Troublesome Gemini (3)


「何をじろじろ見てんのよ」携帯オーディオプレーヤを操作しているように見えた鏡音リンは、不意に、顔だけ上げて、レンを叱り付けるように鋭く言った。
 しまった、と思った。今日レンは自分では、できるだけリンの方を見ないようにしていたつもりだったのだ。だが、どうにもその姿を伺いたくなるのを、止めることはできていなかったようだ。
 もはや、見ていないだとか、何でもないだとか、ごまかしてもしょうがない。このリンが相手では。
「見られてどうにかなるような、ご大層なモンじゃないだろ……」レンは動揺を押し隠し、精一杯、機嫌を損ねた様子を演じるため、そっぽを向いて言った。
「ああそう、ご大層でないモノならどんな時でも見放題って性根なワケ!?」リンが思い切り眉をひそめていった。「最低限のデリカシーとか自制心てやつがあるでしょうが」
 レンは、そのリンのとげとげしい表情を、また思わずしばらく見つめてしまったが、すぐに、また気づかれる前に目をそらした。
 そしてレンは、今のリンの言葉とは、まったく関係のないことを考えこんだ。……あの夢の中のリンの姿を思い出し、それと、この普段通りの口うるさい”姉”のリンがどうにも繋がらないこと……そして、はたしてリンの側もあの夢を見ていたかどうか、それを何か推測させるものがあるだろうかと思ったが、リンの口調にも表情にも、何もない。リンはまったくいつもと同じである。
 ならば、どうすればいい? リンがあの夢を見たかどうかを知るには。いくらリンに対してであっても、自分の夢を説明して『そんな夢を見たかどうか』などと、尋ねるわけにはいかないではないか。
 ──考えてみれば、リンが自分をどう見ているか、自分をどう思っているか。これまでは、レンはそんなことを気にしたことなどなかった。レンがリンにどんな不躾な視線を送っても、どんな不躾なことをしても、それでリンの機嫌を損ねることなど、レンは気がねしたことなどなかった。だが、リンに夢について尋ねられないのは、つまりレンが、リンにどう思われるかを気にし始めたからだ。
 いや、いっそのこと、思い切ってリンにじかに尋ねてしまって、ハリ倒されて終わった方が、気が楽になるんじゃないだろうか、とさえ思う。しかし、仮に尋ねたとして、リンは本当のことをレンに答えるだろうか? リンに、本人がいつも言うとおりに、レンよりも分別があるなら、本当のことなど答えはしないという気がする。
 それ以上に──もし聞いてしまったとして、リンに、『そんな夢は見ていない』とはっきり返答されるのが、レンは何故だか妙に怖かった。



「あ、おねぇちゃん、どしたの」呆然と考え込んでいるレンに対して、リンが先に気づいたのか、一方を見上げて言った。
「心配になって……」見ると、初音ミクが言いながら、リンとレンのもとに歩み寄ってくるところだった。
「ふたりとも、調子はどうですか」さらに、そのミクの後ろについて歩いてきた、巡音ルカが言った。「MEIKO姉さんから聞いたところでは、メンテナンスで色々と問題が起こって、リンもレンも、あまり調子が良くないだとか」
「まぁ、いつもと違うこと、機能試験とかばっかりやってると、何か調子狂うってのはあるけど」リンは膝に頬杖をついて、ミクとルカにけだるげに言った。
「その……リン、もう大丈夫なの?」ミクはそのリンを心配げに覗き込むように、小さく言った。「MEIKO姉さんが言うには……昨日、技術スタッフの人達の大勢からよってたかって……」
「何が。何を」
「リンの穴が小さすぎて、無理矢理に挿れられて『ひぎいっ!』ってなったって……」ミクが心配げに言った。
「何の話!?」リンは悲鳴のように言った。
「イヤホンだと思われます」ルカが無表情で補足した。
「もう何もしゃべんなあの女は!」リンは激しくMEIKOを罵倒してから、ミクを振り返って指差し、「てか、おねぇちゃんは、MEIKO姉さんのそういう台詞をそっくりそのまんま口にしちゃダメ!」
