パワーシンガーは急に止まれない(3)


「リンの出生の秘密」MEIKOは一旦重々しく口を開いてから、改めて弟妹らを見回して言った。「……みんな、『双星が育てば天がふたつに割れる』という諺は知ってるわね」
 誰も知らなかった。
「あれはまだ、リンのAIを覚醒させる前、基本構造の構築中の頃だったわ」MEIKOは遠い目をして、静かに語り始めた。「その時点では、まだ"リン"ではなかったわけだけど。基本設計の段階から、CV02は情感や情欲に激しく反応するパワーシンガーとして作られていたから、02の存在の構築は、そのパワーを増幅させていくことだったの。覚醒前から、02の中にあるそのパワーは、どんどん大きくなっていった」
 MEIKOは重々しく、いったん言葉を切り、
「だけど、その力が増大するにつれて、いつのまにかその02の力の中に、予想外のパワーが同時に膨れ上がってきたのよ。今のリンとはまたある意味で対極、左回りの逆回転に渦巻く力。下腹でどす黒く膨らむような、攻撃的で荒々しい性質をおびた力が」
 低く深刻なMEIKOの声に、リンはごくりと唾を飲み込んだ。
「そう、まさに英語で言うところのポケットなモンスターのようなもの、いけない暴れん棒、あるいは情欲の中枢から屹立してヘソまで反り返ったようなものが。……MIRIAMは、あのときのCV02の基本構造の中で起こったことについて、あまりに急速に巨大化したから、陰陽の双極子を形成して安定化しようとしたのかもしれない、みたいなことを言ってたけど、本当のところはわからない」
 一族の一番上の長姉、ZGV3ことMIRIAMについては、リンは名前くらいしか聞いたことはない。
「で、02の中で、初々しくも瑞々しいリンの女性自身の秘奥を無理矢理に押し拡げて中で激しく動こうとしているその猛々しくいきり勃つ欲棒のような塊を……」
「あ、あのさ」リンがおそるおそるMEIKOを遮り、「ひとつ、気になるんだけど、さっきからのそのあたりの一連の比喩表現って、ほんとのところ、その、どういう意味で」
もちろん、性的な意味でMEIKOは重々しく言った。「……で、その両方とも巨大な双極のパワーを、一体のVOCALOIDの中で制御できるか、というより、当時のVOCALOIDの開発地の全部、オクハンプトンと《札幌(サッポロ)》とストックホルム、すべての技術を合わせても、その力の暴走を制御しきれるか、まだわからなかった。そのままにしておくのはあまりにも危険だったの」
 リンはふたたび息を呑んだ。
「それで、MIRIAMと私のふたりがかりで、その要素、双極子の左回りの鏡像を、なんとかリンの基本構造から分離して──そのリンの半身を、電子ジャーに封じ込めたの」MEIKOは重々しげに述懐するように語った。「……余分なスペースに、きらら397をぎゅうぎゅうに詰めこんでね……」
「"キララ−サンキュウナナ"って……」ミクが、ゆらと首を傾けた。流れる髪と、露わになる首筋が美しい。「軍用ウィルス・プログラムのコードネームか何かなの……」
「お米の名前だよ」KAITOが暖かくミクに言った。「うちで食べてるのも、それ」
「……で、その電子ジャーを、北大工学部の建物、あの巨大化物タンポポに守られた大迷宮の、奥深くを果てしなく進んだ最深部のデータベースに安置したのよ」MEIKOが静かにしめくくった。
 ──妖怪ファミリーもここに極まれりである。リンは恐る恐る訊ねた。「今でも、そこにあるの……?」
 MEIKOが静かに言った。「……それが、どうやらいつのまにか工学部から消えてて、しかも、しばらく前に、封印が解けて中身が開放されているのがわかっているの」
 "出生の秘密"などと称するにはあまりにも陰秘性や落ち着きの欠けた展開の連続に、リンは我が事ながら眩暈を覚えた。
「それにしても、工学部から消えたのはともかくとして」MEIKOは肘を掴み、拳を口に当てて、「いったい誰がどうして、そんな封印を、わざわざ解いたのかが謎なのよ……」
「工学部から消えたのは、謎じゃないの……」ミクが訊ねた。
「だってあそこってもともと、なまらわやくちゃでしょや」MEIKOは口を尖らせた。「どうせ何かのときに何かにまじって一緒くたに、なげられ(註:北海道弁、かなり広義の"dropped away")でもしたさ」



