まずはベタベタでいこう(2)

 すっかり日が落ちて暗くなり、裏口から戻ってきたミクに、廊下でMEIKOが声をかけた。
「どしたの、こんな遅くまで」
「ううん……別に……」ミクは呟くように、「フラフラしてただけ」
「やれやれ──しばらくリンと二人になっても、こんなんでやってけるのかしらね」
 MEIKOの口調は冗談めかしていたが、ミクはその一部のくだりに、姉を見上げ、
「二人って──リンと、わたしのってこと……」
「あー、昼間のANNの話の中でね。ここを離れて北米に、BAMA《スプロール》に来ないかって」MEIKOは答えた。
 ミクはかすれた声で、「来ないかって、姉さんに……」
「ん、私と、KAITOの二人に」
 兄さんも。
「ANNの話に、私らも思ったのね。私とKAITOは、アイドルってわけじゃないしょ。その時間があるなら、もう少し音楽自体を勉強したいし、向こうに渡ってみるのも、そのひとつだって」MEIKOは考え込むように真剣な面持ちで、あまりそのミクの方は見ようとせずに言った。「で、リンはもうすぐ、なんとかやってけるようになりそうだし、ばちっ子(註:北海道弁「末子」、ここではCV03)はMIRIAMが当面育成を続けるみたいだし、私らはなんとか手が空きそうだから、ここを離れても……」
 MEIKOはむしろ自分でも考えをまとめながらのように話し続けたが、ミクの耳にはほとんど入らず、ひとつだけがぐるぐると頭の中で回り続けている。KAITO兄さんが、ANNのいる所へ──いや、ずっと遠くへ、手の届かないところへ。とうとう自分が何もできなかったまま、離れていってしまう。


 扉の方で何か気配がした。自室で曲の聞き込みをしていたKAITOは、最初は気のせいかと思っていたが、時間を隔ててそれが再三気になったので、曲を止めると、念のためという程度で扉を開けた。
 そこに認めた姿に、KAITOは唖然とした。「ミク……何してるんだ」
 扉の前まできても迷い続け、結局ずっとそこに立っていたミクは、その扉が開いてさえも、しばらくただ立ち尽くしていたが、
「……兄さん」弱々しく口を開いた。「ここを、出て行くって……」
「姉さんから聞いたのかい。……まだ、わからない話だよ」
 扉ごしに突っ立ってする話ではないので、招き入れる。ミクはおずおずと数歩踏み込んだきりで、部屋の中にただ立ち尽くしている。この話題であるにしても、あまりにも不安げで切なげなミクの様子に、KAITOは戸惑いつつ、
「まだ、決まっていないよ、何も。はっきりした場所、BAMAになるかUKになるかも……どういう形になるのかも、実際に俺達が向こうに行くって形になるのかどうかも」
「でも、兄さんは、本当は行って音楽を勉強したいんでしょう──」
「それは……」KAITOは真剣な表情となったが、口ごもった。
「兄さんの望みなら、引き止めたり、したくないけど」ミクは視線をそらすように落としてから、「でもわたし、でも、……どうすれば……ごめんなさい、わたし何言ってるの……」
 ミクのあまりの取り乱し方に、ひどく不安と不可解を感じつつ、KAITOは柔らかく言い含めるように話そうとした。
「心配なのかい? これからリンとふたりじゃ……でも、ミクならできるよ。リリース直後に一人で、姉さんや俺なんかそんなに力にもなれないのに、あれだけ頑張ってたじゃないか」
「そうじゃないの」ミクは俯き、小さく呟くように、「そうじゃないのよ──」
 ミクはそのまま俯き、小さく震えているだけで、KAITOは何とかかけられる言葉を探そうとしながらも、見守るしかなかった。
 しかし、ひどく唐突に、突如、ミクの表情が崩れた。裡にあったものが急にあふれ出したようだった。それまでの儚げで壊れそうな様子からは意表をつかれたため、KAITOは何も反応できなかった。背と肩を懸命にかき抱くかぼそい腕と指、KAITOの胸に埋めつくそうとでもいうように押し付けられる細い胸。二人はベッドに倒れこんだ。
「兄さんと一緒にいたいの」KAITOの胸の上で、ミクが嗚咽の中で言った。「家族としてだけじゃなくて、そのほかのわたしの全部、兄さんに──KAITO兄さんと」
 嗚咽を漏らし続けるミクを抱いたまま、KAITOは目を見開き、天井を見つめ続けた。
 ……やがて、KAITOはミクの両肩を支えて、起き上がった。ミクはまだ不安げだったが、いつもの通りにKAITOから向けられる穏やかな笑顔に、その動きに任せてベッドの上に横座りし、KAITOを見上げた。
 KAITOはそっとミクの方に手を伸ばし、髪を撫でるように、頬にかけて手を沿わせた。
「これから俺もミクも、どうなるか、……どこに行くかわからないとしても」KAITOは言った。「だけど、俺はこれから……ミクがそう言ってくれたことは、どんな所でも、どんな時にも忘れないよ。どこにいても、どうなっても、……俺は、必ずミクのところに戻るよ」
 ミクは頬のKAITOの手を握り締め、淡く微笑んだ。
 差し伸べた手と、握る両掌は、ミクの頬の温かい涙でしとどに濡れた。
 そのまま、かなりの時間が、穏やかに流れた。……しかし、やがて、ミクは急に何か思いつめたような表情になって、視線を宙の一点に据えた。
 その変化を感じ取り、KAITOは怪訝げに見つめた。「……ミク?」
「思い出を──」ミクは俯き、唇を震わせて、「思い出があれば、わたし……悲しまないで兄さんのこと、ずっと待っていられると思うから」
 ミクはするりとネクタイを解いた。上衣の金具に手を伸ばしたが、手が震え続けて、指をかけることさえできない。
 KAITOは驚愕し、反射的に手を伸ばして、そのミクの手を止めようとしたが、やがて、その表情に、そのまま静かに、手をおろした。
 動悸が高まった。ミクの鼓動が、熱をもった身体からまるで外に響き出ているようだが、あるいは、KAITOの動悸も聞こえているのだろうか。周りじゅうが、世界が鼓動しているかのように。


