剣と魔法とボカロもの 〜 癒しの女王と黒翼の魔王 (6)


6.戦闘の監獄




 地下2階の螺旋状に奥まった回廊をかなり長々と進んだその最深部に、地下3階への階段はあった。そこにたどりつくまでに、すでにルカやリンの呪文を少なからず消費していた。
「なんでルカの方だけ使ってるの?」GUMIが歩きながら尋ねた。治癒の”封傷”呪文は、ルカとMEIKOの両方が使えるはずであることについてだった。
「ルカは前衛だから。ルカが前線で戦ってる最中に、いざというとき後衛から治せるように、後衛の分は温存しておくわけ」MEIKOが答えた。
 地下3階に下りると、1階や2階のじっとりとわだかまる空気とは異なり、通路にはかすかな気流の音が虚ろに反響していた。その理由は、この階層がまっすぐの廊下で貫かれているためのようだった。ルカの”恒光”の呪文による照明──盾の正面に浮かんでいる、冷たい光球──が照らし出したのは、その通路に直角に交差している分かれ道だった。同様の十字路がある程度の間隔で存在しているらしい。
「ここは十字路によって、区画がいわゆる碁盤目状に区切られています」ルカが言った。
「京都か札幌のようであるな」
 がくぽの感想は、リンには場違いと感じるより以前に、とても飲み込めなかった。計画的に整然と立ち並べられたそれら市街の照明の下の光景と、この黒の地下に不自然に穿たれた異常にまっすぐの穴が冷たい照明に照らされている様は、どうやってもリンの中では結びつかなかった。
「十字路の交差点には回転床や罠などが仕掛けられているので、通路は利用すべきではありません」ルカが、その通路を歩き出そうとしたレンやGUMIに言った。「区画の部屋の扉から、区画を通り抜ける他にありません」
「って、それ、部屋にいる敵と戦わないと移動自体できないってことじゃ……」リンが不安げに呟いた。
 一行は通路に面した区画のひとつに入り、だだ広い部屋を通り抜けて進んだ。最初の部屋の奥にある扉に入った、すべては、その直後にいちどきに起こった。



 リンの心臓を縮み上がらせたのは、今までと同様にだだ広い空間の半ばほど、物陰の中から、ぬっと二つの首を出している姿があったことだった。深い緑色と、鱗の他に熱帯の極彩色のトカゲのような鰭の類のやけに多い形状からは、爬虫類であることは間違いないのだが、トカゲやヘビとは胴体の造作からして明らかに異なり、15フィート前後の全長が斜め上の線に沿って、言い換えれば空中を狙うように伸びているように見える。
「あれは何だ!」がくぽが鋭く叫んだ。
「Draco Chlorinous Nauseous Respiratorus」ルカが何やら誰にも聞き取れない何らかの名称を発音してから、「ガス・ドラゴンです」
 一行のいずれもが思わず、部屋に踏み込む一歩を躊躇した。
「まず最初の行動でできるだけ弱らせないと大変なことになります。集中して下さい」
 がくぽはためらいもなく、剣を右肩に八双に構えてその爬虫類めがけて風のように疾走した。GUMIがその巨大な相手を再度一瞥し、やや躊躇してから(もっとも、ゲームの処理上はその行動でがくぽに比べて不利を生じることはない)隣のルカと共に部屋の奥に向かい駆けた。リンはその相手の2体の両方の背後を巻き込むような空間めがけて”大炎”を、MEIKOは行動阻害の呪文を準備した。
 ──あるいは敏捷ながくぽが、最初に”仮睡”を発動したのであれば、結果は違うものになっていたかもしれなかった。
 巨大な緑色の首は鎌首でももたげるように反ると、膨大な肺の容積に大気を吸い込む禍々しい風唸りを通廊にまで響かせた。その首がぐいと下向いたかと思うと、咆哮を伴う呼気と共にその場に爆発するように緑色の噴煙が吹き荒れた。それは強烈な塩素のような臭気と色を伴っていたが、それらはただのゲーム内のビジュアル同様の演出に過ぎず、ドラゴンのブレスウェポンというのは、もっと別種の回避不能な特殊攻撃である。
 巻き込まれた全員が声もなく毒液の霧に苛まれる苦悶に四肢をこわばらせたが、リンの隣のMEIKOの姿が瞬時に逆巻く噴煙の中に消え失せ、それがわずかに薄れたときには、倒れたMEIKOの体が生命の片鱗も伺わせないほど不自然に一切微動だにしなくなっていたとき、リンは心底戦慄した。ルカはふらついて後じさり、背中しか見えないGUMIは膝から床に落ちようとしているところだった。
 強烈な毒液に全身を蝕まれながらも、なぜ一行で最も脆弱なリンが即死はしなかったのかはさっぱりわからなかったが(博打並の確率でブレス攻撃のダメージが半分になることがある、というゲームシステムを聞かされたのは後である)意識をつなぎとめると、直前まで編み上げていた真詔(トゥルーワード)を完成し解放した。次元界が引き裂ける炸裂音と共に”大炎”の烈火が一気に区画の広間一杯にあふれ開き、灼熱の逆巻く赤光の怒涛となって縦横に荒れ狂った。2体の謎の爬虫類の鱗と鰭を駆け巡るように嘗め尽くし、苛み尽したばかりか、衝撃のみでもその首を仰向かせた。緑の爬虫類が仮にまだ生きていたとしても、気合の雄叫びを上げて突進するがくぽの例の剛剣の前に両断されて終わるのは確実だと思った。
 が、そのがくぽの猛然たる突進は、前脚を緩慢に振りたてた鉤爪のわずかな動きだけで、難なく無に帰した。阻止されたというよりも、跳ね返された、吹き飛ばされたといった方が適切だった。がくぽの姿はまるで小虫でも払われるようにリンの視界から除けられ、石床に叩きつけられて、二度ほど跳ね返って転がった。
 レンの目が恐怖に引き裂けんばかりに見開かれた。それも当然である。レンの知る普段の他のネットゲームでは、人間よりもはるかに巨大で恐ろしげな派手なモンスターの姿が当然であり、プレイヤーのすべてが体高十数メートルといったそれを易々と一方的にハントするのが当然の帰結となっているのだ。対してこのゲームの怪物はまるで、6フィートの人間、鍛え上げられた格闘家が一般人に対して持つ圧倒的な威力を、そっくりそのまま十数フィートのあふれかえる筋力と瞬発力の塊へと拡大した代物に見えた。
 もう一体の爬虫類が緩慢に鎌首をもたげた。片方の鉤爪だけで、一行の俊英であるがくぽに対してあれだけの威力を持っているならば、ましてあの巨大な口と牙がどんな結果をもたらすのかに思い至ると、リンは愕然とした。思わず何かを叫び呼びかけようとしたが、どのみち何の意味もなかった。すでに毒液をまともに食らい膝をついていたGUMIは、左手の盾を掲げたが、巨大な顎が木製の盾を噛み砕きざま、無数の牙が左肩から胴体の半ばにかけて丸ごと食いちぎった。鮮血が滝つ瀬のように噴出した。
 一行は部屋を飛び出した。そのまま、ひたすら逃げた。



