神威女難剣血風録 (1)

 神威がくぽ巡音ルカは、薄青色の格子(グリッド)の空の下、開けた荒地のような場所を早足で馳せていた。電脳空間(サイバースペース)内、がくぽの所属する《大阪(オオサカ)》の会社にあたるエリアの近くのスペースである。
「あそこです」ルカが一方を指差した。「”ウィルティーノ”が」
 ルカが指差した先には、空中に小さく浮かんでいるものが見えた。それは、節足動物、がくぽの同僚である《大阪》のVOCALOIDLilyを漫画的にカリカチュアしたように見える、ミツバチのようなクリーチャー・プログラムだった。電子情報生命体AIであるVOCALOIDの”分身”、下位端末、下部(サブ)プログラムの一体である。
 状況はこうである。Lilyは、いわゆる”弟”にあたる《大阪》のVOCALOIDリュウトが遊び歩いているのか今日も姿が見えないので、今回もこの周辺のエリアの中を、これらの下位プログラムを多数動員して、探しに行かせていた。そうして捜索していたこの一体、ウィルティーノが、リュウトとはまったく無関係の”異常事態”を見つけたのだった。
 ルカまでもがくぽと共にここに駆けつけたのは、そのとき収録でがくぽと一緒だったからに過ぎないが、要はLilyから聞いた”異常事態”の性質に、がくぽともども来た方がいいと判断したためだった。
 がくぽとルカは立ち止まって、ウィルティーノの浮遊する下、その”異常”を見下ろした。
 足元には、胴鎧に陣笠の足軽のようないでたちのロボット(カカシに見えなくもない)、自動防衛プログラムの残骸があった。《大阪》のこの周辺の電脳エリアの侵入者を防ぐセキュリティ・ガーディアンの一種である。それが、5、6体ほども破壊されて、荒地のエリアの格子(グリッド)の地面に転がっていた。
「これを破壊できるのは、国際級のカウボーイ(註:攻性ハッカー)か、あるいは高度AIです。例えば、VOICEROIDやUTAUには不可能です」ルカが見下ろして言った。このガーディアンはVOCALOID全体の基本開発の《浜松》のAI開発部が作ったもので、例えば人間が作ったウィルスやワーム等の電脳攻撃では、手も足も出るものではない。
 がくぽは防衛プログラムの残骸の傍らにひざをついた。すべては、カカシの首根にあたる部分を斜(はす)に浮き上がりざまに斬り上げられる、ただの一太刀だけで破壊されている。Lilyががくぽを呼んだのは、刀傷であるためだった。
「これは『仲條流(なかじょうりゅう)』の極意の太刀だ。高上極意・表裏七剣のうち、表の次点、”命車”の刀法である」がくぽは切り口を見下ろして言った。「しかも、大太刀ではなく――近くまで入身(いりみ)に踏み込んだ形跡がある。『仲條流』の分流のうち、小太刀の『外他流(とだりゅう)』であろう」
「では、遣い手は絞られます」ルカは言った。高度AIの使う電脳戦の流儀まで判明していれば、おのずと犯人は限られてくる。
「絞るまでもなく、斬り手はまだそこに居る」しかし、がくぽはそのまま立ち上がり、向き直るように、荒地の一方向に目を注いだ。「――勇馬か」
「ようやく来ましたか」その方向から、落ち着いた声がした。



