神威女難剣紫雲抄(7)


 《神田》のVOCALOIDらの所属する社のスペース、和風の屋敷のような意匠が電脳の構造物(コンストラクト)とまぜあわさった広い邸宅と庭園は、高い塀(これも電脳構造物だが、竹か何かを組んでいるように見える)に取り囲まれている。その塀の上、庭園の中からは木陰になって見えにくいあたりに、身をひそめるような小さな影があった。それは服装が全体的に黄緑色の、半ズボンの少年の姿をしたVOCALOIDだった。
 本日、《大阪》の兄姉三声が、巡音ルカと連れ立って《神田》を訪れたのだが、リュウトは放っておかれた。それが故意なのか、それとも《上野》の氷山キヨテルの教室に預けられっぱなしで存在自体を忘れられていたのかは定かではない。が、どちらだったにせよ、リュウトにしては何かしゃくなので、キヨテルの授業が終わった後の《上野》からの帰りに、こっそりとかれらのあとをつけたのだった。
 木と竹の節を手がかりに、難なく塀のてっぺんまでよじのぼってみると、塀の奥の木々に囲まれた日本庭園のようなエリアが見える。そこには、庭園をのぞむ屋敷の縁側に、がくぽ、ルカ、GUMI、Lilyに加えて、清楚な大和撫子の姿を(今は)している女声VOCALOID――BPSW−VY1V3が、湯飲みを載せた盆を持って現れたところだった。
「また兄上ばっかり美女に囲まれてる」がくぽらとVY1の姿を見下ろしながら、リュウトは口をとがらせた。「だいたい、あのMIZUKIは僕の方が先に仲良くなったってのにさー」
「こら! ちょっと、何のぞいてんのよ!」
 下から突如叫び声がして、リュウトは飛び上がった。
 塀の外側、リュウトのすぐ下に立って見上げているのは、不審な行動を続けるリュウトの後をさらに《上野》から尾行してきた、猫村いろはだった。
「あっ!」びくついた拍子に塀の上で平衡を失ったリュウトは、手足を懸命にばたつかせた。「あわわわわわわわわ」
 が、平衡は回復できず、どこにも掴まるような場所もない。見上げていたいろはは、手を貸そうにも貸しようがなく、その場で硬直した。なすすべもなく、少年は塀から真っ逆さまに、いろはの真上に落下した。
 ――塀の下に倒れたリュウトが我に返ると、何かが落下のクッションになっていたようで、さほど痛みはなかった。リュウトはほっとしたように息をついてから、自分の下にあるものの感触を手探りで確かめた。
「おおっ! これは!」リュウトの表情が輝いた。
 リュウトはうれしそうに、ぴっちりした赤い布に包まれた柔らかいものを、ひとしきり手の届く限り撫で回したり、肉の厚みと張りとなめらかさを思う存分確かめ味わうように激しくもみしだいたりした。
 が、やがて、がっくりと肩を落とした。その一連の感触、リュウトにとってはいささか”触り慣れすぎている”それによって、自分が押し倒しているそれが、何なのかに気づいたのである。
「今回の兄上と似たようなことが起こったってのにさ……なんであっちは中々会えない大人の美女で、こっちは珍しくも有難くもなんともないツルペタなのさ……」
「このビチクソがアァーーーーッ!!!!」
 いろはのフォノンバスターの轟音が響き渡り、塀全体をびりびりと震わせて庭園の中まで届いた。
 ……その音に、麦茶の盆を抱えたまま、VY1が振り向いた。
「何でしょう……」VY1は不安げに、音がしたと思われる塀の方を見て、「あの、私、行ってきた方が」
「いや音源ソフトウェア一族にはこの程度の轟音はよくあること」GUMIが言った。
 と、彼女らの間にまた一体の人影が姿を現した。がくぽとはまた異質の武士の姿をしたVOCALOID、BPSW−VY2(彼の”勇馬”という名は、AIのチューリング登録暗号でも認識記号でもVOCALOIDとしての芸名でもなく、俗称、通称でしかない)だった。
「今、がくぽが尋ねられた、”遊雲(ゆううん)”という太刀名義ですが」
 VY2が、麦茶の碗をVY1から受け取って言った。
「我らの仲條外他流(なかじょうとだりゅう)の術技、仲條流太刀法三十三剣の中に、その名があります」
「仲條流の刀法であったか……」
 がくぽは、秘太刀、秘中の秘剣と思っていたものが、思ったよりも早くVY2の口から出たので、意外さにうたれたように言った。
「しかし、仲條流と同系の逸刀流には無い太刀名義のはずですか」巡音ルカが言った。
 逸刀流は最も知られた流派だが、VY2の仲條流はそれよりも古い流派で、同時に逸刀流の源流としても知られる。そのため、仲條流と逸刀流とでは、多くの太刀法は共通している。逸刀流へと洗練される際に新たに工夫が加えられたため、仲條流にはまだ無い太刀法で逸刀流に増えているものはかなり多いが、その逆というのは多くない。