 通廊のひとつ、扉の前で、4声はうなだれて立った。いずれも満身創痍という他に表現のしようがないが、特にリンとルカは、毒液による消耗で、かろうじて立っているような状態である。
 引きずって逃げてきた(といっても、ゲーム的には行動不能の味方は簡単に持ち運べるようになっているのだが)味方の死体、毒液の霧で即死したMEIKOと、まさしく完膚なきまでに”巨大な怪物に食い殺された”GUMIの姿を、リンは無言で見つめた。
 次第にゲームの厳しさを感じ始め、冒頭でチートや呪文配分について考えをめぐらせ始めていたGUMIは、おそらくそれらをリンやレンの絶望ほどにも実感する間さえも与えられずに、唐突に無造作にリタイアした。もう恐怖と緊張を分かち合うことはできず、再びリンとレンは自分達だけでこの迷宮世界に閉じ込められたように、気が重くなった。
 それとは対照的に、当初から淡々と任務を述べ(そして、正直言うと皆を死地に追いやるような決断を繰り返してきた)MEIKOも、気がつくと死人の中に入っている。MEIKOももはや(蘇生しない限りは)ゲーム内の人物ではない。このゲーム内では、ログアウト(全員で中断)しない限りは、ゲーム外の者とは話せない。ログアウト時に大筋の方針について話し合うくらいのことはできるだろうが、ゲームの進行の最中に外部の者と話したり指示を仰ぐことは難しいので、実質、これからはゲーム内に残った生存者らが自身で決断し、進めていくほかにない。
 がくぽは死体を見おろしたまま、うなだれていた。
「……GUMIと……MEIKOが、黙って一方的に倒れていくというのに」やがて、がくぽは重々しく口を開いた。「我は、何もできなかった。何ひとつ」
 がくぽはあの敵の部屋を振り返るように、もとの道を見た。
「生き延びれば、雪辱は果たすことはできます」ルカが毒液による著しい消耗の中でも、淡々とした様を崩さずに、がくぽに言った。「またここを訪れ、あの相手に挑む機会は今後いくらでもあります」
 リンはそのルカの言葉を、なんという出鱈目千万かと思った。このゲームは、幾つかのごくわずかな例外(さきに話の出たことのある1階の『祭壇の亡霊』など)を除いて、すべての敵の遭遇(エンカウント)は完全にランダムなのだ。
「生き延びれば──」ルカはあまり辛さを感じさせない声色ではあったが、よりかかるように戦槌の石突を床について、言葉を切り、「まず、今ここから、生きて帰ることを考えなくてはなりませんが」
 その言葉に他の3声は、我に返ったように死者から目を上げた。じわじわと、今置かれている状況、戦力の3分の1を丸ごと失い、残る面々も消耗しきったという状態で、今まで到達した中で一番危険な最深部にいる事実が、差し迫って感じられた。
「あのさ」レンが切り出した。「あとは帰るだけなら、箱の罠を開けたりしないよね……なら、ボクよりも、ルカやリンを”封傷”で治した方がいいと思うけど」
 レンの発言は恐らくは、べつだん自己犠牲や博愛主義などではない。どのみち、戦力が減れば全員の破滅に近づくこのゲームでは、合理的に考えれば単に出てくる答えにすぎない。そんなことはレンといえど(このゲームの中ではルカの次に)理解しているはずで、それよりはむしろ、がくぽや自分に比べて、リンやルカの様子があまりにも辛そうに見えたので、それが見ていて我慢できなくなったというだけの話だろう。
「”封傷”はできません」が、ルカが無表情で言った。「私の分は今回、最初のうちに使いきっています。温存していたMEIKO姉さんは、一度も使わないうちに死にました」



 (続)