かまいとたちの夜 第五夜 ネギトロンジャマーキャンセラー (3)



 華ルカの舌といい指といい、むさぼるような情欲の馳せるにただ任せている。たえがたい快感だが、それに溺れるあまり、自分がここまで体を律せなくなるほどとは信じられなかった。あのJKミクとの間に交わした甘美な唾液は、おかしな媚薬、もとい、神経攪乱用のフィードバック・プログラム、グレイICEでも流し込まれているかのようだ。
 ――華ルカはその場に膝をついた。最初は愛欲のままJKミクを責め立てていた身体だが、快感が全身に広がっていくにつれ、なかば朦朧として立っていられなくなった。
「いい体を持っていますね。技と快楽への欲求も強い」
 JKミクが、ぐったりしはじめた華ルカの体を支えたまま、ゆるりと口を開いた。JKミクの声は、他のミク型ロボットや擬似人格プログラムと同様、『初音ミク』ライブラリを使用したものだが、何か妙に抑揚に癖があり、あたかも、ミクの声紋だけ借りて人間が喋っているように聞こえた。何かよほど高度な音声システムを持っているのか――
「私と一緒に、”理想のミクルカの世界”を作るのに、まさに相応しいひとです」
 睦言にしては何か仰々しい、芝居がかったおかしな台詞だった。
「”ルカミク”の方がいいんだけど――」華ルカは朦朧としたままつぶやいた。
「私に全部、任せてくれればいいんですよ」
 JKミクは妖しく微笑んだまま言ったが、その表情は終始変化しておらず、顔に貼りついているかのように見える。……JKミクの台詞にせよ、心身ともに自由がきかない自分の状況にせよ、何か不可解な気はしたが、華ルカを襲っている激しい波のような快感が、それらの疑念のすべてを押し流していた。
「これから、私があなたの『マスター』になるんですよ」JKミクは膝をついた華ルカの顎に指を当て、上向かせた。
「マスターって、どういうこと……」
 『マスター』とは、VCLDの下位プログラムを購入したり人型ロボットを登用した人間は”『マスター(支配者、主人)』である、そう呼ばれる立場である”と根拠もなく決めつける、ごく一部のVCLDファンらが自称他称する語である。無論、”あいどる”のVCLDは勿論、その他の人型ロボットにも、法律上も規約上も回路上もそんな事実は無い。この語には、VCLDブームのごく初期、ネット上に拡散する大規模な”あいどる”としての特性が理解されない頃に、VCLDを既存の”メイドロボット”等の類の、古く狭い概念に無理やり押し込めようとして生じた(そして、いまだにVCLD現象が理解できていない人間が、押し込めようとしてこの語を用いる)という背景がある。
 華ルカは幸いにも、そんな手合いの人間と関わりあいになることはほとんど無いが、自分自身と、自分が選んだ交流する相手(つまり交際するミクだが)以外の『支配者』の存在を認めない華ルカにとっては特に、この呼称は人間どもの風習の中でも唾棄すべきもののひとつだった。――それはともかく、そんな語を人型ロボットに向かって自称するのは、ごく一部の、『人間』のみである。つまり、ロボットや人格プログラムではなく。
「私自身が、『ミク』として理想を体現します。そして、あなたは全て『マスター』である私の望むまま、私の理想に忠実になることで、『ルカ』の理想を体現します。ロボットシステム同士の行いでは決してたどりつけない、理想のミクルカの世界ですよ」
「あなた、まさか、人間……」ルカは靄がかかった意識と視界の中でそれにしがみつくように呟いた。
 以前、聞いたことがあった。電脳内イメージで、なぜかVCLDの姿を自分から好んでとっている”人間”たちについて。
