神威女難剣紫雲抄(2)


 数日後、神威がくぽ、GUMI、Lilyの3声の《大阪(オオサカ)》所属のVOCALOIDが、いわゆる同業者らの集う《上野(ウエノ)》の事務室を訪れた。かれらの”末弟”の、リュウトを迎えに行くためである。リュウトは諸事情があって、他の幼年のアーティストらに紛れて、週に何日か、《上野》の氷山キヨテルの”生徒”となっていた。といっても、そのリュウトは、そもそも一人で電脳空間内の《上野》《大阪》間の行き帰りに支障はないところ、迎えに行く必要というのはまったく無く、しかも上の兄や姉らがぞろぞろと全員つれだってゆくことにも、さして深い意味はない。それは《大阪》の面々が《上野》や、《神田》《赤坂》《秋葉原》などを訪れる機会だけのためで、それはVOCALOIDの仕事の話もあればその他の理由でもあり、さらには、それとはまた別に訪れる《札幌(サッポロ)》の面々と合流する目的のこともある。
 授業が終わったリュウトと、GUMIやLilyが何か話し込んでいるときに、がくぽは《上野》の無数の女性アーティストの誰か(それは、VOCALOIDやVOICEROID以外にも人間を含めて無数にいて、がくぽは顔を覚えていなかった)が出した茶(茶を出した方はがくぽの顔は覚えていたらしく、恐縮と羞恥の入り混じった表情が垣間見えた)をすすりながら、芸能事務所の事務室を見回した。事務室の壁には、《上野》のおびただしい所属芸能人や、そのイベントのポスターが所せましと貼ってある。
 と、そのうち一枚に気づいたがくぽは、思わず声を上げた。
「この方は……!」
 淡い照明の中の、はかなげな微笑。月夜の下で垣間見た、あの姿に他ならなかった。並んだ2枚のポスターのうち片方(『VOICEROIDも仕事募集中』と書いてある)は、ウサギの耳のような房のあるフードをすっぽり頭にかぶっており、いよいよあの夜にくるまっていた上着に他ならない。
「おや、『結月ゆかり』をご存知なのですか」
 スーツ姿に書類ケース、電脳空間内でも本当に”教師”そのものの姿をとっている《上野》のアーティストのひとり、氷山キヨテルが、そのがくぽに気づいて声をかけた。
「うむ、夜道で出会ってな。この近くまで送ったことがある」がくぽは今キヨテルの言った彼女の芸名が、そのポスターの下に書いてあるのを見て言った。あの夜のことを思い出しながらも、特に隠し事をしようなどという発想も出ずに、口に出していた。「しかし、そも、あの方が、我らの同業であったとは……」
 主婦ばかり集まるイベントで出会った女性が、AI、それも”あいどる”などとは、がくぽは夢にも思わなかった。
「わっすご! もう会ったんですか!」そのがくぽの答えに、《上野》所属のAIアイドルのまたひとり、mikiが叫んだ。「そのひと、おんなじ《上野》の私達でも、いまだによく知らないんですよ!」
「そうは言っても、我もよくは知らぬ……話しただけで」
「なかなか話す機会だってないんですよ! そのひと《川崎》の方に行ってることが多くて」mikiが目を輝かせて言った。「なんてうらやましい!」
「うらやましくない結果になることが多いんだけどね」GUMIが音楽室から事務室に入って来ながら、口を挟んだ。「なんか兄上と新人、特に女性アーティストがやけにすぐにお近づきになるんだけど、そのせいで話がややこしくなるとか、毎回やたらと追求してくる人がいるとか。ルカとかルカとかルカとか」
「……なんだか、納得いかないよなぁ〜」
 GUMIやLilyと共に音楽室から戻ってきたリュウト――緑色の幼い少年の姿をした、がくぽらの”末弟”――が、そのmikiらの騒いでいることを聞きつけて、つぶやいた。
「どうして毎回毎回、美女にめぐりあったり囲まれてるのは、兄上の方ばっかりなのさー」
「あら、あんただって毎日のように美女ばかりに囲まれてるじゃないの」リュウトの後ろに、猫村いろはが歩み寄った。
 リュウトは、自分と一緒に今音楽室を出てきたばかりのキヨテル教室の生徒たち――猫村いろは、miki、歌愛ユキを、じゅんぐりに見回した。
 それから、再びいろはに正対して、期待をこめた目で無邪気にたずねた。
「美女? どこ?」
 いろはは無言で、広がった袖を突き出して、袖の先でリュウトの顔面をすっぽりと覆い尽くした。リュウトが、それがいろはのフォノンバスターの発射口だと思い出したのはそれに顔をつっこまれた後である。が、いろははそのまま、フォノンバスターを最大出力でぶっぱなした。
「……なんなのよもう!」激しい爆音にLilyは思わず耳をふさぐと、その手を離してから、いろはにつかつかと歩み寄った。「あんたねえ、明日以降の収録にさしさわったらどうすんのよ。……《大阪》にはこっちの社の事情があるんだから、他社VCLDへの、あと、ひとの弟への礼儀ってものがあるでしょ!?」
「それはその弟とやらに、ものの礼儀ってやつを教えてやってから言って欲しいもんだわ」いろはが幼げな容貌からはまったく想像もつかない、姉御じみたドスの利いた声と言葉をLilyに発した。
「こらこら、音楽室はともかく、ここの事務室の方で騒いではいけませんよ」キヨテルがにこやかに、そちらにほんの少し首を傾けただけで、何の気にした様子もなく言った。
「……普段は《川崎(カワサキ)》に居るのか、この方は」
 がくぽがそのキヨテルに、結月ゆかりについて聞いた。
「彼女は、ベースフォーマットが第三世代VOCALOIDだということですが、新式であるせいか、そのAI企画開発にかかわった《川崎》のスタッフが、いまだに後援、庇護していましてね。リリース、デビューからは、もう何月か経つのですが。私達ほどには《上野》に顔を出すことは少ない」
「スタッフの庇護とは……」
「”七人組”です」キヨテルが眼鏡を指で押し上げて言った。
 キヨテルが続けて説明したところによると、”七人組”とは、凄腕のプロデューサー、またはその集団である。”またはその集団”というのは、七人組といっても本当は何人なのか、実際に7人いるのかはわかっていないためだった。例えば、VOCALOIDでも《札幌》の鏡音リンとレンは、常に別々に2声いるように見えるが、AIとしては1基しかなく、単一のAIがリンとレンという二つの人物像(キャラクタ)の”アヴァター”を投影しているに過ぎない。電脳空間(サイバースペース)内では、呼び名や普段現れる姿からでは、実際はその正体が何人かさえもわからないのだ。無論、人間なのか別の何かであるのかもわからない。
「七人組、かれらもしくは”かれ”は、《秋葉原(アキバ・シティ)》の村田さんや山下さんのように、プロデューサーでもあれば、AI開発に関わる強力なウィザード(防性ハッカー、電脳技術者)でもあるようです」キヨテルは、以前からVOCALOIDの皆と仕事で関わることの多いプロデューサーらの名を出した。
「しかし、この方、誰ぞの妻女なのか……」
 がくぽはあの夜に月下で見たその姿、年齢不相応にも主婦と思わせた印象を思い出して言った。
「AIが妻女、というのもよくわからない話ですが」キヨテルが答えた。「知る限りでは、彼女に特に既婚であるとか、そんな背景なり、売り込みのための”設定”なりは明かされていませんね。しかし、そう見えるところがあるとすれば、”七人組”に常に手厚く庇護されている、その背景が彼女に所帯持ちか何かのような雰囲気を負わせているところが大きいでしょうね」
 キヨテルは言葉を切り、まだ向こうで激しく言い争っているLilyといろはの姿をしばらく眺めてから、
「実際に既婚であるか否かに関わらず。今度こそようやく、本当の意味での大人の女性、アーティスト達にも、若い子達の手本となるような、また教育を手伝ってくれるような落ち着いた女性が加わるというわけです。……子供の教育の悩みを分かち合うことができるような女性が。授業参観家庭訪問、昼下がりの麦茶とけだるげな午睡に団地妻の情熱をひめた心身に包み隠された背徳に匂い立つ真昼のアバンチュールへの誘惑」
 キヨテルのにこやかな表情は子供に優しく言い聞かせる時のままだったが、なぜか眼鏡だけが、事務室の明かりの加減かその下の瞳を映さずに光を反射して怪しくきらめいた。
 そんなキヨテルをよそに、がくぽはあの月夜の下の『結月ゆかり』の姿を思い出そうとしていた。あるいは、自分が見たのはそんな彼女の知られざるような一場面、電脳”あいどる”ではない普段の生活の素顔、あるいは、それよりさらに奥の、普段の生活ですら見えないような姿だったのではないだろうか。
 そして、さらに神威がくぽには、今キヨテルには言えなかったあの夜の自分の振る舞いに、その秘の域に踏み込んだという感触があった。



