かまいとたちの夜 第七夜 らぶ式とあぴミクの赫奕たる異端 (4)


 おんだ式ミクは、あぴミクから立ちのぼる臭気をこらえながら、うつぶせで横を向いているその顔面をあらためた。あぴミクは目は開いているが、瞳にハイライトがなくなっており、膨れ上がった頬は吐瀉物で汚れきっている。
 目覚めてから自分自身で洗って欲しいものだとも思えるのだが、こんな状態のままでは、目覚めるものも目覚めない。覚醒させるために手当するだとか温めるだとか、そんな処置も、この状態ではままならない。やはりMEITOの言う通り、汚れをなんとかするのが何よりも先決らしい。
 おんだ式はとりあえず、あぴミクにできるだけ触れないようにしながら荷台に乗せ、居住区画の浴室まで運んだが、そこに降ろすまでに、おんだ式の服も体も真っ黒になっていた。自分の服もクリーニングしないともう駄目である。
 タイルにうつ伏しているあぴミクの、ものすごい汚れと臭気の服を脱がせるのも一苦労だった。しかも、全部脱がせても、本当に体の隅々、体の芯まで汚れが一杯に詰まっているのではないかと思えるほど、中身も真っ黒だった。
 おんだ式は浴室の湯を沸かし、あぴミクの背中といい手足といい、全身の隅々をごしごしとこすって少しずつ汚れを落としていくという、はてしなく地味な作業を開始した。……あぴミクのその汚れが、おんだ式のあちこちにもひっきりなしに付着し、放っておく気にはとてもなれないほど汚れも臭いも酷いので、その都度自分の体からも洗い流しているうち、おんだ式はいつのまにか、自分も平行して体を湯で洗っていた。その間も、あぴミクはうつ伏せのままぴくりとも動かず、まったく目をさます気配がない。
 おんだ式が普段自分の入浴に費やす時間から考えて、その数倍、おそらくは数時間という単位の時間が流れたところで、おんだ式は腕が痛くなって、シャワーヘッドとブラシを握る手をとめた。出続けているシャワーの水で、どす黒い汚れがどんどん排水溝に流れていく。真っ黒いうつ伏せのあぴミクの背中と、それに劣らないほど汚れてきているような自分の体、両方の裸体を、呆然として見つめる。どれだけ経っても汚れが減る気がしない。
 水道も、熱源の太陽熱や電力も無尽蔵ではない。電力は、KAIKO(もうひとりのこのガレージの住人である)が電脳空間(サイバースペース)で、”極東沿岸電力機構(トウデン)”のICE(電脳防壁)をごまかして、くすねてくるのだ。つまり、KAIKOにもこの消費について説明して頼み込まなくてはならない。
 行動しているというのに、やらなくてはならないことばかりがどんどん積み重なっていき、何かが解決に向かっているという気がまったくしない。それに気づいたおんだ式は、手を止めたまま、ふたたび茫然とした。
 あぴミクが目をさましたのは、そのときだった。
「うゲぁパップッぐるううぐッッッ!?!? げボはァ!!」
 がばと上体を起こしたあぴミクが最初に発したのはその寄声で、最後の声と共に汚水を大量に吐き出した。どうやら、自分を洗っている汚水が、今までずっと口の中に流れ込んでいたらしい。
 あぴミクはそのまま上体を反らせた。そして、即座に、つい先ほど今まで自分の全身をすみずみまでまさぐるように激しく擦っていたおんだ式ミクに対して、血走った眼を見開いた。
「ヘイッ! テメェこら人のカラダで何やってやがんだァーーッ!」あぴミクはそり返った手首の先の指をおんだ式に突き付けた。「剥いたなァーッ! 見イィたのかあーッ!! 通りすがりのミク型ロボットにまでこの上タダでガン見されまくってたまるかってんだよオラァッ!」
 タイルに反響するあぴミクの絶叫、そのおそるべき耳障りなミク声の甲高い電子音で、立てつけの悪い浴室のガラスがびりびりと鳴動した。その声に度肝を抜かれたおんだ式は、ガレージの誰かが驚いて飛び込んでくるのではないかという不安にかられた。他にどうしようもないのかもしれないのだが、こんな姿はできれば他人には見られたくないものである。
「それともテメェこら一緒にオフロでキャッキャウフフの既成事実でも作ろうってのかよッ! つるつるの縦筋の隙間からうっすらと覗くかすかな桜色を目の前で見せつけて誘惑しようってのかコラァーッ」
 おんだ式は思わず両足の付け根を両掌で押さえながら、背中が壁のタイルに激突するほどの勢いで飛び退いた。
「ヘイッ! テメェそこ動くんじゃねェーーーッ! あたしは上! きさまは下だ!!」あぴミクはらぶ式を指差しながら、曲げた片足の裏をバスタブの縁に載せ(らぶ式から見ればその内股の隅々まで全開で)まるでそこから天井にでも登ろうとでもいうように上体を持ち上げた。
 おんだ式はその姿を不安げに凝視した。ただでさえ危なっかしい体勢なのに、おそらくその消耗のためだろう、あぴミクの全身は頼りなくふらついているのだ。
「次はど……どこから……い……いつ『襲って』くるんだ!?」しかし、その不安定な姿勢のまま、あぴミクは激しく首を振って、周囲を見回した。「あたしは! あたしはッ!」
 あぴミクはバスタブの上で、どこかに這い上がり逃れようとするかの如く、激しくもがくように体をねじまげた。
「あ、あの……」そのあぴミクに、おんだ式は思わず一歩近づこうとした。が、
 そのおんだ式を、上体をねじ曲げて振り向いたあぴミクは、そり返った手首で指差してけたたましい絶叫を発した。
「あたしのそばに近寄るなああーーーーーーーーーーーーッ」
 ずるりと足裏が滑った。そして、水柱と共に、あぴミクはバスタブの中へと顔面から真っ逆さまに落下した。
 おんだ式は自分の裸の肩を抱いて、身をすくめた。今までの暴れ方から、あぴミクがもがいて野獣のように飛び出してくるものと思ったのだ。
 が、何も起こらない。……どれほどの時間が経ったのかわからないが、らぶ式はおそるおそる、バスタブの中をのぞきこんだ。
 あぴミクはバスタブの水上にうつ伏せで浮いていた。だらりと両手足を水中に泳がせ、ぷっかりと背中を見せて浮かんだまま、動かなくなっていた。