「仲條流から外他流、そして印牧流(かねまきりゅう)を経て逸刀流へと技が伝わるにあたって、金剛高上と無極の極意、表裏五点ずつの法形(表:電光、命車、円流、浮舟、払捨刀 裏:妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣)が伝わりました。逸刀流では、その極意五点を根本として、改めて中太刀(大太刀)、相小太刀、刃引、立合抜刀といった百余ものおびただしい太刀法の数々へと術技を編み直しました。しかし、その過程で、元来の仲條流にあった古い名義は消滅したり、他の名義に吸収されていることはあります」
「なれば矢張り、その”遊雲”は、今や仲條流のみに残っておる技かということか」
 がくぽがVY2に言った。
「そう簡単には教えとらせてはくれぬ、一流の秘奥であろうな――」
「いえ、これは極意のひとつではあっても、特に秘ではない」
「秘太刀、ではないのか?」がくぽが意外そうに言った。
「ある太刀法が、秘太刀と呼ぶものか否か。その言葉、定義がいかなる意味であるのかは、しかとは答えられませんが」VY2が言った。「――ともかくも、”遊雲”がいかなるものか知りたくば、その太刀働きを見てもらうのが早いでしょう。わたしと姉君とが、仕太刀、打太刀となって披露するのが最も式にかなっていましょうが。しかし、むしろ理解となる段なれば、神威がくぽ、貴方ならその身にじかに体得して貰った方が早そうです」
 がくぽはVY2のあとについて、縁側から庭に降りた。問題となる”遊雲”の技は、思ったよりも遥かに速く、たやすく知ることはできそうである。しかし、がくぽにはそれに対する拍子抜けのような戸惑いはあった。



 VY2とがくぽは、庭で相対した。ここは以前、ちょっとした誤解でVY2とがくぽが対決した場でもあり、がくぽとしてはやや複雑な心境が混ざらないでもなかった。
 VY2は右手に、いつも差している小脇差だけを抜き、左手はただ下におろして突っ立った。がくぽはその差料、抜き放たれると煌びやかに太刀光の色を変える『美振』を抜いたままの姿で、そのVY2に対し、何かの掛かりの合図があるのを待った。
「上段か、より上より懸られよ」VY2が、片手に小脇差を下げて突っ立ったまま言った。
 がくぽはややためらったが、やがて『美振』を霞(新翳流での直立上段)にとり、すべるように間合いをつめた。一刀一足の間境をこえる直前に、よどみなく霞から雷刀(大上段)にとりあげた。VY2はそれでも突っ立ったるままに、微動だにしない。間境を踏み越えたとき、『美振』が雷刀からそのまま落ちかかった。応じてVY2の何らかの受けかわしか、右手の小脇差が働くものと、がくぽは思った。
 が、VY2が不意に深く足を延べ、その身が沈むように踏み込んだ、と思ったとき、動いたのはその左手の方だった。その手ががくぽの剣の落ちかかってくるその手許、柄元をとり、自らの右胸ごしに下に引き落としたかと思うと――手を掴まれたがくぽの脾腹に、すでにVY2の右手の小脇差の柄が当てられていた。
 がくぽはそのままの姿勢で、黙り込んでいた。
 やがて、申し合わせたかのように、両者は静かに離れた。
「これが”遊雲”です」VY2が言った。
 がくぽは無言のまま、不可解なように首をかしげた。
 ――が、縁側に座っていたGUMIとLilyは、その一連の光景に息を呑んでいた。VY2の今の動きは単純であっさりとしたものに見えたが、それだけに、VY2が難なく、こともなげにがくぽを破ったように見えた。
「前回、ここで兄上と引き分けたのよね」Lilyが声をひそめて言った。「でも今の、その……勇馬の方が、明らかに兄上よりずっと上に見えるんだけど」
「いや、《浜松》の開発の頃の最初から、勇馬がずっと上だったはず。勇馬はもともと芸能用じゃなくて、研究用AIだから」GUMIが呟くように答えた。
「いえ、技前(わざまえ)の差ではありませんよ。……今のかれらの太刀働きは、あのような一連の組み立てになるように、あらかじめ動いたからにすぎません」
 VY2の”姉”の方のVY1が、ふたりのうしろで言った。
「太刀法は、よくあるお芝居、剣術ものの書き割りのように、何か必殺の技があって、いつでもその技を出せて、いつでも出せば勝てる、というようなものではありません。三十三本の太刀法がそれぞれ、何かとても限られた状況がそろったとき、必要とされたときに、技のうちどれかが自然に出て、働くようにするものです。今は、その限られた状況を、勇馬があらかじめ作ってのものに過ぎませんから」
