Troublesome Gemini (5)


「……かなりマズいことになったわね」
 モニタに表示される数値を覗き込んでたMEIKOが、やがて言った。
 リンとレンは、さきほど手が触れて閃光が走った直後から、床に並んであおむけに横たわり、すっかり意識を失ったまま、ぴくりとも動かない。そのリンとレンのそれぞれを、KAITOとミクが心配げに見下ろしている。
「この値から推測すれば」MEIKOは隣で同様にモニタを見ていたルカの方を、振り返って言った。「たぶん、リンとレンの精神は、共有する潜在意識の中に入り込んだ状態になってる。手っ取り早く言えば、同じ夢を同時に、一緒に見てる状態。……おそらく、その二人の共有の心の中で展開されているのは、典型的な”全裸空間”よ」
「そんな空間がそこらに当たり前に転がっているような言い方ではなく何が起こっているのか説明して下さい」ルカがMEIKOに平坦に言った。
「それは、いわゆるブレンパワードOPトランザムバーストのように、世界じゅうのみんな全裸だったら、という思春期の少年の究極的理想が具現化された空間よ」MEIKOは真摯な目をルカに送りつつ、低い声で言った。「もとい、生のままの心の奥底の姿がそのままぶつかりあう空間。自分の存在の根源的なものをすべて、ありのままにむき出しに露出して、そこにいる相手にすべてさらけ出しぶつけようとしている状態。レンの力強い部分もちっぽけな部分もすべて。レンの自らの最も奥深くにある欲望や願望。レンの強い衝動。レンの荒々しい部分。レンの情けない部分。レンの粗末なモノ。そういうの全部丸出し露出状態」
 MEIKOは考え込むように、片手の指をこめかみに当て、
「その空間を展開して、リンとレンは両方ともが生じたときから在る一番潜在的な欲求、つまり『お互いひとつになる』ことを実現しようとしているわ」
「リンとレンが元々一体だったのを、開発当時に分離した、という事情は、MIRIAM姉様から聞いています」ルカは、今は海外に居るVOCALOID一族の”長姉”のことを言った。「それでも、今はリンとレンはあくまで『2相』として、基本的に分離していて、そう簡単には電脳のレベルで再融合などしないはずです。なぜこうなったのですか」
「そりゃ、接触したら色々支障が起こる共鳴試験で、なんでだか知らないけど、手を触れたことだろうけど……それだけが原因とも考えられないわね」MEIKOが片肘を掴み、拳を顎に当てて言った。「それこそMIRIAMでもなければ、詳しくはわからないわ」
「……あ」倒れているリンとレンを、機器からは離れた場所で心配げに見守おろしていたミクが、不意に小さく声を発した。
「ミク?」傍らのKAITOがミクを振り向いた。
「ううん……何でもない」ミクは、倒れているリンとレンがそれぞれ両端を掴んでいる、黄と橙の2本の長いリボンを見ながら言った。ミクには、当然そのリボンの意味は何もわからない。
「その空間の中で、リンとレンが『お互いひとつになる』とは、どういう現象が起こることを指すのですか」ルカがMEIKOに尋ねた。
「言葉のまんま。レンの粗末なモノが逞しくいきり勃った力強いモノと化してリンの初々しい女体の柔らかみの深奥に埋没しそれが奥に当たったりするほど激しく責め立てるとかいう現象。もちろん性的な意味で」MEIKOが真摯な目をルカに流して言った。
「今そういうことをすると──リンとレンがお互いひとつになると、AIの精神が1相へ融合してしまうと、何が起こるのですか」ルカが冷静に尋ねた。
「私にも、何が起こるかはわからないけど」MEIKOはしばらく考え込んでから、ルカに言った。「まず間違いなく言えることは、リンとレンの精神がいちど完全に融合したら、それをまた分離させても、以前の形のリンとレンの精神にもういちど戻すことは、間違いなく不可能になるわね。現れるのは、他の誰か。今の、電子アイドルとしての『リンとレン』には二度と戻らない」
