剣と魔法とボカロもの 〜 癒しの女王と黒翼の魔王 (7)


7.闇の聖典




 リンはレンの手のぼろぼろの羊皮紙状、レンの手動マッピング(といってもツールは使うことができ、さほどの手間ではない)による階層の地図を見つめた。2階に戻る階段の位置を見る。階段までならここから近いが、その先には2階の長い回廊が続いており、さらに1階までは長大な距離を歩かなくてはならない。行きでここに来るまでに少なからず消耗したのである。治癒ができない今の状況で戻れるのか。”大炎”の1回を含めて半分がた残っているリンとがくぽの呪文が頼りだ。
「その階段から戻る以外にも、道がないことはありません」一行の沈黙が続いた後で、ルカが平坦に言った。「ネットの情報によると、3階の帰路には迅速に城まで戻れる、いわゆるショートカットがあります」
 がくぽとレンが驚きと期待の混じった目、リンが怪訝げな目でルカを見た。
「この迷宮には、1階から4階まで直通のエレベーターがあります。1階のものには行ったことがあるでしょう」
「あの”真っ暗闇”の中」レンが言った。
 以前に1階の『祭壇の亡霊』を訪れた帰り道に、そばを通ったことがあった。その周辺は1階の最も奥深くの真っ暗の領域――開発当初は魔法の暗闇の予定だったが、当時のコンピュータの性能のために”網掛け”の表示になってしまい、以来”霧”による暗闇のようなビジュアルらしい――だったが、地図ができた今では特に危険はない。その領域の奥にあったエレベーターは、なぜかボタンがついていて、別の階層に移動できるという仕掛けだった。
「エレベーターの周辺から出ていける範囲は少ないので、利用していないのですが」ルカが言った。「3階では、階段のすぐ近くから、エレベーターのある領域にも抜けられるとのことです。エレベーターにたどりつけば、1階まで一気に戻れます」
 一行はその意味を考え込んだのか、沈黙した。もし成功すれば生き延びられる確率は高いかもしれない。しかし、3階は来たばかりで、大半が未知なのだ。一体そのエレベーターはどこにあり、どんな道のりで、無事にたどりつけるのか?
「……エレベーターの場所って、どの階でも同じなの?」やがて、リンがこめかみに指を当てて(MEIKOが考え込む時の癖の、無意識の真似である)言った。「レン、あのエレベーターって、1階ではどの座標?」
「あ」レンは気づいたように地図をめくり、1階の印のついている場所を確認した。「……東10の北8」
 皆がそれを覗き込んでから、レンはまた3階の地図をめくった。
「ここだな」がくぽが、レンの手の地図の座標を指差して言った。まだ3階はほとんど地図が描かれていないが、他の碁盤の枡に比べて遥かに大きな区画があり、当の座標はその中にある。おそらく、そこが”エレベーターのある領域”のようだった。
 レンがしばらく地図を持ったまま、黙っていたが、
「だけど、この区画の中に、その、敵が出る……玄室、だっけ」
「fixed encounter」ルカが周りには聞き取れない語で言い直した。「”玄室”というのは一部の日本語版カルト内のみの用語にすぎません」
「それがあったらどうなるの? 何度も敵に出会うんだったら、2階を通るより危ないかもしれないよ」
「それはわかりません。そこまでの情報はネットでも聞いていません」ルカが平坦に言った。「危険かもしれません。ただし、2階にも毒や麻痺を起こす敵はいます。毒を受けたりすると、長く歩くことそれ自体が危険でしょう」



