神威女難剣紫雲抄(8)


 すでに夜も更けていた。思い出せば最初の夜と同様に、星の光がかげり、月光が見え初めていた頃だった。人気のない、まばらな木(フラクタルデータ樹)の立ち並ぶ草地にひとり、神威がくぽはたたずんでいた。
 ”七人組”と果し合いを約定したその日、その場だった。
 あれきり、何をどうしてよいかわからぬまま、ここまで来るしかなかった。……VY2に”遊雲”の術を教わって以来、がくぽは自らの”金比羅房”の技と、あの日見たVY2の動きから何かを取り出そうとしていたが、何も掴むことができないままに日が過ぎてゆき、結局は果し合いのその夜となっていた。技を会得し、それによって、可能であれば(結月ゆかりのために)”七人組”、あの暗黒卿を傷つけずに撃退することをがくぽは強く望んでいたのだが、最早、それどころではなかった。何も会得できなかった以上、七人組と対峙して生き残るすべさえもおぼつかない。
 ――ルカは、どうしたのだろう。
 巡音ルカは、あれから後の最初の何日かは、”遊雲”と”金比羅房”の技から何かを会得しようとするがくぽの打太刀をつとめたり、考察を口にしたりしていたのだが、期限が迫ってきたこの3日ばかりは、忽然と姿を消していた。がくぽの集中を乱したくないため身を引いたのかとも思ったが、がくぽが死地に赴くその当日にまで、見送りや一言もないのも不自然だった。とはいえ、ルカがここで突如がくぽを見捨てたとは、がくぽ自身も信じてはいないが、……
 とりとめもなくそこまで思ったとき、――不意に動くものの気配を感じて、がくぽは振り向いた。
 がくぽが無意識に放っていた緊迫、鋭い剣気に対してなのか、木陰に隠れるように身をすくめたまま立っていたのは、結月ゆかりだった。
 その姿を目の当たりにし、がくぽは極力表情を和らげようとしたが、ゆかりの様子は、まだ怯えが残っているようだった。ゆかりは今までがくぽの姿は見ても、剣を揮うところなど見たことはないことを思い出した。あるいは、刃傷沙汰までは予想していなかった、という彼女の言葉から考えれば、”七人組”その他のものを含めて、白刃が舞う様など見たこともないのかもしれない。どうすれば恐れさせないで済むのだろうか、武張った自らの身を思い、がくぽは思案した。
「あの」先に言葉を発したのはゆかりだった。まだ僅かに怯えたような様子のまま、控えめに言った。「《川崎(カワサキ)》の七人組のかたがたに――話してみたんですけど。間違いだったって、戦っても秘剣は知らない相手だって」
 がくぽは無言でそのゆかりを見た。
「でも、七人組はただ、ざわざわ、と笑って。……手は引かないって」
「ざわざわ……?」
 がくぽはあの暗黒卿の姿と遠雷のような声色からその様子を想像してみようとしたが、できなかった。
 ゆかりが、七人組に事情をうまく伝えることができなかったのか。七人組が何か誤解してしまったのか。それとも、ゆかりの言うことを聞いたうえで、信じなかったのか。わかっていて、手を引かないつもりなのか。いずれとも判断はつかなかった。
「ならば、どうあっても斬りあわねばならぬが。――ここ数日、勇馬から教わった”遊雲”に工夫を加えんとしたが、駄目だ。我には、勇馬の秘太刀は何も会得することができなかった」
 がくぽはゆかりに、静かに笑ってそう言った。
「どうあっても我は、あの暗黒卿に斬られる他にないのかもしれぬな」
「あの……こんなことは、私なんかが言えることじゃないかもしれませんけど」
 ゆかりは控えめながら、思い切ったように口を開いて言った。
「私が、あなたを巻き込んだばかりに……」