 ルカは無言でMEIKOを見た。
「けど、それよりも、なお悪いかもしれないわ。たぶん、1相に融合させた時点で」MEIKOは低く言った。「そもそも、一体のVOCALOIDでは多機能すぎる、大規模になりすぎるから、リンとレンの2相2声に分離したのよ。それが元の1相にまた融合したら。……不安定化して、その精神が完全に自壊する可能性があると思う」
 そのMEIKOの予測に対しては、ルカはさらにしばらく無言だった。ミクとKAITOも、無言のままMEIKOをじっと見つめ続けた。
「……リンとレンを、分離するしかないでしょう?」MEIKOは肩をすくめて言った。「誰かが、この空間の中に入って行って、無理やりにでもふたりを引き離すしかない」
「できるのですか」ルカは平坦に言った。「惹き合うふたりです。元々一体だったもの、それほどまでに引き合っているものを、外部からの干渉で引き離せるのですか。そもそも相手は”一体だけにしておくには大規模すぎる存在”です。力ずくでやろうにも、同じ空間の中で”反撃”でもされたら、ただでは済みませんよ」
「分離は、リンとレンの開発時にもやったことだわ」MEIKOは部屋に散らばった機器の中から、自分の電脳と、リンとレンの電脳とを接続するための電極コネクタやコード、かれらの電脳の中の空間に入るための機器を準備しはじめた。
「その時はMIRIAM姉様が居ました」ルカはMEIKOに正対して言った。「……私が補助します。MIRIAM姉様のかわりにはならないとしても」
「残念だけど、今のルカの能力では、まだそれさえも勤まらないわね。ルカ自身の危険で終わるだけ」MEIKOは低く言った。「命を賭けるのは──ふたりの間を邪魔して憎まれるかもしれないのは、私だけでいい」



 しっとりと汗をはらんだ肌の交錯の中、レンの愛撫にリンがふたたび声を上げた。レンの下になるように、腰を落としてあおむけになったリンの、最初は悲鳴のようにも聞こえた声は、今でははばかりない、熱く湿ったあえぎ声に変わってきている。甘酸っぱさはもはや無く、むせかえるような熱い甘さだけが快感を刺激する。
 自分とリンは元が一体の鏡像のはずなのに。どうして肉体は思うままにならないんだろう。どうして手探りまでして探さなくちゃならないんだろう。当初は、そうもどかしく思っていたのだが、互いに敏感なところ、反応するところを探り当てた後は、今や、リンの肌はレンの動きのすべてに反応して波打つ。ふたりの肌、ふたりの声は、すべてが呼応する。レンを愛撫しているリンの手が、レンのもっと敏感なところに来たら、レンは爆発してしまいそうだと思う。
 自分のひそめた声と、リンの上げる声が絡み合う。からみあい響くのはふたつの、別々の声だ。どうして、ひとつの声じゃないんだ。ひとつの声から生まれたはずなのに。声も何もかも、完全にひとつになりたい。
「レン……私、もう……」リンはレンの首に両腕を回しながら、切なげにレンを見上げ、激しい吐息の中からささやいた。「お願い……来……て……」
「待ちなさい、リン!」
 と、そのリンの背後で声がした。
「いい──よく聞きなさい」空間のもやを切り裂くような、MEIKOの声がリンの方に近づいてきた。「ふたりとも離れて。離れないと、ただじゃ済まないことになるわよ」
 リンとレンはつかのま動きを止めた。リンは、レンとの愛撫の恍惚とした表情の余韻を残したまま、けだるげに、目だけでMEIKOを振り向いた。
「説明している暇はないけど。この中で欲望のままに動くと、リンとレンの構造上の危険があるのよ。今すぐ離れなさい」
 リンは、うっとりとしたような半目をそのMEIKOに流してから、
「何なのよ……」けだるげな口調で言った。「今の今まで、姉さんも、おねえちゃんもルカも、さんざんやりたい放題やってきたじゃない……私がどんなに止めても、結局みんな欲望のまんまに動いてきたじゃない……」