 陽のあたる大気下に近いところに確実に通じてはいる――それがいかに困難な道ではあっても――2階への階段に背を向けて、いまや4声のみのVCLDからなる一行は、レンのつけた印の場所めざして、碁盤目の通廊を歩いていった。
 分刻みあたりフィート刻みという、慎重と警戒を重ねた足取りで、通廊を歩いた。徘徊する敵に出会うことを警戒してのもので、歩く距離が短ければ短いほどその危険も少ない。一行は一応は印の座標に向かっているが、道のりとしてこれが最短なのかは3階の地図がほとんど不明なのでわからない。
 その不安を増大させるように、通路には行き止まりが見えた。リンが引き返す必要にうんざりしかけたとき、”恒光”の明かりに照らし出された石の扉が、その突き当たりに見えた。
 石の扉をできるだけ音を立てないように開けて、一行が中に踏み込むと、扉はこれもほとんど音もなくひとりでに閉まった。通った先のこちらから見ると、取っ手も手がかりも何もなく、それどころか、普通の石壁と区別さえできないものになっていた。この今入ったエレベーターの区画の側からは、外には出られないようになっているのだ。
 もう通廊には戻れない。もしこの区画内にエレベーターが無かったら? ネットの人々の情報が正しくなかったら? あるいは、後代のアレンジの変更(『祭壇の幽霊』その他、1階では1グループしか敵が出ない、といった情報)が、このオリジナルに近いネットゲームでは通用しないものになっているとしたら?
 ともあれ、リンとレンを嘆息させるほど安心させたのは、扉を開けて入ったときに待ち構えていた敵が居なかった(固定遭遇が無かった)ことだった。今の一行は3階の敵のただ1群と出会うだけで容易に致命的になりうる。
 入ってきた地点は、右手に通路が延びており、左手には今と同じような扉がある。一行は誰が言い出すともなく、通路の方に緩慢に進んでいった。今のような扉を開けるときの緊張を繰り返すことを、誰もが無意識に避けたのだった。
 通路は外の区画の通廊よりも、狭く短いように感じ、閉所のような重みがのしかかっていた。ルカの掲げる”恒光”のつめたい光は闇の中に押し包まれてでもいるように光の通りが悪く、実際に、通路は適度に曲がりくねったり扉で分断されていて、見通しが悪かった。その通路の中を這うように慎重に、緩慢に歩く数フィートごとに、リンとレンは徘徊する敵との遭遇を恐れ、そして、扉を開けるごとに、何かが出てきたらどうしようというその緊張は極限に達した。
 そんなことが4度ほど立て続いた後に行き着いたのは、他に出口のない小部屋だった。行き止まりらしい。リンはもうこの区画を歩き始めてから半日も経っているような錯覚に襲われた。
 がくぽが、レンの手の地図を見て言った。
「――どうやら、最初に入った後の、左手の扉の方が正しかったようだ」
 その声の低さに、リンはがくぽを振り向いて見た。ゲーム開始当初はあれほど涼しげで颯爽としていたがくぽは、まるで落ち武者のように変わり果てていた。きらびやかな装備は半壊して汚れきり、肌は傷だらけで髪はもつれ、やつれ果てている。どこまでが、ただのゲームのビジュアル上のダメージ表現なのかはわからなかった。
 一行は無言で静かに、来た道を戻り始めた。いくら道行きに精神をすり減らせていても、これ以上続く緊張に耐え切れなくなりそうでも、目的地がわかりきっていても、決して足を速めることはできない。進む際に一歩でも警戒を怠れば不意打ちされるかもしれない。このゲームでは、数段劣った敵であっても、不意を打たれれば甚大な被害になる。まして今の一行は確実に全滅する。
 元の道に戻り、そしてまだ通っていない扉から進んだ。地図のスペースから考えて、この区画にはもうこの通路以外には無い。もう一度ひとしきり、曲がりくねった通路を通った。
「あった」思わずレンが小さく、だが喜びの色をにじませた声を上げた。
 その曲がり角の奥の行き止まりに、ルカの”恒光”の呪文の光に照らされて、ここからでもボタンのパネルと昇降プレートが垣間見えるエレベーター装置が見えた。



 しかし、同時にその手前に、一群の徘徊敵が闇の中から浮かび上がるように姿を現した。4つの影は、いずれも鎧に身を包んだ姿で、その武具や服飾の意匠がこれまでの迷宮で出会う人型生物(ヒューマノイド)とは異質、言ってみれば、今もがくぽのまとう装備のそれによく似ていた。
「レベル3サムライです」僧侶の”識別”の呪文の感知能力で、出会う敵の名を確定できるルカが言った。
 リンとレンは息を飲んだ。あともう少し、あと一歩でエレベーターまで辿り付けるところだったのに。だが、これまでの無駄な道のりで、徘徊敵に出会わなかったのがむしろ幸運すぎたのだ。
 これもむしろ幸いなことに、致命的な相手ではないし、不意を打たれてもいない。人数も多くなく、”レベル3”という名前から考えると、能力は一行の誰をとっても経験が半分以下だ。もちろん、それでも今の一行の状況では、先制されれば致命的である。
 これまでの道のりで一行は、もし遭遇したら一体どうするか、何種類かの敵について申し合わせてあった。その状況のひとつ、リンは温存してあった呪文を一気に放出した。
 接敵(エンゲージ)と同時にリンの”大炎”の呪文が、間合いをつめてくる4人のサムライの中心に突如として解放された。心臓を縮み上がらせるような低く響き渡る鈍い爆音と共に、静寂と闇に押し包んでいた大気を吹き払う炎熱の炸裂が赤々と通路を照らし出した。サムライらは炸裂する衝撃に瞬時に吹き飛び(うち一人は、衝撃にまともに巻き込まれた片半身の、肩口から先とひしゃげた兜ごと頭蓋の半分が文字通りに吹っ飛び)飲み込まれた逆巻く炎に煽られるようにのけぞったまた一人は、倒れた後も肉体が焼けただれ泡立つ苦痛に石床をのたうち回ったが、すぐに動かなくなった。
 この光景を(これまでのゲームの経緯を知らない者が)一見すると、戦士系の敵を遠距離の広域呪文の爆発で難なく葬り去ったように見えたかもしれないが、相手は魔術師呪文を使うサムライである。もし相手の”仮睡”か何かが先に発動していれば、こちらが壊滅していたのだ。さらに、何かとち狂って、プレイヤーキャラクターが決して使わない”矢炎”などを使ってでも来た場合、仮にリンにそれが当たれば確実に即死する。
 炎が消えうせ、名残はまだ煙を上げる床の焦げと熱気だけになったかと思えたが、いまだに立ってこちらに進んでくる一人がいた。一人だけ耐え抜いた者がいたのだ。このゲームでは、個々の耐久力──単純な体の頑丈さと、致命傷を避けて体を動かす技術を総括した概念だが──にも、呪文の威力にも非常に大きなばらつきがある。
 今回の行動ではすでに剣を抜いて踏み出していたがくぽが、その残った敵の方へ、さらに一歩踏み込んだ。
「任せよ」
 がくぽは背後の皆を振り向いて言った。その容貌はレンと同様に憔悴しきり、口調にもルカと共に無責任な大言壮語を放言していた痕跡はもう無い。そこにあるのは、無謀でなく、覚悟だった。



(続)