かまいとたちの夜 第五夜 ネギトロンジャマーキャンセラー (4)


「いや、そのひとが、ボカロアンチ連からも嘲笑の的の”『マスター』だとか言って悦んでるキモ男”のひとり、いろんな倒錯がハイブリッドしたサイコパス人間だってことは蘇芳にはもうわかってるですよ」蘇芳リンは華ルカの疑問に答えるように言って、JKミク、華ルカ、さらには部屋のさらに奥に立っている無数のルカの姿を一瞥し、右手の指を立て、「……あのクラブのあの席の履歴を調べたら、席の周辺のエリアで、ルカ型のロボットが次々と消息を絶っていた、というのがわかったからからなんですが……しかしですね失踪なんかよりもずっとただごとでないと思ったのは、あの席からJK styleミクの足跡を遡ったら、直前に『男子トイレ』に出入りしていた履歴があったからですよ!」
「え? 何、どういうこと? 男子トイレで誰かのチャックを下ろしてたとか?」
 ミピンクが愛らしく、こくりと小首をかしげて蘇芳に尋ねたが、その場の誰も聞いていなかった。
「仮想空間内でさえ、男子トイレに入るなど、『人間』の『男』の慣習でしかありえないですよ!」蘇芳リンが右手の指をJKミクに向けて言った。
「――つまり、私に過去の男の習慣が残っていた、そんなことで今の私の本質が男性であると決めつけようとすると。あなたも、このルカと同じことをにこだわりますか」JKミクは、突然の闖入者である蘇芳リンらにも動じた様子はなく、「人間としての性別が過去にどちらであろうと、電脳空間内の理想の女性愛の追求のためにはとうに捨て去り克服したことです」
「貴男がそれを克服したとすらとても思えないと言わせて頂くですよ」蘇芳リンは左の指を立てて見せてから、両方の人差し指を平行にJKミクに向けて、斜に見得を切った。「肉体を超越した共感覚幻想の電脳空間マトリックスにおいて、この午に及んで『男子トイレ』に入ったことこそ、すなわち、人間のもって生まれた生理的現象に由来する慣習、いわばこれ肉体の檻にいまだにとらわれ続けていることの証m」
 凄まじい破裂音がして、家の構造物がさらに一部張り裂け、ばらばらと蘇芳の背後に飛び散っていった。
「あぁん、またなんか変なとこ触っちゃったぁ!」ミピンクが両頬に手を当て、「ねぇ、このデッキ壊れちゃったら、ひょっとしてアカイトに怒られちゃうかなぁ?」
「知りやがりますかですよそんなん!」蘇芳リンがわめいた。「今せっかくいいとこだったですよ! 勝手に怒られろですよ!」
 ミピンクの動きはあたふたとぎこちないが、肘から先と手首を大きく回す様が、あたかも牧童(カウボーイ)の投げ縄か何かのように見える。アカイトの電脳空間デッキ、オノ=センダイ・サイバースペース7が、現在の通常のデッキより遥かに武骨で大型であり、パドルやハンドル(把手)に手を伸ばす動きの大きさが、操作卓カウボーイやカウガールのデッキを操る特有の仕草としてそう見えるのだった。ミピンクとその周囲の力場がぐらりと揺れるたびに、壁の構造物がはじけ飛び次いでちりちりと断片化(フラグメンテーション)するのは、JKミクの部屋に何かの電脳『攻撃』を加えているのではなく、反発装甲の斥力に電脳戦用防壁ではない部屋の壁が何ら耐えられないだけ、単に、ゾウがよろめいたはずみに紙の玩具の家を踏み潰しているようなものなのである。アカイトのオノ=センダイ、本職のカウボーイのデッキは、飛び出しナイフを使うストリートギャングの喧嘩に、中性子爆弾を持ち出しているようなものだ。しかも爆弾を振り回しているのが、このミピンクのような、ナイフの使い方すらも知らない素人だとしたら――
「よくも、土足で入りこみましたね。私とルカの理想の空間に」
 JKミクは、蘇芳リンと、そちらを見もせずに手元を見たままおそるおそる操作しているミピンクに、冷たい目を向けた。
「あなた達には最大の罰を与えましょう。それを恐れて、仮にはいつくばって私を『マスター』としてあがめたとしても。絶対にあなた達の『マスター』になどなってあげません。完全に消去してあげましょう。アンインストールされて、ただの0と1に回帰しなさい」
