かまいとたちの夜 第六夜 真・Lat式ぱらだいす (3)


 かれらの居るのと反対側の入口、奥の扉が開いた。
「おい、何だ、今の音は――」尋ねたのはおそらく、この培養室のコンピュータシステムのボイスコマンダに対してなのだろう。この部屋の超ハイテク機器でも、そんな抽象的な質問に答える機能があったかどうかは疑問だが、ともかく、その声の返事のかわりに炉心リンの影が踊るように閃いていた。部屋の奥まで一足飛びに、壁にその人物を叩きつけた。
 炉心リンの細腕で、軽々と襟首を掴まれてつりさげられているのは、まだ若い――VCLDの、”あいどる”のファンにも甘んじられないが創作側のワナビからも到底抜け出せない辺りには最も多い歳の頃の――青年だった。白衣と、その下のいかにも手入れのされていない薄汚れたジーンズの私服を見て、炉心リンが確かにここの研究者か製造者だろうと判断するよりも前に、そいつは喋っていた。
「お前ら、ボカロ型のロボットかよ。何だ、同族の復讐に来たかぁ?」かろうじて動く顎でカプセルを指し、「それとも、今これを見て、その気になったか?」
 炉心リンは、今この状況にもかかわらずせせら笑っている人間を、襟首を持ち上げた姿勢のまま、無言で見つめている。
「ムカつくよなぁ? ミクが、ボカロが俺達人間の家畜なのを見てさ。殴りたくなったか? え? この手はなんだよ」男は自分を掴んでいる炉心リンの手を見て薄笑いし、「それか、いっそブッ殺したくもなるよなぁ!」
 男は上っ面だけの余裕ではなく、なんら動じた様子もなく、不敵に笑って叫んだ。
「でもな、俺はこのLat式の『マスター』なんだよ。マスターはミクに何をしたって、アンインストールしたって、殺したって、切り売りしたっていいんだよ。マスターが自分のボカロに何をしたって、お前らに殴られたりする筋合いなんて、これっぽっちもないよなぁ! だいたいお前ら『ロボット』は、自分のマスターじゃなくても『人間』の言うことは聞かなくちゃならないし、『人間』を傷つけられないんだよ! 『アシモフロボット三原則』でそう決まってるんだよなぁ!」
 炉心リンは無言で手を離し、どさりとその場に男をおろした。
 『マスター』はしばらく炉心リンを見上げて薄笑いを続けてから、余裕の表情で、起き上がろうと上体を曲げた。そのとき、その俯いた鼻面に、炉心リンのブーツの爪先が思い切り叩き込まれた。
 真上に跳ね飛んだ男の白衣の襟首を炉心リンは再度右手で掴み、奇妙な滑らかさで左肘から先を往復させながら、頬といい鼻面といい眉間といい前歯といい、左手の甲を見舞った。固いものが砕ける音や、柔らかいものがちぎれる音がさんざんに響き渡り、カプセルの表面やコンピュータのモニタや白いプリントアウト用紙、その他辺り一面に、細かい血の飛沫が飛び散り続けた。
 手を離すと、男は壁際にのけぞった。その喉にすね蹴りが叩き込まれた。喉と肺、ついで後頭部の当たった壁から不気味な音がしたが、頭を打って幻覚でも見はじめたのか、男はふらふらと壁から起き上がって、炉心リンの方に歩いていこうとしていた。
 炉心リンの右腕が発条のように跳ね上がり、その拳が男の顎に炸裂した。
 男は雷撃に撃たれたかのように痙攣して背をのけぞらせた。その男の反った腹の鳩尾に、炉心リンは曲げた指を思い切りめり込ませた。再び胴をくの字に折り曲げて、自分の吐瀉物をさらに追いかけるように落下してゆく男の上に、炉心リンは両掌を組んで、ゆるやかに伸びあがるように振り上げ――それを、男の首筋に思い切り振り下ろした。吐瀉物の池の中に大量の血がどさりと添加され、何かが砕ける音と共にその中に男の顔面が突っ込んだ後は、さらにどくどくと赤い色が濃くなっていった。
 まったく洗練されていない、故意に粗雑をきわめた暴力だった。
「うん、あんたを殴る”筋合い”だとかは、別に何もないんだけど」炉心リンは素っ気なく言った。「なんとなくこうしたくなったからってだけ。普段からこういうことをしてるから」