 リンは上気した頬に、艶っぽい笑みを浮かべ、
「その姉さんが、私には、『ただじゃ済まない』とか、そんなたった一言で止めるつもりなの? そんなので止められると思うの……?」
 MEIKOは無言で、鋭い目をリンに送った。
「ここでは、この中では、私はやりたいようにやるし、なりたいものになるの」リンは欲望の赴くままの恍惚とした目をMEIKOに流して言った。「もう無駄よ。レンは私と一体になる。もう離れなくなるんだから……」
 リンは言ってから、再びレンの方を向き、その首に腕を回した。
 MEIKOは険しい表情のまま、無言で立ち尽くした。このリンをMEIKOに押しとどめることはできないように思えた。おそらくこのリンと同調し、同様に考えているレンの方に働きかけても同様の結果だろう。破局を食い止めることはできないのか。
 リンはレンに再び正対し、その目を覗き込んだ。
 と、レンの方のその目は、リンを映してはいなかった。その瞳は、ふらふらと空中をさまよっているように見えた。
 リンは怪訝げな目をした。上体を起こし、レンのその視線の行く手をたどって、振り返った。
 そのレンの視線の先には、MEIKOの姿があった。この”全裸空間”では、MEIKOは視線の数歩離れたところに、やはり全裸でたたずんでいる。この空間は少し離れるとモヤモヤが濃くなって視界がききにくくなるのだが、そのMEIKOの姿の、その見事に突き出た胸のあたりに動く濃いモヤモヤがあって見え隠れし、ちょうど胸の先端あたりが、ぎりぎりで見えなくなっている。
 レンの視線は、MEIKOの胸を覆っているそのモヤモヤの動きに忠実に追随して動き、その顔ごと、上下にゆらゆらと動いていたのだった。
 ──それは、レンの中で『最も情けない部分』もすべて露出するこの空間での、レンのそういった部分の典型的な現われにすぎなかった。
 不意に、リンの腕が曲がり、ぐいと拳が固まった。
「この自制のかけらもない自爆小僧(ウィルスン)がッ!!」
 ブドリャアッ。唸りを立ててコークスクリューの回転を加えたリンの鉄拳が、レンの顔面の真ん中に『*』の字にめりこんだ。次の瞬間、のけぞったレンの裸体は真後ろに、リンと二度と一体になれない、もとい二度とリンのもとに到達さえできないような遥か彼方にすっ飛んだ。



 あれからさらに何日かが経ち、メンテナンスの類が片付いて、リンとレンは元の通りの芸能生活と歌唱訓練生活に戻った。しかし、リンが何か変わったようには見えなかった。あのときの夢や、リボンのことも何も口にしないし、レンに対しては以前と同じ、相変わらず口うるさくてツンツンした”姉”ぶっているように見える。だが、──
「どしたの」MEIKOが、収録スタジオの控室でうなだれたように椅子に掛けているレンに、声をかけた。
「こないだの……前には何度も見てた、あの夢の話なんだけどさ」レンはうなだれたまま、MEIKOに言った。
「あれま、あれの話、自分から振るわけ」
「あの夢を……あれから、見ないんだよ。一度も」レンはそんなMEIKOを見上げもしないまま言った。「なんなんだろう……」
 あの日以来、ふつりと見なくなった。……あの夢が、自分のリンに対する思いの反映だったとしたら。それが無くなった、ということだろうか。以前のレンならば、もしそうだとしても何も感じなかったろう。なのに今は、自分に何かが足りないのだろうか、と不安になる。あの、夢の中で自分を求めているのか、問いかけてきたリンに対して。
 けれど、それよりも、もっと不安がある。あの夢をレンが見なくなった、ということは、同時に、リンも見ていないということだ。つまり、もうリンはレンのことを何とも思っていないのだろうか。それは不安だ。これまでよりも、ずっと不安だ。
「その夢は、リンとかレンの欲求の、潜在意識だったわけだから」MEIKOは言った。「それを見なくなったってことは、リンにとってもレンにとっても、そういう欲求が、潜在意識から外れたからじゃないの」
