地ミクdeメガネ

 鏡音レンの目の前のその女性は、ふらふらと覚束ない足取りで、目の焦点も合わずに、家の玄関の傍を通ってゆくところだった。厚手のパーカーにロングスカートの恐ろしく野暮ったい服装といい、無造作に伸ばしたまま櫛も入れていないような髪といい、通りすがりの、何かのアブナイ人に違いない、とレンはそのときは思った。……ふと、どこか見覚えがあるような気もしたのだが、目をこらすために激しくしかめられたその女性の表情からは、やはりまるで思い出すことができない。
 家の前の道ぞいに設置された郵便受けの方に、ふらふらと近づいていくのが、今にもぶつかりそうで危なっかしいとは思えたが、どうやら家を離れていくように思えたので、レンは目を離した。
 ドグチアッ。胸の悪くなるような音が響き渡り、ぎょっとしてレンは再び振り向いた。
 位置から見て郵便受けに頭が直撃したことは疑いようもないその女性は、糸の切れた操り人形の如く手足を泳がせながら、スローモーションのようにゆっくりと倒れてゆくところだった。レンは呆然と、その姿を見守った。
 と、その姿を白コートの両腕が抱きとめた。
 ──KAITOは、いつも家族からもテンポがずれていて、やたらと周りの行動について来ず、居るべき時に居なかったりするのだが、何か特定の状況においては唐突に出現するのが、レンにはいつも不思議でならない。KAITOはその女性を抱きとめたまま、できるだけ動かさないようにか、その場にそっと膝をついて見守った。
「あーっ! こんなとこまで迷い出てた!」と、レンの背後からリンの叫び声がした。
 レンが振り向くと、家の方からMEIKOとリンが駆けてくるところだった。二人はKAITOに近づくと、支えられた女性の顔をのぞきこんだ。
「何かにぶつかったみたいだ」KAITOは二人に言った。「動かさなければ大丈夫だろう」
「……あ、あのよ、リン」レンは、リンの背後からそっと囁いた。
「なにさ?」リンは眉をひそめて、実に面倒そうにレンを振り向いた。
「その女性(ヒト)って……だれ」
「だれって、……おねぇちゃんでしょや」リンはさらに面倒そうに言った。
 レンは意識を失っている女性を一旦覗き込んだ。しばらくしてから、
「まっ、マジかよッ」レンは目を見開いた。
 このあまりにも地味な見かけの、アブナイ足取りの女性が、あの清らかでほのかに甘い、かすかに年上の香りが常日頃レンの気になる"姉"、あの初音ミクだというのか。服だけで変わりすぎだ。いや、明らかに服だけの問題ではない。……しかし、言われてみれば、KAITOの腕に抱きかかえられて目を閉じているという、なにやら見慣れた状況の光景を見ると、確かにミクに見えないでもない……
「あーーーーーーー!!」
 レンは突如、気づいて絶叫した。
「なにさ!?」リンがまた面倒そうに振り向いた。
「ボクがやればよかっ……」ミクだとわかっていれば、自分が飛び出して抱きとめればよかったのだ。ミクをこの手で助け、あの香りと柔らかみにこの手で触れられる、千載一遇の機会を逃してしまった。が、レンは即座にリンに対してはそれを飲み込み、無意味に強がるように、「な、……なんでもねぇよッ」
「なんでもねぇんなら静かにしてれよ、こったらゆるくない時にッ!」リンの道東方面訛りは、なぜかレンが家にやってきて以後、かなりひどくなっていた。
「……うん、今のこのミクの格好なんだけど」MEIKOが、そんなレンに説明するように言った。「ミクのあのいつものステージ用の服って、高機能の収録補助機器、入出力プログラム構造物の塊でしょう。あれ、見かけよりはかなり軽いんだけど、レン達の服の構造物以上に、AI本体には普段から負荷がかなりかかってるはずなのよ。……で、あの忙しさで、このところあれを着っぱなし、負荷がひどかったから、休みの日くらいは着替えるようにすすめてみたわけ。それが、今の格好ね」
 MEIKOは、意識のないミクに目を移してから、
「だけど、今まで感覚や知覚を、あのステージ用の服の多機能に頼りすぎてたもんだから、逆に、それが急になくなったせいで、ミクは機能不全を起こしたんだと思うんだけど」
「それであのフラフラか……」レンは呟いた。