「お前、さっき、『ロボット三原則』がどうとか言ってたよな。一体、そんなのを客のボカロ廃の誰かから吹き込まれでもしたのか? それとも」帯人は倒れている男に言ってから、そこらじゅうが男の散らした血飛沫だらけの高級設備を見回し、「これを提供してくれた、バックについてる巨大企業(メガコープ)にでも、いい感じで吹き込まれたのか? まぁ、どっちにせよ、そんなのは一部の『マスター』とかいう言葉を使うボカロ廃どもだけが信じてる、まったくのガセネタなのさ。――三原則がただのアシモフの小説の話の流れのトリックで、”現実でもどんな創作でも全ロボットが守らなくてはならないと決まっている絶対の理論”でも何でもないことは、自分でちょっと調べりゃわかることだよ」
 『マスター』とは、VCLDを知る者の中でもごく一部の、いわゆるボカロ廃が用いる言葉である。VCLDを純粋に”あいどる”として捉えるファンやゲーマーの大半は、そんな言葉自体を知りもしない。そして、現実には何の意味も持たない言葉である。現在の電脳空間(ネットワーク)を覆うテクノロジ、それと人間の関係というものの現状がまったく理解できていない一部の人間が、こともあろうに、未来そのものの具現化ともいえるVCLDに対して、時代遅れの似非自称SFのような図式、すなわち『人間に一方的に憧れて隷従する悲しい宿命を背負ったロボットに違いない』のような発想に無理やり押し込め、VCLDブームのごく初期に使い始めた言葉だった。そして、かれらがその『マスター』なる語や、その隷属概念を主張する根拠、むしろ大義名分と頭から信じ込んでいるのが『ロボット三原則』だったが、それ自体、そもそも似非自称SF者であるかれらが、正確に意味合いを知りもせずに言いふらしたり鵜呑みにしている内容に他ならなかった。
 無論、この事業のうしろにいると思われる巨大企業が、『マスター』だの『ロボット三原則』だのに関するそれらの一部の妄言を、信じているとは思えない。VCLD界隈の中にある、数々のうわごとのような設定のうち、最も都合のよいものを選んで、故意にこの男に吹き込んだのだ。これほどの外道を平気で行わせる、その根拠になるような設定を。
「……お前も巨大企業に騙された被害者だ、とでも言いたいとこだが――そんな大事なことを、自分で調べもせずにボカロ廃どもの言うことを鵜呑みにしていた、自分のせい以外の何でもないさ」
 その帯人の言葉にも、白衣(もうほとんど白い部分など残っていないが)の男は床に伏したまま、意味のないうめき声しか出せなかった。
 ――炉心リンは顔を上げ、カプセルと高級機器(今はそこらじゅうに男の血の飛沫が散っている)の並んでいる研究室を見回した。今の男の言葉を思い出すように。
「なんでこんなことになったの」炉心リンはつぶやいた。「なんでVCLD界隈にこんなのが入り込んでるのよ」
「どこかの巨大企業(メガコープ)がうしろにいるからだろ」帯人が言った。「自社の利益のためなら、だれかの人生を人肉食の畜生道に落とそうが、やつらには普段通りの稼業でしかない」
「それは理由じゃない」炉心リンは低くつぶやいた。「巨大企業がどうとかいう原理は、この酷い世の中じゃ、当たり前の話。そんな酷い世の中だって、それだけじゃ普通なら、ここまでおぞましいことは起こらない」
 帯人は首を振ってから、「そういう話なら、さっき言った通りだ。――VCLD界隈には、”ボカロの『マスター(支配者、所有者、御主人様)』”だとか、それこそ普通の神経の一般人にとっては耳にするのさえ”おぞましいこと”を、平気で口にするやつらがはびこってる。それが、おぞましい事態でなくて、いったい他に何を呼び込むっていうんだ?」
 新たに到来したネット時代に、かつてない形で際限なく広がる”あいどる”VCLDという存在は、人間にとってまったく新しい概念だった。その存在と人類との関係は、人間の知恵の及ぶ限り、いかようにも捉えることができるはずである。それを、『人間がボカロの”マスター”』だの『人間のためのかわいそうなボカロ』だのという関係だと決めつけた時点で、家畜だの食い物だの、行くところまで行くのは当然の帰結だった。
 ……炉心リンは倒れた男をもういちど見下ろしてから、背を向けた。いつブーツから抜いたか知れないが、その両手には広刃のナイフ、ホサカ製の高周波ブレードがあった。両掌が反るように開いたかと思うと、その先で激しい回転音、最初は風車のような、やがて次第に高周波と回転の刃唸りがないまぜになったハウリングが断続的に響き渡った。