 まだいろはに絡んでいるLilyと、両者の狭間で進退極まっているリュウトはひとまず放っておくことにして、がくぽとGUMIは《上野》の事務室のスペースから先に外に出た。電脳空間(サイバースペース)エリア中の《上野》から《大阪》までのルートは、しばらくの間は何もない格子(グリッド)のみが広がる荒地になっている。
 人気のない荒地を少し進もうとしたそのとき、不意に、そこに待ち伏せていたような黒い人影を認めて、がくぽはともかくGUMIは思わずその姿に足を止めた。
「やあ、すぐに見つかったよ。VOCALOIDはみなここに集まるって聞いたからね」
 その黒い騎士は、遠方の嵐の音のような禍々しくくぐもった機械音声(マシンボイス)にまったく似合わない、気さくな言葉をがくぽに向かって発した。
 目の前の黒い騎士は、その姿はどちらかといえば言葉よりも禍々しいその声色の方に合致したものに見えた。全身が完全に、つややかに黒い鎧兜に覆われているが、兜は日本の具足のそれのような曲線の鉢を持ちつつも、不気味に装飾がまったく無い。黒いマントの狭間から、真っ黒い篭手と足甲が見えている。体格はがくぽとほぼ同じで、すなわち、電脳空間(サイバースペース)ネットワーク上を見回しても、目立つほどの長身痩躯である。
「――何か」
 自分の疑念というよりも、戸惑っているGUMIの様子を感じてか、がくぽはその暗黒卿に声をかけた。
「君だね、我々の『結月ゆかり』に手を出した男は」
 その暗黒卿は軽妙な口調のまま、その姿と声色の方に合致する、世にも恐ろしい内容の言葉を発した。


(続)