 と、不意に、ミクがKAITOの腕の中で身じろぎすると、何か、やけに艶っぽい声を出した。「んっ……」
 レンはその声にそわそわと膝を動かした。即座に、リンの肘鉄が飛んだ。
「いでェッ!!」
「なんでアンタはそんなに落ち着きないのさ!」
 ミクはうっすらと目をあけ、KAITOを見上げ、ついで周囲の皆を見回した。
「大丈夫かい」KAITOが優しく言った。
「うん、……もう大丈夫だと思うけど……」ミクはかすかな声で言ってから、立ち上がろうとするのか、身じろぎした。
「さっきから、うまく立って歩けないんだろう?」そんなミクにKAITOが言った。「どこの具合が悪くて、そうなのか言ってごらん」
「歩けるけど……ただ、歩いてると、なんだか目がクラクラするの」
「視力か……そこが機能の不全点ね」MEIKOが考え込んでから、「そうだ、……KAITO、アンタが前に貰った、"奇蓄眼鏡"が使えないかしら?」
 KAITOは頷いた。……MEIKOは家に入ると、やがて、小さなメガネを持って戻ってきた。
「キチクメガネって」リンがいかがわしいものでも見るように、それを見た。
「前に、KAITOがなんとかいうドラマの収録が終わった時に、ついでに貰ったのよ。奇蓄眼鏡はそのドラマの劇の中での呼び名でね」MEIKOはメガネのつるを調整しつつ、「本当はこれ、BL──じゃなかった、VLグラス、オノ=センダイ社製の全感覚"ヴァーチャル・ライト"グラスなのよ。周りの映像を視神経に直接とか、あとほかの全感覚の情報も、かけた者の感覚にじかに送り込む機器なわけ……元々、ハンデとかで感覚が弱まった人間のための、補助用のツールプログラムなんだけどね」
 ミクは調整されたVLグラスをMEIKOから受け取って、かけてから、しばらくまばたきした。
「うん……かなり楽になったわ」
 ミクは立ち上がった。まだ少しふらついているが、むしろ新しい感覚に馴れないためかもしれない。目の焦点もあっている。感覚が補強されて、さらに無理がなくなっているためか、むしろ裸眼よりも目つきが素直にも見える。
「……わたし、さっき、どうしてたの」ミクはふと袖を頬に当て、自分を抱えていたKAITOを見た。
「倒れたんだよ」KAITOが優しく言った。郵便受けに真向顔面直撃、などとは言わないのが、故意なのか否かは不明である。「倒れそうなところを、レンが見つけてくれて、みんなで駆けつけたんだよ」
「本当?」ミクはかすかに屈んでレンを見下ろし、目を細めるように笑みかけた。「レン、ありがとう」
「いや、ボクは別に、なんにも……」
 ミクの視線に、レンの胸がかすかに高鳴った。確かにひどく地味だが、縛らずに豊かに流れ広がっている髪や、メガネの知性が与えているような大人っぽさには、何か別の、言い知れない──



 しかし、程なくして、リンとレンはメガネをかけた地味なミクからは、日々、なんとも形容しがたい音響が発せられていることに気づいた。最初は気のせいだと思っていたが、足音や、衣擦れその他の挙措のすべてに伴って出てくる。それは、何かの複雑なシステムが共鳴か摩擦を起こしているような音らしいが、全身がむずがゆくなってくるほどに、とにかく奇妙な音で、あえて文字としてあらわすなら「みく みく」というような足音などだ。(→参照
「あの音って、なんなの」あるとき、リンが青い顔をして言った。「てか、あれ、止められないわけ」
「AI本来の予定の構造物に、追加で予定外のVLグラスをかけてるせいで、電脳内イメージ全体のバランスが変になってんのよ、多分」MEIKOは平然と言った。「そのノイズじゃないの。収録時以外なら、音くらい別にいいしょ」
 それどころか、よく聞いてみると、この格好のミクは何も動いていないときも、何かエンジンのアイドリング音のように、
「みくみくみくみくみくみくみくみくみくみく……」
 というような音が、かすかに響き続けていることにも気づく。リンによると、布団をかぶっている時すらも、この音がするということだった。
 この地味な着替姿にメガネのミクが、今でも少しふらつくたびに、レンは次こそは手をかすために飛び出そう、と思ってはいるのだが、あの背筋を這い登ってくるような変な音のおよぼす感覚には、なぜか反射的に近づくのをためらってしまうのだった。