 その言葉をよそに、がくぽはまた首をかしげた。ルカは、無言でがくぽを凝視している。
 がくぽとルカのふたりとも、GUMIやLilyとは別のことを考えている。かれらの思うところは同じだろう。今のVY2の技は無論、簡単なものではない。確かに一見あっけないが、これを実行するには、きわめて高度な会得が必要である。
 しかし、かといって、これを巡って生命の危機に陥り、”七人組”が斬りあいをしてまで手に入れたがる秘太刀だとは思えなかった。
 仲條流でも、特に外他流は小太刀の法であり、室内の紳士の剣という側面がある。今の、身を沈めて素手で回り込む仕太刀の動きからして、まさに室内、廊下などの、軽装の小刀の攻防に特化したものに思える。ともあれ、ますますもって必殺の秘奥とは思えなかった。
 しかし、首をかしげるがくぽには、ただひとつ、気になったことはあった。
「……”金比羅房”ではないのか……?」
「左様です」VY2が小脇差を下げたまま言った。「貴方の遣われる神午流の一手、”天狗抄八箇剣”のうち第八剣、”金比羅房”によく似ています」
 金比羅房(二人掛;陰乃霞;橋返し)とは、新翳流の太刀法である一群の”天狗抄”、ときにはその奥の三剣(智羅天、火乱房、金比羅房)とされるもののうちひとつである。今のVY2の刀法との間には、構えや留めに違いがあっても、働きの組み立てに共通点がある。足を延べて深く沈むように踏み込み、翻転するさまなどである。
「”天狗抄”は、新翳流がそれよりも古い流派の技を編み直し、またその対処とした勢法と聞き及びますが」VY2が言った。「元来は同じ太刀法であったものが、仲條流と新翳流とで名をかえたのか。あるいは、術技の追求が、仔細を同じくするところへと行き着いたのでしょう」
 仲條流の、少なくとも小太刀の外他流では、遊雲は、おそらく室内の狭い場での応戦の技である。対して新翳流の金比羅房は、『細道の二人相とて跡先よりはさまれたる時も吉』と伝えられ、また橋返しの別名の通りに、狭い路地や橋上において有効な技である。いずれも、”限られた空間に働こうとする術”という共通点はあった。
 しかし、それは今VY1の方がGUMIとLilyに言ったように、限定された特定の状況が起こった場合への対応法、まずもって尋常の術技、いわば、雑技のひとつである。現に、以前にも幾度か、がくぽも実際にこの金比羅房の勢法を遣うことになった状況もあった。
「”天狗抄八箇剣”、わけても末の天狗抄奥は、神午流でも口伝も伴う奥義ではある。が、名や形それ自体は、門外不出の秘剣でも、最高奥義の類でもない」がくぽは、なかば呆然としたように言った。「そこに、何かの秘があるようには思えぬ……」
 そう言ったきり、がくぽは立ち尽くした。
「勇馬。この皆様は、秘太刀を探し求めてきたと……」縁側に立つVY1が、ふたりを見下ろして言った。「”遊雲”以外も含めて、何か心当たりはありませんか……」
 VY2は間断なく、その言葉に首を振り、
「……これは、貴方にもわかっているはずだが」やがて、VY2はがくぽに向かって言った。「”奥義”や”極意”とは、それこそ剣術ものの芝居や書き割りから信じられているような”秘太刀””勝負太刀””必殺の技”とは、必ずしも、いえ、むしろ決して一致しない。極意とは、流派の根本であり基本です。常に明らかに示され、初学の者が剣歴を通じその意味を探ろうとするようなものだ。……もしそういった極意が、同時に秘太刀、勝負太刀であるとするならば。もし秘があるとすれば。それは、単純で洗練された動きの中に、一定の境地に達した者のみが意味を見出せる、感得できるものがある、ということになります。我々がすでによく知る”遊雲”や”金比羅房”の中に、秘太刀と呼べるもの、知られざる”秘”があるとすれば、おそらくはそれをおいて他にない」
「”金比羅房”の中に……」神威がくぽは、ほとんどひとりごとのように呟いた。
 陰の霞に構え、あるいは脇構えから踏み出し反転する。がくぽはそれを思い浮かべようとしたが、幾度となく目にし、幾度となく自分でもさらったその動きの中には、それ以上のものは何も見えてこなかった。
 ”遊雲”が何であるかは示されたものの、何もわからなかった。少なくともその”秘太刀”としての側面、がくぽの命綱となる側面については、ふたたび完全に、否、以前よりもさらに、まったくの霧中に入り込んでしまったのだ。



(続)