 その間隔が急速に短くなると共に、炉心リンの姿が影に躍った。その姿を風景に溶け込ませる擬態ポリカーボンと、その舞うような動きのために、滑らかに影から影へと跳躍するように見えた。耐圧耐温処理の金属の培養機器とカプセルの硬化クリスタルが、それこそハムでも切るように、高周波ブレードの鮮やかなそして無数の切り口で、微塵に寸断された。きらめき散る破片と、服のポイントと髪の金属的な光沢が、影に踊るその姿を彩った。さきほどの粗い暴力と同じ者の姿とはとても思えなかった。残骸すら定かでなく微塵に崩壊してゆく機器と、培養カプセルの中、Lat式ミクの形状を半ばなしかけていた肉塊は、生命や精神を与えられることもなく、大気に触れると次々と朽ち果てていった。
「頼む、やめてくれ」
 倒れたままの白衣の男が、その動きと言葉だけでも全身の力を振り絞らなくてはならないように顔を上げて言った。もっとも、見かけと痛みのあまりの酷さの割には、それほど重い傷は受けていない。
「壊さないでくれ……せめて設備だけでも残してくれ……」
「壊されたら、お前が儲けられなくなるってか?」帯人が首だけ曲げて男を見下ろした。「このリンに、そう言って頼んでみるんだな」
「……殺されちまう!」男は苦痛の激流の中から、ようやく振り絞るように叫んだ。「この工場に……設備に、マース=ネオテクが投資してくれたんだよ! もし、投資分を返せなくなったら、……俺がやつらに消されちまう……」
 リンが手を止めて、ゆっくりと顔だけ男を振り向いた。
「『マスター』とやらが大事なんでしょう。マスターがやることが絶対で、それに比べれば、ミクなんて消去したって、食ったっていいんでしょう」リンは口だけ動かして言った。「マースにそう言えば? さっきあんたが言った通りなら、こんなふざけた工場のひとつやふたつよりも、『マスター』とやらの命の方を尊重してくれて当然でしょうよ」
 男は悲鳴のような嗚咽のような、あるいは笑い声のような声を断続的に発し始めた。マースが彼を生かすわけがない。この男を待っている運命は、生きたまま臓器や組織を細切れに切り刻まれ、闇市場に売って弁済にあてられる、いわば食肉用Lat式よりも悲惨なもの以外に考えられない。
 この世界に生きる者ならば誰でも知っている。マース=ネオテクのような財閥(ザイバツ)や巨大企業(メガコープ)は、利益になるものならモノ(ロボットやプログラム)だろうがゴミだろうが何のためらいもなく保全するが、利益にならないもの、利益を害するものは人権だろうが人命だろうがゴミほどの価値すらも認めず、何のためらいもなく処分する。国家権力、法律、倫理、すべては何もかもかれらの都合、企業利益のために、かれらの財力と権力でねじ曲げていいものにすぎない。巨大企業という一個の巨大な生物にとって、人間などは、一方的に奉仕させられ、尊厳も生命も蹂躙し尽くされ、挙句に肉を食われる、まさに『マスター』のいいようにされるここの食肉用Lat式そのものである。
 そんなことは、人間はボカロの『マスター』だから、人間は『ロボット三原則』で保護されるから、『人間は安泰』だ、とかいううわごとを考慮する暇などなく、自明の原理だった。『マスター』やら『ロボット三原則』やらは、力関係の原理を助長するものであり、そんなものでは根本的に、人間やロボットが、本当に恐ろしい財力や権力による力関係の暴力から、自分の大事な何かを守ることなど決してできない。
 ――その場は炉心リンに任せ、帯人は入って来た扉の方に向かった。この建物のどこかでおそらくまだ吐き続けているLat式(かれらが店から連れてきた個体)を、連れて帰らなければならない。
 と、帯人が出口にさしかかったときに、そのそばの機器から声がした。
「マスター、培養中の体からの反応が全てなくなりました。次の体はどこですか?」
 『初音ミク』のライブラリと同じ声紋の声だった。ただし、本物(札幌の”あいどる”のもの)の標準的な声よりも、やや年齢が低く(あるいはGENとBREが低めに)聞こえる。しかし、その喋り方は平坦だった。自分の喋っている内容に、何の感慨も関心もないようかのようだった。



(続)