神威女難剣紫雲抄(1)

 月が見えてきた。晴れ渡り星の見えていた深夜の空が、月光のせいで星の光がかすみ始めると同時に、イベントが終わり、人々はまばらに帰路につき始めた。
 それは『主婦に人気! 星空ハグの星占いコーナー』とか何とかいう辺境の小ウェブサイトが開催した、ささやかな天文イベントで、わずかな参加者のほとんどは実際に、主婦とおぼしき女性だった。――しかし、その帰る人々の中にひとつだけまぎれこんでいた、その姿こそは、ここからは遥かに遠い《大阪(オオサカ)》の芸能事務室に所属のはずの、『神威がくぽ』であった。
 この武人VOCALOIDの、西国武士の風習である日々の縁起担ぎやげん担ぎ、転じて暦や易に過剰にこだわる性癖の結果が、何を間違ったか、”少女趣味の星占いサイト”に日々入り浸る結果になった、という事情は、知らなければ他の参加者からは不審に思われても仕方がない類のものである。しかしながら、月夜の下をこの秀麗な美剣士が逍遙する、その涼やかな立ち居振る舞いは、実に様になるもので、周囲の主婦がその目に留めれば、思わず立ち止まって嘆息を漏らし、不自然の感を差し挟むのを忘れるであろうほどであった。しかも、傍に余計なことを言う者、特に「黙ってさえいれば颯爽としてる男」などと辛辣な言葉を発する鏡音リンやLilyなどが誰も(この男には稀なことではあるのだが)同道していないという場であれば、なおのことであった。
 冷涼な夜気を感じつつ、がくぽはひとり山道を降りる帰路を進んだ。歩くうちに、立ち止まったり振り返る主婦の姿も離れたり散ったりして、周囲に他の人影を見なくなった、と思った頃であった。
 がくぽはふと気づいて、足を止めた。
「おや」
 山道の脇に、立ち尽くしているような姿がひとつあった。道に迷っているのか、それとも不如意な足下を気にして踏み出せずか、立ち止まったまま、月しか見えない夜空を見回している。
 肩に黒っぽい上着を羽織り、上着のフードを頭にすっぽりとかぶって、その下に寒そうに身を縮めるようにしている、ほっそりとして小柄な人影だった。参加者であった主婦のひとりだろうか。野の花のようにたおやかな姿で、月光の中に、その姿自身もほのかな光を放つかのようであった。
「如何した。道に迷うてか」がくぽは歩み寄りながら、声をかけた。
 彼女が振り向いた。月下にほのかに照らされたその容貌が、思ったよりもかなり若く、明らかにがくぽよりも年上ではないことに驚かされた。その後姿だけでも穏やかな印象が、主婦のひとりとの印象を抱かせていたのだった。フードの下に垣間見えるくせのある柔らかい髪と、合わせた上着の下の服の色合いは、がくぽ自身に少し似ているが、さらに淡い色調で、それらの不安げな表情や仕草と相まって、とても儚げだった。(頭のフードには、なぜか長い房が二つついており、ウサギの耳のようにも見えた。)
「すみません……このあたり、はじめてなので」その声は、ほぼ誰しもが彼女のその見た目から想像するであろう通りの、澄んでいながらも緩やかに落ち着いた、柔らかい声色だった。「《上野(ウエノ)》のスペースの辺りまで、いえ、ええと、……せめて、《神田(カンダ)》まで戻れたらと」
「《神田》までならば、方角は同じだ。送ろう」がくぽは言った。「重々、足元には気をつけられよ。この辺りの山道の足場は酷い」
 そう言いつつも、がくぽの服装はまるで山歩きには適していない(もっとも、それを言うなら、おおよそいかなる活動にも到底適しているようには見えない、珍妙な服装なのだったが)ところ、それを難なく優雅に進むのだった。がくぽは歩みを緩めて、彼女とほとんど並ぶように、ほんの一歩だけ先に立って歩いた。彼女は無言で、そのがくぽの足取りを頼りに、おぼつかない足取りながらも歩きはじめたようだった。
 ……それにしても、ここ電脳空間(サイバースペース)内では、人間にせよ他の自律プログラムにせよ、自ら思い思いの姿をとるが、容姿自体は物理空間と同じ姿であっても、服装や外装はどちらかというと派手な感じや、過剰に意匠化されたものである傾向がある。それは情報流を視覚化した電脳空間の象徴図像学(アイコニクス)にも関連するが、情報流の中で目立ちやすく、判別しやすくするためである。ほとんどのVOCALOIDのデザインも、故意にそうしたものだった(がくぽの姿はそのVOCALOIDの中でも特に珍妙なものだったのだが、本人に自覚は全くない)。特に、人間であっても、女性のイメージは本人の感性や流行を大きく反映したものとなりがちである。しかし、彼女のこの電脳空間内イメージには、世間ずれ(電脳ずれ、とでも言えばよいのか)したようなものがなく、落ち着いた姿で、それでいて、ほのかに光るようなある種の輝きがある。その年齢とは一見繋がらない柔和さは、雰囲気通りの主婦であるとすれば、そのつれあいの性質にでも因するのだろうか……神威がくぽには窺い知れぬ域だった。