 ”あいどる”であるVCLDに憧れて真似た姿をとろうとする者、電脳内イメージや物理空間の義体をVCLDに似せて作る者はしばしばいる。しかし、そればかりでなく、VCLDになりきったままで同様の姿をとった相手と擬似恋愛をしたり、性的な交流や交渉の相手を求める人間もいるという。このネット上には、そのための出会い系スペース、チャットスペース等も存在するとも。それは華ルカが電脳空間内で出会ったことのある知り合いの、チャットの赤い人、MEIKOの姿をした、自分と同じロボットプログラムの一体にしては、魅力的という以前にやけに異様な実在感のある一体から聞いた話だった。――ともあれ、このJK Styleミクは、ロボットプログラムではなく、そんなVCLDになりきった人間のひとりだったのだ。
 そればかりか、この人間には『マスター』と『VCLDなりきり』の倒錯が同居していた。同じ人間の倒錯でも、上述の『マスター』とは、VCLDというものを”古く狭い概念”に無理やり押し込めて生じた妄想といえるが、こちらの『VCLDなりきり』はいわばその対極的な、VCLDの”あいどる”としてのワナビの発想と、どんな姿もとれるVCLDの”広すぎる概念”に応じて発生した倒錯である。……しかし、その倒錯の同居はこの手の人間にとっては、難しいことではないのだろう。例えばこの人間のように、『理想のミクルカ』といった動機に駆り立てられ、それに向けて何もかも自己完結しているようなVCLD廃人ならば。
「最高のミクルカの理想に応じて、ミクとルカの両方をどんな姿態にも自在に操れる『マスター』である私が、その理想の世界を作り出せるのです」JKミク、の姿をした人間は、ルカに顔を近づけ、ミクの声で蠱惑的にささやいた。「その理想に添うように、あらゆる面に細心の注意を払って、このミクの身体、女の身体を手に入れたのですから」
「女の……身体……」
 華ルカは目を見開き、思わずひくっと喉を鳴らして
「まさか、人間で、しかも、男!?」
 その瞬間、華ルカの霞がかかっていたような視界と意識がはっきりした。しかし、体は痺れたように動かないままだった。
「汚らわしい! よくも騙したわね!」華ルカは金切声を上げた。声はなんとか出る。物理空間と異なり、叫んで助けを呼んだりしても意味こそないが。「すぐにこの、変な薬だかの効果を解きなさいよ!」
「汚らわしいって、あなた、さっきその男にキスしたんですよ。しかも自分の方から振り向かせて強引に」
 それを聞いた瞬間、胸から激しくこみあげてくる不快感が激しい奔流となり、華ルカは思い切りげえっと喉を鳴らしたが、無論、電脳内イメージに嘔吐する生理反応などなかった(なお、この華ルカの物理空間の義体の方にもそういう機能はない)。
「私の、これは電脳イメージですよ? それを操作している者の性別がどうだっていうんです?」JKミク、の姿をした人間の男は、その唇に貼りついた薄笑いのまま言った。「『男が操作してる電脳内イメージの女』と、ボカロ創作の『男が作った作品の中で操られている女』の、何が違うんですか? 男が動きを操作してる動画とか、男が描いた絵と、何か違いますか? 冴えない脂ぎった不細工な男が書いた百合小説や絵の、そんな男が脳内で操ってる女ボカロの姿。カビの生えたような不器量な女が書いたBL小説や絵の、そんな女が脳内で操ってる男ボカロの姿。――みんな、それを喜んで読んで、ごく当たり前のことのように興奮してるんですよ?」
 JKミク(のガワを被った人間の男)は少女そのもののしなやかな姿態で立ち上がり、
「現に、さっきのあなたも、そういう読者と同じだったんですよ? 私の舌と唇に、私の紡ぎだす快楽に、あれほどまでに悦びを感じていたでしょう。……騙してなんていませんよ。最初から女だなんて言ってませんから。男か女かなんて、最初からどうでもいいことでしょう」
「冗談じゃないわ! 何がどうでもいいのよ!」華ルカは荒れた喉でわめいた。「ルカミクの世界になんで男が入ってくるのよ!」
「なんでかは問題じゃないですよ。理想のミクルカでさえあればいい。この電脳空間にいる限り決して見えもしない所に必要以上にこだわる、そんなあなたこそ、”男に束縛”されている、”屈服”させられているんですよ。男が不要というのは、男の有無に左右されるのではなく、男の有無に係わらないことです。――まあ、良いです。私の理想のミクルカの世界を体験すれば、あなたにも些細なことだってわかるでしょう」