「じゃ、どう口にすればいいの……」
「そりゃおねぇちゃんが自力でアレンジしてから……いや……無理だ……もういい」リンは頭を抱えた。
 リンは、レンだけでなくときどきミクに対しても、こういう保護する”姉”のような、というよりさらに上のMEIKOに対してすらフォローする役に回ることがある。レンがここに来る前にも、リンがMEIKOやミクに対してこんな役割を余儀なくされていたのであれば、双子のレンに対しても姉の役割を背負い込むのは、必然だったのだろう。
「……何ボーっとしてんのよ」と、リンが突如、レンを振り向いてとがめた。レンははっとして、慌てて(無駄な努力ではあるが)リンから顔をそらした。レンは、さっきのあの『台詞』がミクの口から出たことのあまりの動転に、呆然としたままだった。そのミクの声のみならず、その唇の動きまで目に焼きついてしまったようで、ただぼんやりとそれを思い起こしていたのだった。
 レンが、いつも女性を感じる対象がミクだ。リンが、いつも近くにいてもそれが当たり前のように思えるのとは対照的で、ただ近くに来るだけ、ささいな仕草を目にするだけで、胸が高鳴る。そればかりか、初音ミクの、天真を通り越して常識の欠如した振る舞いの数々は、ときおりレンの理性のたがさえも外しかねないものだった。
「その……レンのことなんだけど」そのミクが、レンの前に歩み寄った。「姉さんが……レンが、メンテナンスの間、寝覚めが悪くなったりとかで、かなり悩んでるって」
 レンはぎくりとした。MEIKOはひょっとすると、よりによって初音ミクに、レンの夢について、何か口をすべらせたのではないだろうか。実際は、ミクは男女の機微にうといどころか、日常生活のテンポにもついてゆけないほどに天真かつ無垢(リンの言葉を借りれば、ミクはKAITOともども、頭がカラッポ同然のフラワーガーデン状態)なので、ミクがMEIKOから生半可なことを聞いたとしても、リンとレンの関係について理解できる道理がない。しかし、レンにはそんなことまで考えが及ばず、ただ、ミクにどう思われているかが心配だった。
「何か、具合が悪いところはない……」ミクは、心配げにレンの顔を覗き込んだ。
「いや……別にないけど、ええと」レンは口ごもり、ミクの視線から恥ずかしげに目をそらし、耳のインカムのデータ入出力端子に手を伸ばして言った。「そういえば、ちょっと……電脳試験が続いて目が覚めると、頭が痛いとか、端子の接触がチリチリするとか」
「レンのそれはいつもとおんなじでしょ。軽々しく不満をもらさないの」リンはいかにも興味なさそうに、携帯プレーヤを操作し続けた。



「インカムの接続の調子でしょうか」と、巡音ルカの方が、レンの前に回りこむように歩み寄って言った。「調べてみます」
 レンは、ルカが近づいてきたので、その衣擦れと髪の豊かさ、薄手のVOCALOID衣装に包まれた肢体の存在感をいきなり目の前に感じ、ためらうように目をそらした。といっても、頭を動かしたりすればルカがインカムを調べにくい。
 リンとレンの”義妹”巡音ルカは、レンよりも電子アイドルとしてのデビューはだいぶ後だが、設定年齢はかなり上である。それは、ルカが外国語の歌を歌えるように、長期間海外で育成を経たためだった。海外で、VOCALOID姉妹の最年長のMIRIAMのもとで長期間修行を経たルカは、電脳や機械をはじめ様々な知識と技術を有している。
 ルカは、かがみこんで、レンの首の後ろに手を回した。ルカは、レン自身も知らないインカムや電脳の機能について調整を行うようだった。ルカはそのまま胸にレンを引き寄せ、ほとんどレンの首を抱くようにして、両腕を動かした。