「そなたの気にすることではあるまい」がくぽは、ゆかりの歯切れの悪い台詞をごく自然に遮って、静かに言った。「もうすでに、これは我と、立ち合う”七人組”との間の、いわば、男同士の問題でな。もはや、ゆかりの手を離れていること。関わりあう必要のあることではないのだ」
 がくぽは言葉を切り、
「いや――関わりあるとしても、そなたに悪いことにはなるまいな。おそらくは、そなたがあの暗黒卿を、あの七人組のひとりを失うような結果にはなりそうもないからだ」
 ゆかりは、今の言葉のように、がくぽに対して引け目があるのは確かかもしれない。だが、かといって、がくぽによって七人組が傷ついてもよいとは思わないだろう。
「もう、そなたが一切傷つくことはない。そのためだけに、我はこの果し合いを受けたのだから。……そして、我の方こそ、仮に七人組を傷つけたとして、そんな我を許せ、などとは、そなたに顔向けのしようはない。そうなるよりは、これでよかったのだ」
 沈黙が流れた。
 荒野のまばらなフラクタル樹に、かすかな月光が照り映えるのが遠くに見えた。
「あの……」不意に、ゆかりが静かに言った。「”デコイ”です」
「何と?」
「あの、”暗黒卿”の姿のものは、”七人組のうちのひとり”ではなくて、その下の、操っている傀儡(くぐつ)です」ゆかりはためらうようにきれぎれの言葉で言った。「……なので、かれら自身を傷つけることは、気にしないで」
 がくぽが相手を斬ったとしても、じかに”七人組”を傷つけることにはならない。……しかし、ゆかりがこれを伝え、がくぽがためらいなく剣を揮えるとなれば、それは結果としては七人組の不利益ではないだろうか。……そうであるとしても、できる限りどちらも傷つかないで済む手段を、ゆかりなりに考え抜いたのだろう。
「心得た」
 がくぽは微笑んでみせた。
「どちらにせよ、あの相手を傷つける技など、我は何も持たないのだが」
 仮にそれをゆかりから告げられても、存分に剣を揮ったとしても、もとより勝てる要素は見つからなかった。
 ゆかりはそのがくぽを不安げに見上げていたが、
「”スキマ”です」
 不意に、小声でささやくようにそう言った。
「かれらが求めているのは、”スキマ”をくぐる技です」
「……”スキマ”だと」
 そのがくぽの問い返しには答えず、静かに微笑んだまま、ゆかりはふわりと数歩をあとじさった。その姿を見守るように、がくぽは呆然と立ち尽くした。



 と、そのゆかりの姿と背後の光景が、不意にノイズにかき消されるように霞んだ。
 ゆかりだけではなかった。周り一帯の視界が、濃い灰色とわずかなマトリックス光のノイズで覆われ、月光もフラクタル樹も荒野の遠景も、何もかも見えなくなった。霧がかかったというよりは、あたかもこの領域が灰色のドーム状の何かに包みこまれたようである。
「がくぽ! 聞こえますか!」
 少し遠く、おそらくはその灰色のすぐ向こうから声が聞こえた。
「ルカか!?」
「何者かが、貴方のいるその一帯を他のエリアから遮断しました。急いでそちらの近くに行こうとしましたが、間に合いませんでした」ルカの声が聞こえた。「3日前から準備していましたが、肝心のところで先を越されました」
 どうやら巡音ルカは、がくぽに無断で助太刀か何かの干渉をするつもりで、ひそかにこの場に待ち伏せていたらしい。確かに、がくぽがそれを知れば武士の面子云々、それ以前に危難を避けるために何としても止めようとしただろう。無断で動いたのは、そのがくぽの性情を理解するルカとしては当然だった。
 しかし、いかに七人組がウィザード(註:防性ハッカーの最高称号)とはいえ、高位AIの、しかも仮法使(ヴァーチュアーソ)である巡音ルカの裏をかくことができるなど、尋常ではない。BAMA《スプロール》(北米東岸)にでも行かなければ、こんな電脳技術の持ち主はまず居ないのではないか。