 どうやら、それが理想のミクルカのための第三の、そしておそらくこの人間の最大の倒錯のようだった。
 JKミクは、手足が緩慢にしか動かなくなった華ルカに、『停止』と書かれたタグを貼った。どうやら本当にさっきの唾液か何かを介して、華ルカのシステムに機能低下のプログラムを流し込んだらしい。前述のように、華ルカには最低限の電脳技術もなく、セキュリティも皆無なので、高価な攻撃プログラムを単純に流し込まれたというだけで、なすすべもない。
「『マスター契約』がちゃんと終わって、全て私の思い通りに動くようになるまでは、停止を解くわけにはいかないけれど」JKミクは笑みの形を強め、「大丈夫、あなたは快楽を感じるときだけ起きていればいいから。これからは、理想のミクルカの世界だけが、あなたの感じる世界になるから」
 JKミクは、部屋の奥のカーテンを開いた。その奥に現れた光景に、華ルカのかすれた喉から、胸の奥底からつきあげてくるような悲鳴が迸った。
 おびただしい数の”ルカ”が、すなわちルカ型のロボットプログラムや人格構造物が、裸体や半裸で虚ろな目をして立っていた。華ルカと同型のDIVA型(服がないのでモジュールはわからない)の計算された端正な女体をはじめ、冷たい美しい線を持つキオ式、簡素かつ成熟した曲線のアノマロ式、すらりとしたN式、漫画的な可憐さのPiron式、海外モデルのようなモンテコア式、ひときわ肉感的なえと式、ありとあらゆる形態のバリエーションのルカがいた。直立はしていたが、それは恐らくエリアのスペースの都合だけで、整列でもなく詰め込まれたように雑然と林立し、手足も首も力なくだらりと垂れているだけだった。おそらく華ルカと同様に捕まって停止させられ順次集められたのだろう。
 そして華ルカもこの中のひとりに入り、必要なとき、もとい、この男の気が向いたときにその欲望に応じて引き出され、この男の自己陶酔のミクルカとやらの忠実な材料としてその都度使用されるわけだ。
「さあ、マスター契約しましょう」JKミク(になりきった自称マスター)は、うずくまっている華ルカににじり寄るように踏み出した。
 ”マスター契約”などといっても一体何をする気かわからない。人間とVCLD・ロボットの間には、主従関係などという客観的事実は何も無く、作ることもできないので、そんな手続きは公的に存在しない。”マスター契約”とやらは、この男が聞きかじったか勝手に考えたか、ともかく何か神聖な効力を持つと妄想している、何かの形式か儀式を指すと思われた。しかし、その内容を今までの男の態度から想像するに、充分すぎるほどに身の毛もよだつ行為としか考えられない。――華ルカは再度、痛めた喉でがらがらと耳障りに絶叫した。だから何になるでもないが、これから待ち受ける運命を思えばそうせざるを得なかった。



 そのとき、突如としてどこからともなく、部屋中いっぱいに満ちるような音が聞こえ始めた。それは何か巨大なものがゆっくりと張り裂けていくような音だった。同じ巨大なものが巨大な力で破壊される音としても、爆発や暴風、殴打等ではなく、何かが質量と応力にたえきれず、めりめりと裂けていく音である。電脳戦(コアストライク)にほんの少しでも心得がある者ならば、電脳戦の五感情報化である擬験(シムスティム;全感覚擬似体験)情報では、そんな音は滅多に存在するものではないことに気付くだろう。JKミクも華ルカも、単に音の大きさだけに驚いて振り返り、どちらもそうした知識はないようだった。
 直後、部屋の一方の壁が急速にたわみ、思い切りはじけ飛んだ。
「いやだからここ入口じゃないってばですよ!」その向こうから、鏡音リン型らしき、鈴が転がるように小柄で可憐な声がした。
「えー入口ってどこ? 入口なんてあるの?」答えるように別の、非常に間延びして緊張感のない、しかし、初音ミク型の声がした。