 結局のところ、あぴミクが再び起きて来られるようになるには――衰弱から回復するには、というよりも、全身に染みついた酷い臭気や汚れがましになるには――色々とおんだ式らが手を尽くしても、あと何日かを要した。
 次に起きてきたあぴミクは、少なくともすぐには暴れ回ったりはしなかった。最初のガレージ、件のトレーラーや人型機械の収納してあるスペースの片隅にある、いかにも金属フレームを組んで手作りしたらしく見えるテーブルの前に、無言で掛けていた。顔中、人工皮膚の崩れを防ぐ絆創膏だらけではあったが、あぴミクの外傷は、見かけほどには酷いものではない(要は、あぴミクを苛み痛めつけていた”マスター”らの連中が、わりと高級な方のアンドロイドであるあぴミクを、まともに損傷させるだけの技術や手段を持っていなかったのが原因である)。
 あぴミクの服は臭いの面でも損傷の面でも全部捨てるしかなかったので、らぶ式ミクの予備の服を着ている。らぶ式とKAIKOは、かつてのメルキア軍のアンドロイド兵器、”ロボトライブ”を改造したもので、ロボトライブ用の服ならばいくらでも予備やバリエーションがあるらしかった。らぶ式の原型であるロボトライブの体型は、あぴミクの少女体型とはまったく異なっており、あぴミクは服を着ているというよりも、服の中に埋まっているように見える。立ち上がったら全部脱げそうだった。
 あぴミクは起きてきたばかりだというのに、憔悴したような疲れ切った顔つきで椅子にうずくまっており、向かいのおんだ式が、おびえたような眼でそれを見つめ続けている。
「あのさァ……」しばらくして、あぴミクが口を開いた。「聞かないの……」
「何をだ」傍の柱に背をもたせたMEITOが言った。
「あたしが何者かとか、……どっから来たのか、とかさ」
 連れ込むなり暴れたあぴミクに対して、不審な者だと思っていないだろうか。何か必死で説得でもしなくては、この場に居させてすらもらえないのではないか。あぴミクにはそんな気がしたのだった。



(続)