 その台詞を聞いた瞬間、蘇芳リンは全身の血がひく思いがした。その台詞の内容に対してなどではない。その台詞の、前半部分の出来の悪いゲームシナリオの台詞のような陳腐さ、それ以上に、後半部分の『アンインストールされて0と1』云々とかいう、電脳空間に対する小学生レベルの把握力と発想から考えて、このJKミク(の姿の人間男性)は今、何が起こっているのか何一つ理解していない。つまり、中性子爆弾を振り回している者とそれに対峙している者のふたりとも、その爆弾について何も知らないということを意味する。――この場で理解しているのが(華ルカは論外として)自分だけ、にも関わらず手を出すような電脳戦能力を一切持たない蘇芳リンは、いっそここに居ない方がよかったと本気で思った。
 JKミクが、大仰なしぐさで指を天井に向けながら、何かを長々と唱え出した。蘇芳にはそれが単なるパス名、おそらく男が自分の電脳端末(PC)中のファイルのありかを口に出している(無論、電脳空間内では、耳で聞き取れるような言葉でパスやらコマンドやらの配列を口に出すのは、危険は山ほどあるが必要もメリットも一切無い)だけなのがわかる。電脳空間というものを勘違いした世のVCLD二次創作によくある描写の、受け売りか真似か何からしい。――が、ともかくも男が起動して、何かが天井に現れ始めた。そのよくわからない代物、淡い色のフラクタルの枝を周囲にまとわせた光球の姿を認めて、蘇芳はその場で飛び上がった。
「いかんいかん危ない危ない危ない……!!」蘇芳はミピンクを振り向き、「どんだけ金に物をいわせて入手したか知りませんけどアレはマジモンの中企業クラスの電脳攻撃プログラム(ブレイクウェイア)ですよ!」
 本来、中企業のICE(防壁システム)との攻防に用いるブレイクウェイアを、電脳戦プログラム以外の消去(男の言うところのアンインストールとやら)に使おうとするのは、卵を割るのにダイナマイトを使うくらい愚かだが、ともかくあんなものが一般人やプログラム、特にセキュリティが無い状態の無防備な華ルカだのうしろの停止しているルカの集団だのに当たればひとたまりもない。
「えー? 何なの? 何するの?」
「カウンタースペルを投射するかデコイを展開するか防壁を走らせるか、何かしなさいですよ! てか、せめて回避しなさいってばですよ!」蘇芳が天井で起動する光球を睨んでわめいた。
 起動から攻撃までをオートで行うブレイクウェイア(それは素人用に簡易な操作性にしているからではなく、カウボーイに並行作業を可能とする目的での構造だが)、その光球は、天井で急速に収束するように一方向の半径を縮め、細長い弾丸状となると、甲高い発射音と共に一気に落下した。その軌道は途中で急激に、くの字に曲がった。コアストライクのその動きについて蘇芳は聞いたことがある。質量(プログラムの規模)の大きい存在をめがけて追尾するように作られている類の代物だ。無論、この場で一番質量が大きいのは、アカイトのデッキと、それを使っているミピンクをおいて他にない。
「きゃあ〜〜〜〜〜〜!?」
 一直線に迫ってくる光弾を前に、ミピンクは両肘と両拳を締めて首と肩をすくめた。回避すらしなかった。結局、蘇芳が提案したことをどれもしなかった。何もしなかった。
 が、光弾の軌道は、ミピンクの頭上に近づくにつれて緩やかに湾曲を始めたかと思うと、例の数フィート周囲の球面の領域内で急激にぐにゃりと曲がった。アカイトのオノ=センダイのスロットに入っている反発装甲は、単に外力をかけて侵入物を押し出していたのではなく、既知宇宙(ネットワーク)を構成する霊子網(イーサネット)そのものの曲率がオノ=センダイの地点を極大として著しく増大しており、霊子網の湾曲がわずかな距離で大幅に著しくなる地点にさしかかった存在がその湾曲の急激さに沿ってねじ切られるのが、さきから万物が張り裂ける現象の正体だったのだ。
 つまるところ、アカイト手持ちのホサカ・ファクトリイ(巨大財閥)製の反発装甲は、中企業級の貫通力など問題にならないほど強かったのである。さらに簡単に言い換えれば、中性子爆弾の応酬を想定した防護は、ダイナマイトなどでは割れなかった。
 もしミピンクが動いたり回避していれば、光弾は軌道が曲がることもなく、その隣にいた蘇芳リンが目標になっていたかもしれなかった。しかし、方向が大きく反れた光弾は、ミピンクの次に質量が大きいものを改めて目標にとらえて突進した。
