Troublesome Gemini (1)

 その糸は、リンと繋がっているのだと、レンにはすでにわかっていた。
 ぼんやりした薄暗い光景の中で目をあけたレンが、最初に見つけたのは、自分の右手首に結ばれている、黄と橙の2本の長いリボンだった。これは確か……以前にリンと歌った一曲の、組の衣装のひとつだったと思う。デュオ曲の仕事はとてもたくさんあって、そのうちその曲がどんなものだったか、中身は覚えていない。
 だから、なぜそんなものが今結ばれているのか、──というより、なぜ自分は『リンと繋がっている』ことの方に先に気づいていたのかも、レンにはわからなかった。
 たわんで地に這っていたそのリボンが、引っ張られて浮き上がった。そのリボンのつながっている、その先に──薄暗がりの中に浮かび上がったのは、レンがいつ現れるだろうかと次第に待ち焦がれ始めていた、リンの姿だった。
「レン……私を呼んだ……?」
 リンは左手を上げ、手首に結ばれた二本のリボンを、レンに示すようにして言った。
 レンは息を呑んだ。動転して言葉が出てこなかった。自分がリンを呼んだかどうか、ただ目でリボンをたどった、それだけのような気もするし、あるいはひょっとすると、無意識にたぐりよせたかもしれない。自分から引き寄せたかもしれない、そのリボンを──リンを。それは、レン自身も覚えていない。
「ねぇ……レン」
 地べたに座っているレンの、その目の前にかがみこみ、四つん這いのように両手をついて、リンはゆっくりと擦り寄ってきた。
「呼んだんだよね……」何かはかなげな、すがりついてくるような上目遣いと共に、リンは言った。「レンって……私のこと、好きなの……?」
 その言葉に、レンは心臓だけが飛び上がったかと思った。なのに、手足は熱っぽく震えるだけで、少しも動かない。
「な……何……」レンはそのリンの表情の意味、言葉の意味を、めまぐるしく考えた。「好きってさ、その……どういう」
 リンがさらに近づいてきた。甘くて心地よい空気が感じられた。甘いだけでなく、柑橘のように甘酸っぱい。レンは普段、リンの香りを感じることはなくて、それは、自分の匂いを感じないようなものだと思う。なのに、今はリンの香りを感じ──いや、どうして自分は、今感じるこれを、リンの香りだとすでに知っているのだろう?
「どうなりたいの……? 私と……」
 その声の、吐息まで感じられるほど、リンは近づいた。
「いつも、一緒にいるだけでいい……? 他にしたいことがあるんでしょ……?」
 リンはささやくように言った。
「私に……どんなこと、してみたい……?」
 レンはごくりと唾を飲み込んだ。
 レンの目は、リンの体の線、腰や肩から肘や、さらさらした短い髪ごしのうなじ、レンよりもわずかに細く丸いそれらの線にひきよせられていた。どんなに目を外そうとしても、できなかった。それらはレンにとって、いつも一緒にいるリンの、普段からそばにあり、盗み見てもいるものだが──今、それがすぐ手の届くところにあるということ、それらに対する欲求が一杯に膨れ上がって、レンの頭に渦巻いた。
「言えない……?」
 一言も発せないままのレンの前で、リンは、寂しげに目を伏せるように、目線を下に泳がせた。その見たこともないリンの表情に、レンは、胸が一気にしめつけられたかと思った。
「言えないなら、……言わなくてもいいから」リンは硬直したレンの正面からゆっくりと身を寄せ、耳元に顔を近づけながら、囁くような優しい声で言った。「ただ……手を伸ばしてよ……」
 体温と吐息と甘い空気が、その重みと柔らかみが感じられそうなほど迫ってきた。
 そのリンの体に手を伸ばし受け止めたい、という欲求を感じながら、残るためらいのために、レンの手は動かなかった。動かなくても、リンの側から迫ってくるその肉体が、今にもレンの体に感じられる、と思ったとき、不意に、レンの意識はとぎれた。