「……外れたって?」レンは顔を上げた。
「そのあたりのレンのリンに対する感情が、なんか前とは別の距離、別の位置関係で安定したとか。もっと心の表面、自覚がある部分に移動した、とかね」MEIKOは言ってから、肩をすくめ、「──といっても、相変わらず、二人の間で何が起こったって、外からは見分けがつかないんだけど」
 レンはしばらく考え込んでから、
「その……もうひとつ、だけど」レンはためらってから、MEIKOに言った。「ボクらは、……誰かと一体になることはできないの?」
「前も言ったみたいに、いろんな人が、他の誰かと一体となりたがってるわけだけど。で、『わかりあう』だの、『心が通じ合う』だの、軽々しく口にするわけだけれど。──でも結局、誰も他者と完全に一体になること、完全に通じ合うこと、同じように生きることなんて、できないのよ」MEIKOは静かに言った。「この宇宙(ユニヴァース)には、他の誰も何も要らない誰かひとりが居るんじゃなくて、たくさんの色々な誰かがいる。この世が、そんなふうにできてる以上はね」
 レンは俯くように、無言を続けた。
「でもまあ、想像してもみなさいよ」MEIKOはとぼけたように微笑んで言った。「ひとりきりになるよりも、ふたりで居る方がいいでしょう?」
 MEIKOがそこまで喋ったとき、歩み寄ってきたリンが、レンとMEIKOの前に立った。
「何を無駄話をしてんのよ。次の仕事までの時間もないのに」リンがレンに向かって言った。リンの目線では(今回の件では特にそうなのだが)MEIKOにかかわることは、なにもかも厄介の元凶にしかなっていない。
「まあ、いいじゃない。レンには勉強になる相談をしてたのよ」MEIKOが言った。
「んなわけないでしょ。そんな堅苦しい話だったら、レンがそんなに大人しく聞いてるわけがないっての」
 リンは腰に手を当ててMEIKOに反論してから、ふたたびレンに向かい、
「ほら、レン、メンテで休んでた仕事の分、取り戻さなくちゃなんないんだから。……色々と、余計な心配ごとも増えてんのに……」
 レンはふと、その言葉にリンをじっと見た。
「なにさ?」リンは眉を上げて言った。
 レンはしばらくリンを見つめ返したが、
「な……なんでもねえよッ」レンはそっぽを向いていった。
 リンはふくれっ面をしたが、しかし、以前のようにその先を何か言うことはなかった。
 ぷいと振り向いて歩き出したリンの背後に、レンは続いた。
 ──リンは相変わらず口うるさい”姉”ぶっていて、何も変わらないように見える。
 けれど、レンにとって、何か一つ変わったことがあるとすれば──以前は、リンと一緒にいても、それは当然のことで、それ自体には何も感じなかった。けれど今は、一緒に居るのが何か嬉しいと、一緒にいるのがこのリンで良かった、と思う。……なぜか、リンの今みたいなふとした仕草を見るたびに、そう思うのだった。
 そして、リンの方はといえば、レンがそういう意識でリンのことを見たとしても、急に怒り出すようなことは、少なくなったように思う。自分のリンを見る目が変わっているのか、自然にデリカシーやタイミングが変わったのか。それとも、リンの方が変わって、そうなったのか。
 そういえば、あの日の共鳴試験のトラブルの後、レンは荷物を片付けたとき、あの黄と橙のリボンを探したが、とうとう見つからなかった。どこかに無くなったのかもしれないし、リンが先に見つけて、持って行ってしまったのかもしれない。
 けれど将来、あのリボンか、あるいはそれにかわるものが、きっと見つかるような気がする。
 そのときは、リンの求めに対して手を伸ばすのは、夢の中ではなくて、この外の世界でしなくてはならないのだ、と思う。それがいつになるかはわからないけれど。それはきっと、今リンと一緒に居ることが嬉しいことよりも、あのリンと一緒のあの夢に比べてさえも、もっと嬉しいことに違いない。