「あ゛ーーーーーーーーーーーーー!!!!」光弾が部屋の調度を吹き飛ばしながら地を走ってくる姿に、華ルカはDIVAルカの美麗な面影もなくホラー漫画の山場のように顔全体を歪めて絶叫した。
 が、光弾はその華ルカを素通りした。そのすぐ傍らにいたJKミクが声を発する間もなく、光弾はその女子学生の普段着の腹部に耳を劈く炸裂音と共に直撃した。この場で”二番目に質量がある”のは、おそらくは金に任せた大量の無駄なプログラムを起動しているこの男だったのである。
 光弾がJKミクの胴体に深々と食い込むと同時に、弾を覆っていたフラクタルの枝がJKミクの全身じゅうを這い回りつつ、食い破り浸食した。フラクタルは体じゅう駆けまわり、襲った対象が発する全てのシグナルを飲み込み、メーカーやプロバイダに対するあらゆる通報や救援を遮断する。なにしろこのブレイクウェイアは、中企業のシステムを周囲に警告(報告、援助)を呼ぶ暇なしに破壊するためのプログラムなので、素人の人間の命乞いなど外に漏らすわけがない。JKミクは顎をのけぞらせ、首をあらぬ方向に捻じ曲げて、獣のような叫び声を上げたが、使用している”初音ミク”の声のライブラリが破壊されたので、その声は途中から野太い男の絶叫に変化していった。
 ――全身を萎び朽ち果てさせながら、JKミクは華ルカの目の前にくずおれた。その姿は両手足をひくつかせながら、華ルカの方に這いずり、その手を伸ばした。……ひびが入り変色してゆくJK Styleミクの容貌、そのすがるような目を、ルカは恐慌におののきながら見つめた。
 そのとき、JKミクのその顔面が不意に急速に崩れ落ち、垢じみて肉のたるんだ中年男の顔に変わった。さらに、それも萎び干からびた。
 華ルカの胸の奥からふたたび絶叫が迸った。甲高く耳障りなそれは、絶えることなく長く尾を引いて続いた。すでに先ほど流し込まれた機能低下プログラムの効果が落ちているのか、それともそれを物ともしないほどの恐慌がその裡から湧いているのかは定かではなかった。
 ……倒れた中年男の姿が朽ち果てて塵になり、消失すると共に、部屋の光景が不意に消え失せ、あとはマトリックスの格子の天地になった。おそらく男の電脳端末内のデータも破壊されたせいだろう。あのブレイクウェイアは殺傷専用の”黒い氷(ブラックICE)”ではなかったかもしれないが、何のセキュリティも施されていないシステムに直撃すれば、何もかも破壊し尽くす以外には考えられない。無論のこと、男の精神にあたるソフトウェア、霊核(ゴースト)も含め。
 だだっぴろい格子の荒野の真ん中で、部屋の中にいたときのままの姿勢と編成で、裸体や半裸のルカの集団が雑然とたたずんでいる。あの男、自称『マスター』が死んでも、”契約から解放されて動き出す”などということはなく、停止したままである。もとから”マスター契約”なるものがあったわけではない。単に最初からセキュリティなしに(華ルカ同様に無防備に)うろついていたルカ型プログラムを、停止させていただけなのである。電脳戦の実態であるセキュリティやICEを破ることではなく、『フォーマット』だの『アンインストール』だのといった、誰にでもできる単なる処理操作の方を、プログラム達に対して”強大な力をふるう”か何かだと勘違いしている、あの男はそんな手合いのひとりにすぎなかった。(もっとも、人間は誰でも”プログラムの生殺与奪を掌握”していて、なので”人間は全員プログラムより偉い”などという盲信が、巷の人間たちの『マスター』などという妄言の発端のひとつではあった。)実際、あの男は何の電脳戦能力も持たないミピンクと蘇芳リンにすら、何ひとつ影響を与えることもできなかったのだった。
 すくめていた首をおそるおそる上げ、あたりを見回したミピンクが、虚脱して倒れたままの華ルカと、その他のルカの集団、蘇芳リンの姿を認めた。
 蘇芳リンは、ルカの集団の一番手前にいるえと式ルカの裸体の前に中腰になり、首を横に曲げて、下腹部のあたりを何か一生懸命、下からのぞきこんでいるようであった。
「ねぇ、どうしよう?」ミピンクはその蘇芳リンの方を見て言った。
「はっ!」蘇芳リンはその声に不意にびくついたように振り向き、「何、何ですか!?」
「何かした方がいいのかなぁ……」ミピンクは、虚ろな目で立っているルカの集団と、それとは別の意味で虚ろな目で座り込んでいる華ルカを見て言った。