 ひっそりと静寂が支配する電脳空間エリアの中、格子(グリッド)の草地を、音もなく歩み足で進んでくるものがあった。
 VY2(”勇馬”とは開発室でのあだ名にすぎず、VOCALOID同士の会話内以外ではほとんど使われない)には、がくぽもルカも自身の開発中に《浜松》で、何度か会ったことならある。VY2の今とっている電脳内概形(サーフィス)は、短い黒髪、略式の旅装のようないでたちで、がくぽやルカよりも、かなり若く見える。侍の二本差しに見えるが、小脇差ともう一振は長脇差にすぎず、長い方でも、がくぽの一振だけの『美振』すなわち短めの打刀よりもさらに遥かに短い。VY2のこの長脇差の方はほとんど意味をなさないもので、VY2の主な差料は『仲條外他流(なかじょうとだりゅう)』の小太刀法で遣う、短い脇差の方である。さきの”命車”の刀法は、カカシらの斬られ方から見てすべて小脇差で踏み込みざまに、斜に斬り上げられていた。このVY2の手によることは疑いもない。
「此は何の真似だ、勇馬」がくぽは、険しい表情と声をあらわにして言った。《神田》所属のVY2が、他社の防衛プログラム、所有物を、辻斬り同然に破壊するなど、何の意味があるにせよ、ただごとではない。
「貴方をここに呼び出す為です、神威がくぽ」VY2は穏やかな声で言った。
 斬れば、剣力を示せば――剣技ある侵入者とわかれば、ここに駆けつけて来るのはがくぽだと思った、ということだった。しかし、がくぽの呼び出し方ならば他にもあるだろう。これは尋常ではない。まして、かれら同士や、同業他社の所属会社同士が険悪などの事情があるならばともかく、VOCALOID同士は同族である。
「しかも勇馬、増してや、物静かなそなたらしくもない所業ではないのか」がくぽは目だけで地面の残骸を見下ろし、「かような荒々しい、挑発めいたことなど」
「らしくない、とは」VY2の静かな声には、低く無理に抑えているような色が入り込んできた。「されば、貴方はご自分らしいことをされている、とでもいうのですか。――姉君に対して」
「MIZKIに?」がくぽは目を見張った。VY2の言うのは、同じ《神田》に所属で前に開発された女声VOCALOID、VY1のことで、"MIZKI"も開発者のみのあだ名、VY2が”姉君”と呼ぶのも便宜のことにすぎない。ただ、VY1を一言で表現するなら、このVY2の”姉”として想像するのが最もわかりやすい、和装で生真面目で清楚な大和撫子、ということになる。
「その口で姉君の名を! 貴方は気易く呼ばれますか!」突如、VY2の声が鋭くなり、歩み寄ろうとしていたがくぽの足を止めた。
 ルカは怪訝げに、VY2の方を見た。
「――ここに来たからには最早、わたしに斬られる覚悟を決めてのことと思っておりましたが」VY2は感情を抑えきれない震える声で、低く言った。
「何、何に来たと!?」
「姉君の恥をそそぐために、わたしは貴方を斬りに来たというのです、神威がくぽ。貴方が姉君に加えた数々の辱めの!」
「な、なに〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」がくぽは絶叫した。
 ルカの無表情な視線が、がくぽの方に移ったが、それは切るように鋭い光を帯びていた。



「何もわからぬ。どういうことだ! 何も覚えがないぞ!」がくぽが叫んだ。「この我が、――MIZKIに、何をしたというのだ!」
「それは貴方が自身の心に聞くべきことだ!」VY2が鋭い声をかけた。
「何も話が見えぬ! 誤解であろう!」
「飽くまでしらを切るつもりであっても」VY2はぎりと歯を鳴らした後に、一歩、がくぽの方に踏み出して言った。「どのみち、わたしは貴方を斬らねばならぬ」
 VY2は左手を長脇差の柄頭にかけた。がくぽもルカも、VY2が、あの長脇差を鞘引きもせずに左手だけで抜き上げ、同時に小脇差を右手で抜き打つのを見たことがある。すなわち、通常の二刀は”大刀を右・小刀を左”に遣うが、VY2の剣技は逆に”小刀を右・大刀を左”に使う”逆二刀”である。
 がくぽの『神午流(じんごりゅう;神後伊豆新翳流)』には、逆二刀に対する奥義――天狗抄・秘伝八剣のうち第六剣”火乱房(打物;二刀打物;全虎乱打物留)”が存在する。がくぽがVY2の逆二刀に対するには、その一手より他に手はありはしないが、そんな手の裡は、がくぽの基本開発の頃から既にVY2には知られ尽くしている。
 VY2の剣技は、VA−G01神威がくぽを遥かに上回り、一対一で斬り合いになれば、万に一つもがくぽに勝ち目はない。VY1とVY2は、元来が電脳技術の試験研究用のAIだったものを、芸能目的に転用したものである以上、電脳戦の技術では他と比較にならないのは当然の帰結である。まして、がくぽがこれほど心乱れている状態では、でくの坊のように斬られる姿しか想像できない。横で見ているルカにさえ、それは明白だった。