 レンは目を硬くつぶってから、ゆっくりと開けた。まぶしさという他に、目が覚める前の世界と、目覚めた後のこの世界のギャップを埋めようとするかのように、しばらく目をしばたいた。ゆっくりと起き上がり、そのまま息をついて、ぼそりと呟いた。
「また、あの夢かよ……」
 レンは、いまだにぼんやりしている意識の中で、あの夢の中のリンの姿を思い出していた。それは、あれほど鮮やかな姿として思い出せるのに、文字通り別の世界の出来事のように、遠く感じるのだった。
 ……鏡音リン鏡音レンは、男女一対で作られたボーカル・アンドロイドで、設計その他、様々なところが共通している。面倒な技術上の関連性、開発思想や事情があるようだが、世間一般ではもっぱら、『双子』の電子アイドルと思われている。
 そして、レン自身もほとんどそんなものだと思っている。どちらから近づくともなく、いつも一緒に居る。リンとレンは電子アイドルとしてのデビューこそ同時だが、その姿が一般に公開されたのはわずかにリンの方が先で、少しばかりリンが先輩になる。そのためか、リンは普段から”姉”ぶって、気ままに軽率な行動をする”弟”のレンを叱り付けたり叩きのめしたり、──例えば今の夢に出てきたものとはちょうど正反対の、ツンツンした口うるさい双子の”姉”の態度だ。それが、ボーカル・アーティストとしての仕事でも日常生活でも、当たり前になっている。
 が、それはレンがリンに対して、”女性”として興味を感じない、ということにはならない。大半の部分はレン自身にそっくりで、だがリンは少女であるために、心身ともに確実に違うところがあり──そもそも、それを設ける目的で男女の対として作られたのだが──他がそっくりだからこそ、その違う部分は、レンには気になった。レンが、リンの腕の線だとか脇の線だとか首筋の線だとか腰周りの線だとかの、形容しがたい柔らかさについ目を奪われて、ハリ倒されるというのはほぼ日常茶飯事だった。普通なら、例えば人間なら、『双子の姉』にそんなことを感じるのはおかしいと思うかもしれない。だが、レンが感じるものは感じるのだから、どうしようもないではないか。
 そもそも、年頃のレンにとって、身の回りにいる”女性”を感じる存在は、誰もが気になってしまうのだ。女性を感じて気になるといえば、ずっと年上の大人の女性のMEIKO巡音ルカもそうだし、少し年上のGUMIやLilyや、あの名も知らない黄のサイドシングルテールのおねえさんもそうだ。その中でも一種特別に思っているのは、初音ミクだということは、レンにも自覚がある。絶妙に先輩、絶妙に年上、絶妙に身近で絶妙に遠く見えるミクが。……それはともかく、リンも、あくまで女性として見た場合、そういう目で見はするが、その中で格別というわけでもない一人のはずだった。
 なのに何故、この夢では毎回リンなのだろう? やはり身近だから、触れる時間が多いから、あるいはボーカル・アンドロイドとして設計が近いから、そうなってしまうのだろうか?



 レンは考えがまとまらないまま、しばらく呆然として考えてから、頭をはっきりさせようとしきりに首を振り、額に手をやった。……と、その手には、インカム(ヘッドホン)に接続されているケーブルが触れた。
 レンの頭に、一気に夢より前の数時間の記憶がよみがえった。
 レンはただ寝て、ただ夢を見ていたわけではなかった。今は、レンのアンドロイドとしての電脳のAI(精神プログラム)のメンテナンスをしており、そのためのスリープ(機能休止)中だったのだ。つまり、さっき見た夢は、メンテナンスをしている人にモニタされていた──
 ケーブルの先には、メンテナンス用の試験機器があった。そして、その試験機器のモニタを眺めている、MEIKOの姿があった。
 MEIKOはしばらくそのモニタを見つめていたが、平然とレンの方に首を回した。上体だけ起こして硬直したレンと、MEIKOはしばらく目が合ったが、まもなくMEIKOは何事もなかったかのように、ふたたびモニタを見つめた。
「あ゛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」レンは絶叫した。




(続)