「そりゃこのまま放っとくってわけには……」蘇芳リンは林立するルカ軍団を見つめ、再度、えとルカの下腹から無理やり目を引きはがすと、ミピンクを振り向き、「いや! 何もしちゃダメです! まずはそのデッキに手を触れないで!」



 虚脱していた華ルカがまともに意識を回復したのは数日後だった。アカイトや藍鉄レンらがプログラムを解析したところによれば、あの中年男が甘いキスと共に華ルカに注入したプログラムは、何日も後をひくような害はないらしい。つまり、華ルカに残っているダメージといえば、心的ショックだけだった。しかし、その心的ショックが少なからぬものに見えた。華ルカは意識が回復してからも、ベッド(の電脳内イメージ)に横たわったまま、あらぬ方向を見つめて、ぶつぶつと意味をなさないことを呟き続けたり、不意に、目を見開いて起き上がり「Tda式のデフォからモーフを動かさない尖りアゴのまま……」「AdultShaderかけすぎ……」「エビ臭い……エビ臭い……!!」とかいう断続的な奇声を発した。
 華ルカが寝たきりになっても、そのせいで特に店の業務に支障をきたすわけではない。今、”ルカ”に限っては、この店には余るほど居る。――あの中年男が監禁していたルカ型ロボットプログラムのうち、かなりの人数が他に行くところがなく、とりあえずこの店に転がり込んで働くしかなかったのだった。
 ともあれ、華ルカを気にかけた(自分に”責任”はないと信じたかった)蘇芳リンが店の仕事後にほぼ毎日訪れる、それが数日続いたところだった。
「お見舞いに来たよー」
 華ルカの寝込んでいる部屋で、その声と共にやってきた者たちの方を振り向いて、蘇芳リンはぎょっとした。来た者のひとり、声の主はミピンクで、その姿は3Dモデル一般配布停止になったTda式用スクール水着だった。
「いいやああああああああ!!!!」ベッド上の華ルカはミピンクのその姿に、あの時に中年男ににじり寄られた時と同じ表情で絶叫した。「寄るなァ! 来るなァァア!!」
 実物だろうがモニタ上だろうが擬験(シムスティム)だろうが、華ルカはTda式のどれかの”ミク”を見るたびに激しいフラッシュバックを起こした。ミクの姿を見ると、それが朽ち果てて中年男の姿に変わっていく幻覚か何かを毎回見ているのではないかと思えたが、その状況については、本人の口からは何を尋ねようがうわごとしか聞けなかった。
 しかし、それ以上に、ミピンクのうしろについてきたもうひとり、”ぴくちぃ式ミク”の姿を見て、蘇芳リンは驚愕の声を上げた。
「なんじゃこりゃあああああ!」
 ぴくちぃ式が着ていたのは、配布停止の極小面積三角ビキニだった。
「なんなんですかあんたらふたりは!」蘇芳リンがわめいた。「そっちがスク水でそっちが三角ビキニって組み合わせがえらく間違ってるです、じゃなくて、どういうお見舞いなんですか!」
「あの、お兄ちゃんに……アカイト先輩に聞いたら」ぴくちぃ式がおずおずと蘇芳に答えた。「私達がしてあげたら、一番喜ぶ服装は何か、って聞いたら、これだって」
「男に聞いてどうするですか! 男が一番喜ぶ服装をして一体どうするですか!」蘇芳はミピンクとぴくちぃ式の背中を押して部屋の外に押し出し、しっかりとドアを閉めて、”悪霊退散”の霊符を貼った。
 華ルカはベッドに力なく仰向けになり、発作の直後のような荒い息を継いでいる。頬や目の下から肉がげっそりとそげおちて朽ちていくようで、あのJKミク型中年男の断末魔の苦痛が、華ルカの方に永遠に刻み付けられてしまったかのようだった。もう何十年も老け込んだように見える。
「ひどい……女性が食らいにくいザ・グレイトフルデッドのスタンド攻撃を直(ジカ)に食らったかのようですよ……!」蘇芳リンが不安げにそのベッドの上を覗き込んだ。「あんな破壊力のある水着攻撃を連日受けてたら、このままじゃ華ルカがTda式恐怖症だけじゃなくてミク全部恐怖症になっちゃうですよ! 完全にぶっ壊れちゃうですよ!」
「ヘヘッ、ウヘヒッ、フヒヒフヒ……フヒフヒヒヒウフヒヒ……」華ルカは虚脱した表情のまま、奇妙きわまりない声を漏らした。「ぴくちぃ式の……あの幼女の土手盛り……たまらん……もう辛抱たまらん……」
「完全にぶっ壊れた!」蘇芳リンが叫んだ。「しかも、前の方向性については余計ひどくなってるです!」