「この灰色の障壁はICE(註:電脳防壁)です」ルカの冷静な声が続いた。「こんなものを破れる国家戦略級の”氷破り(アイスブレーカ)”など用意していません。力技(ブルートフォースアタック)では、私の処理能力でもあと数時間は破れそうもありません」
「いや、危険だ、ルカもこの辺りから離れ……」
 が、がくぽがそう言うまでもなく、ルカの声は遠くなり、やがてまったく気配がしなくなった。灰色のドームの半径が一気に大きくなって押し出されてしまったか、灰色が分厚くなったかで、完全に遮断されてしまったらしい。
「――外界から隔離させて貰ったよ」
 がくぽが振り返ると、そこにたたずむ長身の黒い影、――最初に見たあの日以来の、例の暗黒卿の姿があった。
 がくぽは腰間の『美振』に左手で反りをうたせたまま、腰を落とし、無意識にその相手の姿から数歩を下がった。
「この決闘の場には、新たには誰も入って来られない」暗黒卿は言った。「余計な者に干渉されると困るからね」
 と、不意に、低く激しい羽音が聞こえた。がくぽの目には、暗黒卿の背後に向かって、何か小さな飛行体が複数、不規則な浮遊軌道を描いて飛来したように見えた。
 暗黒卿ゆらりと長身を傾がせ、余裕を持ってがくぽとの間合いをさらにとった。不意に、その拳からは、真紅の光そのものでできた剣が、集音機器が電磁波を直接拾った際のハウリング音のような格子(グリッド)空間を震わせる響きと共に伸張した。
 ブッピガン。ブッピガン。ビームサーベルが飛行物体を切り払う際に独特の固定サウンド・エフェクトが連続すると共に、ぽてぽてと2つの物体が地に落ちた。それらは、槍を構えた小さなミツバチのような生き物だった。ウィルトンとウィルティーノ、VOCALOID Lilyの情報収集用端末にしてしばしば奇襲用のデバイスである。いずれも両目が「x」印になって暗黒卿の背後の地面にのびているが、破壊されたわけではなさそうである。
「他にも助太刀がいたか。ICEで霊子網(イーサネット)間の交信を遮断・撹乱されてるのに、ICEを隔てて端末を誘導するか」暗黒卿ハウリング音を放つ赤い光剣を提げたまま、平然と言った。「”ビット兵器はミノフスキー粒子下でも誘導が可能”、もとい、AIとそのアスペクトの間のリンクは、どんな干渉も受けないからね」
 ルカの策なのか、どうやらLilyが、遮断幕がおりるよりも前に何とかこれら2体だけでも幕の内側に紛れ込ませていて、奇襲を試みたらしい。電脳活劇俳優の肩書きも持つLily(と、少なくとも当初は、今は出番の全くない相棒のMoshと共にそう売り込んでいた時期もあった)の電脳技術も、VOCALOIDの面々の中では決して低くはない。が、それは暗黒卿の剣技の前にはまるで通用しなかったようだった。このLilyの情報端末の奇襲は、数日前にはいとも簡単に結月ゆかりを束縛し、さらに以前には、リュウトに対しても完全に不意打ちで無力化させたことがある。この暗黒卿は、高位AIでさえ逃れられないその攻撃をたやすく無造作に、文字通り払いのけてみせたのだ。
 この暗黒卿の身体が”七人組”のデコイで、それが電脳戦用のものであれば、むしろ、本体(それが人間であれそうでなかれ)のアヴァターの肉体能力とは無関係に、あらゆる状況において最高の電脳戦能力を発揮できるようプログラムされた、最高の剣技を持たされているだろう。ウィザードが製作する高位AIにも、匹敵する技があると思わねばならなかった。
「……いや、武士の君が、助太刀を呼んだなどと、疑っているというわけじゃない」暗黒卿は軽い口調で言った。「ただ、前も言ったけれど、誰かが勝手に乱入したり口を出したり、それは我々や君の埒外で起こるからね。遮断幕を張ったのも、万が一を考えてというところさ」



(続)