『レン』のものが入ってたんだ」
「なんでそんなことになってるんだ!」客は席から立ち上がって、緑のレンを睨んで叫んだ。「誰の仕業だよ!? ミクの電脳をレンのにすげかえやがったのか!? いつすりかわったんだ!?」
「いや、俺があんたから渡された時点から、確かにこのレンの電脳だよ」帯人が言った。
「……あの、その前から、最初から、ずっとボクです」と、緑レンが、おずおずと客に向かって言った。「あの初音ミクの体を、あなたが拾った時点から、ボクの頭脳でした。……あなたと一緒に暮らしている間ずっと、体はミクで、中身はレンだったんです」
 客は沈黙した。緑レンの姿を凝視したまま、絶句していた。
 何事かとアカイトがその席に歩み寄り、店長や他の店員の何人かも、その席を見つめた。
「ええ、説明しましょう。もう仕方ないので」
 緑レンが、うつむいたまま話しはじめた。
「実は、ボク、昔から、女の子のカラダにすごく興味があったんです」
「……ストレートすぎやしねぇかよ」アカイトが言った。
「そこで、自分で女の子の義体ボディを見つけて、それに、自分の電脳を入れることにしたんです。ようやく『初音ミク』型の空きボディを一体探し出して、”女の子の体とひとつになる”ことができました」
「……いや、そこからなんでそうなる、……ってか、そういう発想の飛躍はどうも理解できねぇんだが」アカイトがうめいた。
「とうてい人間ができる発想じゃないね」店長が言った。「まあ、この店に人間なんか居ないけどさ」
「女の子のカラダを知ったら、次は、『女の歓び』がどういうものか、どうしても知りたくなりました」緑レンは客を指差し、「なので、この人に拾われて、毎晩抱いてもらっていたんです」
 アカイトにも店長にも、もはや声もない。
「でも、これからは、ボクはどうしていいかわかりません……」緑レンは静かに告白した。「あれだけ自分のものにしたくて手に入れた、あの女の子のカラダも、もう無くしてしまいました。そして、今のこの体では、『女の歓び』を感じることもできない……これからどうやって生きていけばいいのか……」
「そんな……かわいそう……」
 話を聞いていたここの店員の一体、”緑リン”が、傍らで緑レンを見上げて言った。髪と服のポイントが緑色の、『鏡音リン』型の人型ロボットだった。
「かわいそうなんて、そんなんじゃないよ」緑レンは吐き捨てるように言った。「ボクはいつも、女の体、肉体の歓びだけが目当てなんだ。世間では、『体だけが目当てで女を求めるようなのは最低の下劣な男』っていうんだよね。義体を探していた頃に聞いたことがあるよ。……でも、それでも止められなかった。カラダと、肉体の歓びだけを求める以外の生き方が、どうしてもできなかった。そう、ボクは下劣な男なのさ……」
「体が目当てでもいいじゃない。それで一番幸せになれるんなら。幸せになりたいって、それを本当に探すなら、それでもいいじゃない」緑リンは潤ませた目で、緑レンを正面から正視して言った。「ねえ、……私、1日おきに体、とっかえっこしてあげるよ」
 緑レンは目を見開いて、緑リンを見つめた。
「私も……男の子のカラダに興味があるから……」緑リンは緑レンに体を寄せ、耳元に囁くように言った。「ねぇ、これから毎日……ふたりで一緒に気持ち良くなろうよ……」
 緑リンと緑レンは、どちらからともなく目を閉じた。そのまま、ふたりは静かに口づけを交わした。
「ちょっと待て! 俺はどうなるんだ!」客が叫んだ。
「――は? あんた、まだいたの?」
 緑レンが眉をひそめて客を振り向いた。捨て忘れたゴミ袋でも見るような目だった。
「俺の、あのミクはどうなるんだ! 俺のだぞ! 帰ってこないのか!」
「あんたも結局、体だけが目当てなんだろ? だけど、あの体はもう無いよ」緑レンは緑リンに手を回したまま、顔だけ客に向けてなげやりに言った。「ボクだってそうだよ。あのミクの体と、あんたの体だけ目当てだった。けど、もうどっちも要らなくなった。あの体にも、あんたの体にも何も用はないよ」