 ――しかし、夜道を歩きながら、あるいは、平然と歩けるがくぽの方は、そうやって歩みを緩めただけで、それ以外には、彼女の安全にはむしろ頓着しなさすぎたかもしれない。不意に、彼女は足元の不如意に何か、つまずきかけたようだった。
「あっ……」
 小さく声を発すると、隣のがくぽに無意識に手を伸ばしたようだった。がくぽが立ち止まって思わずそこに差し出した腕に、彼女はすがりついた。
 そっと掴まるその腕の力は弱く、その力で何とか頼ろうとするように、身をあずけてきた。夜空の下定かならない視界のもとで、体が密着する感触、彼女の上着ごしにがくぽの体に柔らかみと、体温が伝わった。
「……ごめんなさい」しばらくして、彼女が静かに言った。
 ほのかにがくぽの鼻腔をかすめたその香りは、がくぽの知る(あるいは幸か不幸か、知る羽目になった)女性たちの残り香――鏡音リン巡音ルカ、GUMI、Lily、森之宮先生、VY1ら――のものとは、いずれともまるで違うものだった。爽やかで清清しく、それでいて刺激なく、落ち着きを感じさせるような香だった。
「一人では、足元が……」彼女はがくぽの袖を弱々しく体に引き寄せるようにして、見上げた。
 がくぽは、先ほどはしがみつかれた驚きが先に立ち、何もできなかったものの、彼女のその掴まる力の弱さ、儚さは――こちらから強く支えてあげなければ、という感を次第に起こさせるものだった。だが、それだけではなく、その上着の下で震える肩と、つかまっている指の細い線は、それほどまでに怖がっているのか、ひどく無防備に見えるせいなのか――この女性を守りたい、と強く思わせるものがあった。
 が、そのとき突如、山道のかれらの足場、足元の周囲一帯の地面がちょうど円形に、ぽっかりと崩れた。それはまるで狙い済ましたかのように、綺麗に一斉に、まっすぐ真下に陥没した。あたかも、お笑いステージの装置そのものだった。彼女の悲鳴が上がったか、いずれかの手がさらに強くつかまったかどうかもわからない。両者はもつれあって、大量の瓦礫(電脳内構造物の断片)と共に、真っ逆さまに落下した。
 ――瓦礫の噴煙が収まり、薄暗い中にも辺りの様子が見えると、どうやら両者は山肌でも、さほど上の道からは遠くない位置に落下したようである。
「案ずるな。いかほどのことも無い……」
 彼女を見下ろしたがくぽの温和な表情が、静かにそういった。
 瓦礫の合間にうずくまるように着地しているがくぽに、彼女は抱きとめられていた。彼女は自分の体を見下ろして、自分が落下による傷どころか、服の裾に埃ひとつないほどに完全に守られていたことに気づき、驚愕に目を見張った。頭のフードが外れて、短いが豊かに波打つように見える淡い髪がこぼれ、がくぽの腕にかかっていた。
 がくぽはその繊細ながらも力強い両腕で、彼女をしっかりと、むしろすっぽりと覆い尽くすように、抱きしめていた。彼女はそのがくぽの胸に、顔をうずめるような形で抱きとめられていた。
「あの……」そのがくぽの腕を見ながら、かすれたような声を出した。
「何も怯えることは無い……」しかし、その声にがくぽは諭すように言って、さらに腕に力をこめた。
 彼女はそのがくぽの優しげに目を閉じた顔、あるいは、何かに自ら恍惚としているようにも見えるその表情を、戸惑ったようにしばらく見上げてから、……がくぽのその腕の中に、当惑した表情を続けたまま、あらぬ方向を見つめつつも、ただ抱かれていた。月夜は次第に空が曇り、その見通しはさらに陰るばかりである。


(続)