ラーメン屋と乱れ髪

 《札幌(サッポロ)》の現地人は普段ならば、ススキノのラーメン横丁の味噌ラーメンをめぐるのではなく、もっと街の片隅にあるような小さな店の醤油ラーメンの、拾い物の味を少しずつ探すようにつとめる。それは、物理空間そっくりにネットワーク上に構築された電脳空間(サイバースペース)の街並みでも同じことである。
 KAITOとミクは、そんな店を探したことなどなかったが、別の用で近くのエリアを通りかかったため、前にMEIKOから場所を教わっていたことのある小さな店に立ち寄った。
 店はひどく狭く、繁盛して一杯の客が座っていると、その背後を通り抜けることもできなかった。二体のVOCALOIDは冬用の上着をかき寄せ、その客達の背後でしばらく待った。
「……あ」ふと、ミクが気づいて髪に手をやった。「忘れてた。この髪のままじゃ、食べられない」
 麺類の店の中で器にほつれ出る危険性は、髪の長く多い女性の宿命で、ミクは縛ってはいるが、テールの両サイドの位置とこの髪の量では、いかにもあやうい。
「今日はやめる?」KAITOが聞いた。
「でも、せっかく寄ったんだし……」ミクは言いながら、髪を何とか邪魔にならない形でまとめられないかと、いじり始めたが、具体的にどうしようとも定まらない。
「自分じゃできないよ。スペースもないし。……いい?」KAITOは一言断ってから、ミクの髪に触れ、相変わらず器用で繊細な手先で結い始めた。
 本当はミクの背後からか、できれば椅子に掛けた後ろからの方がいいのだが、今はそんなスペースはない。KAITOは向かい合ったまま、ミクの頭に手を伸ばしていた。ミクのどきりとしたことには、そのミクの上体を、腕で覆い、かき抱くような形で、髪を直していることだった。互いの体が押し付けられるほど近くで向かい合いながら、KAITOはミクの頭を、胸に抱きしめているように見えなくもない。
 そうすべきか否か迷ったが、ミクはKAITOの胸に、支えるように手を当てた。しかし、身を離すためのつかえなのか、寄りかかるためなのか、どちらともつかない形になった。
 そのまま、ミクには窮屈さと──ひどい上気と動悸の胸の苦しさとで──早く過ぎて欲しいのか、それとも過ぎて欲しくないのか、よくわからない時間が流れた。
「さ、できた」
 KAITOが編んだミクの髪は、後ろにまとめていくように縛り、上着の下に覆いこむようにしていた。不自然だが、座って食べる間くらいは大丈夫だろう。
 身を離すべきだという焦りと、その腕の中への未練に挟まれた挙句、ミクはおずおずとそこから一歩を引いた。
 と、振り返ると、店がからっぽになっていた。そもそも、今の窮屈さを強いられた原因だった、混雑はどこへやら──
「誰もいなくなってる……」ミクは呟いた。
「いや、皆、食べ終わっただけだけど」残った店の主人が言った。「でも、まあ……そりゃ、居づらいよ。そんな景色を見せつけられてたら、ねえ」
「よくわからないけど」"そんな景色"の意味は、KAITOには本当によくわかっていないようだった。「商売の邪魔をしちゃったのかな……」
「いや、いいんだよ。あらかじめ、MEIKOさんから聞いてたから……すぐ下の弟さん妹さんには、『周りがとてもついていけない』って言葉だけは」