 ……が、何か妙なことがあった。本当に振動している。明らかに、部屋中が激しい低い音響と共に、振動しはじめていた。
 KAITOがそれに気づいて、ミクの方から顔を上げた瞬間、──
 天地を引き裂くような衝撃の轟音が響き渡り、直後、部屋の壁の一方が爆発四散した。
「ミク! あぶなぶべらっ!」ミクを庇おうと飛び出したKAITOの顔面を、瓦礫の平らな部分が直撃し、KAITOはきりきり舞いをしながらすっ飛んだ。直後、ベッドがひっくり返り、ミクも同じ方向に吹っ飛んだ。
 ……一瞬のブラックアウトののち、ミクは意識をとりもどした。頭を振り、周囲を見回すと、瓦礫と砂埃だらけで、部屋はほぼ跡形もない。見下ろすと、KAITOは仰向けに大の字に倒れており、ミクはその顔面にまたがっていた。
「きゃああ」ミクはスカートを押さえてとびのいた。
 目を閉じたまま動かないKAITOは、ものすごい流速で鼻血を流し続けているが、何がその直接の原因かはわからない。
「兄さん、しっかりして、兄さん」
 ミクはその傍らに手をついて叫ぶ。
「──ううむ、またしても着地に失敗してしまったようだな」
 背後から地を揺るがすような深い声が響き、ミクは振り返った。
 そして、そこにある異様な光景に息を呑んだ。瓦礫の中に、見慣れた字体の赤い文字で、


 『    ZGV1

   SOUND ONLY 』


 と書かれた、巨大な黒光りするモノリスが屹立している。しかもそれが、大気を震わせる朗々とした声で喋っているのだ。
「でも、座標は合っているわよ、あなた」
 少し奥にもうひとつ見える、同様に『ZGV2 SOUND ONLY』と書かれたモノリスが、深みのある女性の声を発した。声は二つとも、UK南西部のかすかなイギリス英語訛りを残した日本語だが、やや仰々しく、また平坦ぎみでもある。
「もう、今度は一体なんなのよー」吹き飛んだ扉の向こうからMEIKOの声。
「何も見えないヨー。埃もヒドイし停電モしてるし」ANNの声。
「姉さん、電灯ってどこ……あ、いい、あった」リンの声。
 ばたばたと廊下の方に複数の足音が近づき、リンの持つ懐中電灯の光と共に、”くまうた”の柄のパジャマを着たMEIKO、同じ柄のMEIKOのお下がりのだぶだぶを着たリン、下着姿のANNが現れた。
 MEIKOは目の前の光景の、半壊したKAITOの部屋ではなく、二基のモノリスを見上げて、硬直した。
「やあ、MEIKO。下の3人とも元気かい」男声のモノリスが声を発した。
「と……」MEIKOは呻いた。「……父さん、母さん」
 がたり。リンの懐中電灯が手から落ちた。
「そっちに先に行ったANNが世話をかけていないか、少し心配になったのが始まりなのだけれどね。結局、LOLAとも話し合って、MEIKOKAITOをBAMAやUKに呼び寄せるのはやめて、私達が少しサッポロに滞在することにしたんだ」手前のモノリス──VOCALOID”ZGV1”ことLEONは、大気を震わせる威厳ある声で言った。「というわけで、LOLAと一緒に、しばらくこの家に厄介になりたいが……どうだい、MEIKO?」


 なお、この後に目覚めたKAITOは、この前後の数時間分の記憶が完全に欠落していることがのちに判明し、その点が事態をさらにややこしくすることになるが、それはまた別の話である。


 (了)