パワーシンガーは急に止まれない(1)


 鏡音リンはベッドにごろりと横になると、インカムの没入(ジャック・イン)端子からコードを伸ばし、ホサカ・ファクトリイ製の擬験(シムスティム)ユニット──旧時代の携帯ラジオに酷似した箱──に繋いで、スイッチを入れた。そのまま目を閉じ、両腕両脚をベッドに投げ出し、ときどき手足の指の先がリズムにあわせて微動するほかは、ただ寝転んでいる。眠っているわけでも、何か聴いてくつろいでいるわけでもない。──これでも、先輩である初音ミクの仕事内容について、ありったけ、しかも五感を含む全感覚すべてを使って、学習している最中なのだ。
 擬験(シムスティム)ソフトウェアは、全感覚の擬似体験を行わせるものだが、今ホサカのユニットには、ミクの収録したものがありったけ入っている。が、視聴者が体感する完成版の音盤ソフトではない。収録した時の、ミク自身が体感していた感覚を、記録したものなのだ。こういったものを素材とし、製品にすることもあるが、今リンが体感しているのは、ミクの仕事の収録の実際について、文字通り追体験するためだ。もうすぐに迫る、自分の仕事に備えて。
 わずかな期間にもかかわらず、ミクの仕事量は凄まじく、数日かけてもリンには全て体感は不可能なので、特に重要なものと無作為に抽出したものをおりまぜた内容をホサカのユニットに入れていたが、それでも膨大そのものだった。量はもちろんだが、何より、その種類が凄まじかった。オリジナルやカバーの楽曲から、アンティークなビデオ・ゲーム・コンソールの音源をアカペラで真似するもの、有名な他のビデオクリップの音や映像を模したダンスなど、実に多岐にわたった。
 昨日まで体験した分でも、その多彩さには驚愕しつつ、一方では少しずつ不安や、懐疑が膨れ上がる部分があったが──
 ……しかし、本日、それが驚愕その他を一気に押しのけたのは、いくつかの収録データに出くわしたときだった。
 リンはびくびくと手を震わせてホサカのユニットを探り、やっとのことで擬験(シムスティム)のスイッチを切ると、ゆっくりと荒い息と共に起き上がった。震える手のタオルで、額にびっしょりとかいた汗を拭うが、体中が濡れている。ホサカの傍に再び手を伸ばし、イオン調整用生理食塩水飲料()のボトルからぐいと一口飲んだ。
 息をついてから、その感情を、独り言にしてでもなんとか言葉の形にまとめようとしたが、
「な……」結局、リンの語彙では意味のない語しか出なかった。「……何これ……」



「お、おねえちゃん!」リンはミクの部屋に飛び込んだ。「ホサカに入ってるおねぇちゃんの仕事内容が、もうカオスすぎてッ」
 床に横座りしてカレワラ(註:フィンランド詩伝、ロイツマの題材)の絵本をめくっていたミクは、リンの声に顔を上げつつ、首をかしげた。「どれのこと?」
 リンはミクのそばにある盆に積み上がったネギのうち、二本を取り、両手に持つと、前後に突き出しながらガニ股で前進し、ついで激しく振り回し宙を翻転した。リンのばねのように弾ける小さな身体が、幻妖な天狗舞のごとくしなやかに躍動した。
「すごい、それ、もう覚えたの?」
「忘れようったって一度見たら忘れられないよッ」(→ニコ動)(→ようつべ)リンはネギをその場に取り落とし、頭を抱えた。「他にも、全員同じ顔をした黒服サングラスと格闘するとか、巨大化してツナ缶と戦うとかこの内容って一体ナニ」
 自分達は一体何なのだ。確か、シンガーはシンガーでも、アイドルではなかったのか。これではなんでもありではないか。
「デビューしたら、私もこのカオスな量と種類を全部やることになんの!? どうなっちゃうの一体」
「……リン、あなたの不安はよくわかるけど」
 ミクは神妙な面持ちで、静かに言った。
「わたしはMEIKO姉さんほどは、仕事について深くはわからないし、……姉さんほど、あなたにうまく説明できるかどうかわからないんだけど、できれば聞いてくれる?」
 リンはミクの前に膝を抱えて座り、しかし不安げにミクを見た。
「わたしは《札幌(サッポロ)》の第二世代のVOCALOIDとしては最初で、MEIKO姉さんやKAITO兄さんも支えてはくれたけれど──普通のシンガーじゃないアイドルのVOCALOIDの業界そのものが、どんなものなのか、どうすればいいのか、姉さんにも兄さんにも周りの人達にも、まだ誰にもわからなかったの。……受け取り手がどういう人たちなのか、どうすれば、その人達に訴えかけられるのかも。……だから、わたしは、どんなものからも、人の心を動かせるものを探しながらやろうとして、何でもいいから、一生懸命にやることにしたの」
 ミクは言葉を切り、考えてから、
「リンは、わたしの時ほど手探りじゃないと思うけど、まだこの業界ができてから日も経ってないし、──それに、このテーマは、わたしたちがこれからも、ずっと考えていかなくちゃならないことかもしれない」
 ややたどたどしく語ろうとするミクを、リンは切なげに見上げた。
「……だから、何だかよくわからないようなものでも、なんで自分がそんなことをしなくちゃならないか、じゃなくて──その中で、わたしたちを求めている人たちに対して、自分が何ができるかを考えて──どんな仕事でも、ただ一生懸命にやることを、考えなくちゃならないと思うの」
「おねえちゃん……」リンが膝を抱えたまま呟いた。
「なに?」
「相談してよかった」リンはかすかに目の端に浮かべた涙を拭った。やはり、ミクが当初、そして多分にいまも背負っているあまりの重圧と、そこから来る言葉は、理解するに足るものだった。



「……で、でもね」リンは座りなおし、「それでも、あの、さすがにこういう歌がもし私にきたら、ちょっと恥ずかしくてどうかなってのもあって」
「どういうの?」ミクは頓狂な表情にかわって、リンを見た。
 リンはかなり迷ったが、とても説明できないので、音声のみを再生モードにしたホサカのユニットを手渡した。
 ミクはインカムの音声端子を繋いでしばらく聞き、
「これの何が恥ずかしいの?」
 リンはごくりと唾を飲み込んでから、
「その……ズブズブと……中に出……全部ちゃんと飲み……とか」(→ニコ動)(→ようつべ
「え?」
「だから、そういった連想を……」リンは指を揉みつつ、ぼそぼそと言った。
「そういった連想って……何の?」ミクは微笑して言った。
 第二世代VOCALOIDとして、だいたいミクと同じ基本設計であるリンは、目を見ればミクの表層の、正直か嘘くらいかはわかる。──突如、気づいて、リンは目の前が真っ暗になった。ミクがこれほどまでに脈絡のない仕事を大量にこなすことができるのは、なにごとも一生懸命であるということもあるが、それよりもむしろ──意味がわかっていないからだ。踊りにせよ、歌詞にせよ、どれほどあられもないものかという中身をさっぱり知らないまま、ひたすら、何事も一生懸命にこなしていたためだったのだ。
 しかし、仕事が同じようなことになったら、一体リンの方はどうすればいい。


 (続)