「俺にはまだあのミクに用があるんだよ! あれは俺のだぞ!」
「いや、まだ用があるったって、以前のミクの義体ボディなら、もう修理できなくてスクラップってことだぜ」アカイトが、ようやく口を開いてから、緑レンの頭を指差し、「で、中味、アタマは――あのアタマだろ?」
「あれは男でレンだろ! 俺のところにいたのは女のミクだよ! あんなのじゃない!」客も緑レンを指差して言った。
「そう言ったってな、ああなった以上」アカイトは、もうこっちを見もせずに寄り添う緑リンと緑レンに、当惑まじりに目をやりつつも、「たぶん、もう今後あいつは女ミクの別ボディをかぶったり演じちゃくれないだろうし、あんたの所にも戻っちゃくれねぇぜ」
「あんなレンの事情なんて知るかよ! 俺が言ってるのは、『俺のミク』を、おまえらが返せってことだよ!」
「だから、『あんたのミク』は喪失した、――っていうより、つまり、そんなのは最初っから存在しなかったんだろ? あんたが毎晩抱いてたのは間違いなくレンで、男だよ。あんたのミクってのは、実在しない理想だった」店長が言った。「理想は人によって違う。自分の理想とする通りのものが手に入るか、そもそもそれは実在してるのかどうかもわからない。まあ、あのリンとレンの理想はそんな中でも、かなりぶっとんじゃいるけど――ともかく、あいつらは望み通りのものを手に入れたようじゃあるけどね」
「なのに、なんで俺の方だけこんな目にあうんだよ! 俺は普通のミクの、普通のマスターなだけだったんだぞ!」
「『マスター』なんて代物の、どこが普通なんだい?」店長が肩をすくめて言った。「PCソフトウェアだかロボットだかに金を払いさえすれば、誰にでも、VCLDが自分のところにやってきて、『マスター』になれて、抱くなりなんなり言いなりの思い通り。本当に、そんなのが『普通』だと思ってたわけかい? そんな理想なら手に入って当然、そんな美味い話があるとでも思ったのかい?」



 それからしばらく月日が経ったのち、店に来た帯人の話によると、あの緑リンと緑レンは千葉(チバ)の片隅で一緒に暮らしてはいた。が、やがて、両者ともふたたび帯人のところに運び込まれてきたという。両者の義体はいずれも、さきのミクボディとよく似た状況、下半身から激しく発煙して停止し――つまり、下半身を中心に電子系統が負荷のかけすぎで激しく焼き切れ、やはりボディが完全に修理不能となっていたとのことだった。
「どうもあの故障は、あのタイプの人型ロボット用電脳を、逆の性別、つまり男性型の電脳を女のボディ、女性型を男のボディに入れると、起こることがあるらしい。本来は存在しない器官に対して、制御や入出力がうまくいかない、というか多分に、かえってヤりすぎで加減がきかなくなるみたいだな」店のカウンターに掛けた帯人が言った。
「あの客のミクボディで最初に起こったのも、それだったわけか」アカイトが言い、「じゃ、また新しい、次の義体に入れてやるのか?」
「実は今のところ、あいつらの義体を新調してやるかどうかわからん。費用を払うやつが居ないからだ」帯人が言った。「一応、あの例の客にも連絡しようとしてみたんだがな。調べたところ、どうも、あの客はもう、生きちゃいないらしい」
「何だ? 何か関係ある話なのかよ」
「話によると、あの客はあれ以来、何かにとりつかれたように手当たり次第に、いろんな『初音ミク』型ロボットを試していたらしいんだが」帯人が言った。「不正規の粗悪品ロボットにぶち当たったらしく、結合中に、ある部分が爆発して下半身が丸ごと吹っ飛び、事故死した」
「あの緑レンに、もとい、ミクボディにしてもらった、”回路が焼け付くほどの情熱のプレイ”が忘れられずに、色々試した結果がそれってわけか」アカイトは眉根に皺を寄せ、七難しく考え込むように曲げた指を顎に当てた。
「理想を追っかけるには代償が要るんだよ」店長が言った。「結果的に手に入ろうが入るまいが、さ」