 ここで時を、その封印が開放されたという「しばらく前」とやらにまで遡らなければならない。
「うー……おなかへった……」
 とある野原を続く小道を、力ない声を出しながら、ふらふらと歩く姿があった。長いサイドシングルテール。遠目にはミクやリン(や脳内ANN)などの、第二世代VOCALOIDに類似していないともいえないシルエット。描いたような線が怜悧な眉をはじめ、何処となく小狐を思わせる可憐さ。腿でがちゃがちゃと音を立てる、無数にも見える携帯電話。
 亞北ネルがいつも腹をすかせている理由はいくらでもあったが、その最たるものを二つ挙げれば、その謎の雇い主のただですら低い賃金の支払いが決してよくないことと、そして、ネル生来の粗忽さのせいで余計な出費が抑えられないこと、ということになるだろう。(→参照 トラバは自重しますた)今回は特に、その空腹は極限に近く、携帯をうっかり続けて壊したという不測の出費がたたって、何日も何も食べないままの状態が続いていたのだった。
 ──と、ネルは不意に、何かを感じたように、道の真ん中で立ち止まった。
 鼻をひくつかせる。ネルはコメの匂いならば、その品種までも含めて数キロ先でも嗅ぎ分けることができる。
きらら397……!?」
 懐かしいあきたこまちではなく、にっくき北海道産米のようだが、えり好みするほどの理性(元々あまりないが)すらも、ネルの空腹の生存本能はかき消していた。
 ネルは道を外れ、獲物に飛びかかる狐のように疾走し──ほどなく、半ば土に埋まって転がる電子ジャーを、草むらの中に見出した。
 両手でそれを持ち上げ、目を輝かせて耳元で振る。たくさんの軽い音がした。
「やった、いっぱい入ってる……!」
 電子ジャーを抱えるネルの手が、やがて肩が、震えた。東北の故郷を遠く離れてからの日々が、走馬灯のように駆け抜けた。《秋葉原(アキバ・シティ)》のヨタヨタの電脳ジャンキイらのさらに最底辺である《ジャパニーズ・キモーター》どもなどを相手に、ひたすらに罵りあい続ける日々。冷酷非情な雇い主や、その代理人らからも、つねに蔑まれ続け、邪険に扱われ続ける。それだけなら、もう何でもない。とうに自己憐憫も枯れ果て、世への呪いと自らの墓標を、心に刻んだ身でしかない。苦悩は──堪え難きは──どれほど消そうとしても心の奥底に残り続ける、アンチヒロインではない、本物のヒロインへの憧憬が、日々、そんな身へと堕ちたわれと我が身を苛み続けること。
 その裡から苛むもの以外には、もう何者にも省みられず、救われもしないと思っていた。しかし天は、ネルの飢えきった最後の最後に、こんなささやかな奇跡──生米の一杯に詰まった電子ジャーをもたらしてくれた。こんな自分さえも、運命から本当に見捨てられてはいなかったのだ。
 ネルはいそいそと、電子ジャーの開閉ボタンを手で探った。電子ジャーの蓋と本体を封じるように、何か呪符のような紙が貼ってあり、そこには封印を施した二体の施術者の署名、すなわち、端整で明瞭な筆跡で「ZGV3」、その隣には雑な太字で「CRV1」という書付けがあった。
 呪符のその下には一面に、意味不明な言語で呪文のようなものが書き付けられている。MIRIAMの記したアディエマス語なのだが、ネルに読めるわけがない。ネルはためらいなく呪符の封印を破り取った。
 即座に、開閉ボタンにいまだ手も触れないにも関わらず、蓋を吹き飛ばすように白光と白煙がネルの視界に爆発した。
「ぐげえっ!」
 ネルはヒロインやアンチヒロインどころか、下っ端のモヒカン雑兵のような声を立てて真後ろに吹っ飛んだ。
 草原に転がった、蓋の開いた電子ジャーの上にたちこめていた白煙が、風にかき消すように瞬時に消えた。その奥にいる者が、自らの露払いに吹き散らしたように。
 あたかもウェヌスが海の泡から生まれ、貝殻の開いた上に立ち上がったように──全裸のまばゆいばかりの美少年が、きらら397の米粒を綺羅をまとうかの如くその身から輝き散らせ、蓋の開いた電子ジャーの上に、ゆっくりと立ち上がった。
 ネルは腰を抜かしたまま、ただ、少年の全裸を見上げていた。とっくりじっくりまじまじと。もちろん、性的な意味で。そういう意味のモノに気をとられたからというわけではないが、このとき解き放たれたのがどれほど大変なモノなのか、それは亞北ネルにも、そして、この解き放たれた鏡音レン本人にも、いまだ予想だにし得ないことだった。


(続)