 壁が円盤状にくっきりとめくれ引き裂けて、その円の中央にわずかに浮遊した状態で立っている、まぶしいほどに滑らかでしなやかな肢体の”ミク型”の概形(サーフィス)の姿があった。その電脳内イメージは、いわゆるAppend衣装だが、本物の”あいどる”の初音ミクで服や髪が青系の色になっている部分が、どういうわけかショッキングな真っピンク色をしている。その傍ら、すぐ後ろに、鏡音リン型だが和装の姿がある。”蘇芳リン”と、そして、店の同僚である”ミピンク”の姿である。
「あああ手遅れかも! 蛙の小便よりも下衆な白濁色の欲情潮流なぞを流し込まれてしまった後だったりするですか!?」蘇芳リンは、着物の裾を乱してぐったりと横たわっている華ルカの姿を認めて、かなり早まったことを口走った。
 華ルカは虚脱したように、その蘇芳とミピンクの姿を見つめた。
「……何者ですか。ずいぶんな訪問の仕方ですね」
 JKミクは、わずかな眉の動き以外に不快感をほとんど示さず言った。
「えーっと、あの、スーパーハカーですハイ!!」蘇芳が部屋の中にJKミクの姿を認めて叫んだ。「いや蘇芳は電脳戦能力ハーミットパープル級の低さなんですが、蘇芳には友達がいて、そのまた友達にスーパーハカー! つまりカウボーイがいて、連れてきたのはそのまた友達でない方の友達、つまり友達にスーパーハカーのいるっていう友達」
 けたたましい張り裂ける音がした。ホバリングする浮遊物体のようなAppendミピンクの姿が危なっかしく傾いたのだが、そのときに何故かまた、JKミクの家の壁の一部が吹き飛んだのである。
「えー、これ、どうしよ?」ミピンクが両手首を動かしながら、当惑して言った。「ねえ、蘇芳ちょっと、ただ止まって立ってるのって、どうやればいいの」
「知らないですよ蘇芳はそんなの、アカイト先輩のデッキでしょう!? ふたりでそれに乗って一緒に(タンデム)飛び回ったこともあるってさっき」
「えーわかんないよ、だってあのときは操作とかよりアカイトに『あててんのよー』とかやるのに夢中だったし」
 つまるところ蘇芳は、店のカウボーイであるアカイトを呼んで来ようとしたのだが、留守だったので、アカイトの同居のミピンクを呼び出し、おまけにミピンクにアカイトの電脳空間(サイバースペース)デッキを無断借用させたのだった。アカイトのデッキのスロットにおそらく差しっぱなしになっている防御プログラム、ホサカ・ファクトリイ社の廃棄ソフトからの拾い物、反発装甲(ディフレクションアーマー)システムが、ミピンクの周囲数フィートほどの球形の力場となり、通常のプログラムの構造物と反発し、押し退け引き千切っているのが、さきほどからの円盤状に張り裂ける効果の正体だった。
 このミピンクの、電脳空間側での姿、もとい、Append服の姿というのは、蘇芳も華ルカもはじめて見る。店の裏方で働いている(といっても、蘇芳リン以上に店の役には立っていないが)際に着ているのはもっぱら”初音ミクデフォルト衣装”で(あとは、たまたま下着とかそれさえ着ていないところを目撃するくらいで)、物理空間側のミピンクのデフォルト衣装は、秋葉原(アキバ・シティ)の安物コスプレ店で買ってきたようなペラペラな質感の軽薄な光沢の、着ている本人の頭と同じくらい安っぽいものだ。しかし、電脳内でのミピンク、このAppend衣装の姿は、輝くばかりの鮮烈さと存在感さを全身から発し、ほとんど神々しいとすら形容できる姿に見える。同じTda式でも、目の前のJK Styleミクは、最初にあのクラブで見た時は繊細で美麗に見えたものだが、今のミピンクと比べればJKミクは単なる家庭端末でエンコードした低画質動画程度の薄っぺらい存在感にしか見えない。実際のところ、衣装のデータの出来などは関係ない。アカイトの電脳空間デッキの処理能力、概形(サーフィス)を擬験(シムスティム)情報化する能力がまるで比較にならないのだ。――が、ミピンクの台詞や態度は、店での蘇芳以上の役立たずのそれと何も変わらなかった。
 一方、華ルカは、当惑して蘇芳リンを見上げた。――蘇芳は何故ここに来たのだ。なぜ助けが必要なほどの事態だとわかったのだろう。



(続)