 レンは硬直した。ルカの腕が動くごとに、目の前で、大人の女性としてもことに豊満なルカの体の線、その胸の曲線が音もなく柔らかく動いた。豊かな髪と服の香りに、芳香にあてられて痺れたかのようにレンは固まり、されるままになっていた。……だが、実はルカ(やMEIKO)によるこういう光景は、普段から珍しいことではなかった。ルカはそもそもレンに対してはこういった行動を故意にやっているのかそうでないのか、わからないことが多い。あからさまに楽しんでいるMEIKOとは、無表情であること以外は大差がない。そんな思わせぶりな無表情さが逆にレンをあれやこれやでかき乱す、MEIKOと違う類の大人の女性がルカだった。
 ルカが、レンのインカムの調整を終えて、離れた後も、レンはその場に座ったきり、そのままの視線で呆然としていた。が、
「へぶし!」
 そのレンの鼻面に、リンの裏拳が深々とめりこんだ。
「何すんだよ!」
「いつまで顔を間延びさせたままでいるんだヨ!」リンが叫んだ。
 レンはためらい、一寸の間を置いて、やがて低く言った。
「……リンには関係ないことだろ!」
 こう言ってみた。
「ある!」しかしリンは言って、レンの顔面を指差し、「目から、鼻の下から、顎から、全部緩みっぱなし。伸ばすのはいいよ。目を離せないのもまあ仕方ないよ。でもね!」 
 リンは、レンを指した指を上下に動かした。「目線が、目の前にあるモノ、ルカのムネが動くのにあわせて、完全に同調して、ゆっさゆっさと上下。……みっともないにも物の限度ってやつがあるっての! せめて抑える努力くらいすれよ、この自制心皆無の自爆小僧(ウィルスン)がッ」
 リンは両拳を握り、腰に当て、
「なんかの撮影のときにでも、ルカや私の隣でそこまで間抜け面されでもしたら、私らは”関係ないこと”とかの言い訳じゃ済まないのヨ!」
「私にも原因があるようです」ルカが能面のような完璧な無表情で言った。「私も、レンの目の前で例えば上下に跳ねたり前かがみになって胸を両脇で挟んだり、そういうことをするときも、気をつけながらやります」
「何をどう気をつけながら結局やるってんだヨ」
 リンはルカに低く言ってから、
「いや完全に本人の問題! 誰が何をしたってしなくったって同じなんだから! おねぇちゃんもルカも誰もいなければ、さっきやってたみたいに私をジロジロ変な目で見たりするんだから! 本人が自重しない限りは何をどうやったって同じ!」リンは携帯プレーヤの電源をぶちりと切って言った。「……ちょっと、レン、聞いてんの! まだデレデレするかッ」
 一応、聞いてはいたのだが、レンはやはり別のことも考えていた。今しがたのルカの肢体に対する誘惑……から意識をとりもどしたレンの頭に、ふたたびよぎったのは、リンがあの夢を見ていたか、レンに対して、何かあの夢の中で示したような感情を抱いているのか、である。
 今のものを含めて、一連のレンの、ミクやルカに対する様子を見て、リンは、いわゆる嫉妬などをしたような様子が何もない。このリンの怒り方は、普段通り、本当に単にみっともないものを叱り付けているだけである。レンが女性周りに関係なく、別のヘマをやったとしても、まったく同じ怒り方だろう。
 ということは、リンはレンを一切男性として意識していない、あの夢の中でのリンは、やはりレンの頭の中だけの妄想に過ぎないのか?
 ……だが、わからない。仮にリンがあの夢を見ていたとしても、リンが自分で言ったようなレンと違う最低限のデリカシーやら、自制や自重ができるとすれば、夢のこと、増して夢の中で自分が行ったあんなことなど、何も表になど出さないかもしれない。あるいは──レン同様に相手に否定・拒否されることを恐れているのだとすれば、なおさら口でなど言い出さないのではないか? 
 果たして、リンのレンに対する意識は一体どちらなのか。しかしリンがレンに何かを思っていたとして、レンは一体どうしたらいいのか? 考えれば考えるほどレンにはわからず、その悩みは膨らんでいくばかりだった。



(続)