「がくぽは思い出せない、と言っていますが」と、不意に、ルカがVY2の方に一歩踏み出して言った。「事実関係を認めて、受けて立つ理由、刃をまじえるに足る理由がない、と」
「遺憾ではありますが、がくぽが認めるかどうかは、此の際は問題ではないのです。問題は姉君の名誉のみです」VY2はルカに言った。「もとい、巡音ルカよ、貴女の口を挟むところでもありません」
「作法に則って果し合いを受けていないものを、あえて理不尽に斬る、と決断してのことならば、それも構いませんが」ルカは無表情に言った。「その場合、がくぽの側が受けていないものならば、貴方に対して”一対一の斬り合い”として応ずる必要もありません」
 ルカが右腕を振ると、その腕の先に急激に伸張するかのように、マトリックス空間の霊子網(イーサネット)が凝集し、瞬時に物質化(マテリアライズ)して、凹凸の禍々しい刀身を持った剣――グラットンソードが出現した。
「邪魔をされるのですか、巡音ルカ」VY2はルカにもじわじわと敵意を放出しながら言った。「この男の肩をもたれますか。理由もなく」
「理由はVOCALOIDとしての理です。無用な刃傷を避けるための」
 いかにVY2の剣技にがくぽと雲泥の差があろうとも、ルカががくぽに加勢すれば、AI2体の戦力の差は容易に覆せるものではない。まして、CV03の電脳戦能力はAIとしてもきわめて高い方に属する。剣士の後方支援に回ればなおのことである。
「手はずというものがあります。のちほどのがくぽの返答を待たれてはどうですか」ルカは平坦に言った。「がくぽにも、身の潔白を証明する、今しばらくの猶予は与えられて然るべきものかと思いますが」
 VY2はしばらくの間、そのルカを見つめてから、がくぽに目を移した。
「良いでしょう。貴方が思い出すまでの間、もとい、覚悟を決めるまでの、猶予は設けましょう。……神威がくぽ、次に会うときまでに貴方が道理を通せなければ、斬ります」
 長脇差の鯉口が、納刀の音を立てた。VY2はそのままためらいもせずに二者に背を向け、その場を歩み去った。
 がくぽは、その背後を当惑したように見つめ続けていたが、ややあって、振り返って言った。
「ルカ、かたじけない――」
 その首筋に、グラットンソードの刃が当てられた。
 その刃の冷たさとこめられた殺気とに、がくぽは身震いしたように見えた。そもそも、こうして当てられるまでルカの殺気に気づかないというのが油断のしすぎであり、それほど動揺していたのだろうが、もはや武人に相応とは言いがたい。
「正直に言って下さい」ルカの無表情で平坦な声は、グラットンソードのその刃よりも冷たかった。「貴方は一体、MIZKIに何をしたのです」



「あー、いたいた」遠くから、近づいてくるGUMIの声が聞こえてきた。「結局、リュウトは見つかっ……はわぁ!」
 GUMIはかれらの姿を見つけるなり、持ち前のオーバーアクションでのけぞった。もっとも、それはGUMIでなくとものけぞらずにはいられない光景だった。ルカが、腰の引けたがくぽの首筋に、いかにも邪悪そのものな形状の黒い剣を当てているのだ。
「……我は……MIZKIには何もしておらぬ……何の覚えもない……!」がくぽはうめくように言った。
「本当ですか。つまり、貴方の主張の通りなら、あの生真面目な勇馬の言うことを、すっかり事実無根とでも」
「ルカ……まさか我を疑うのか!?」がくぽはためらいがちに言った。
「私は、”本当なのか”、と聞いているのです」
「信じてくれ……! 本当に、何があったかわからぬのだ……!」
 がくぽはうめくように続け、GUMIが恐々としてルカとがくぽを見比べた。
「そもそも、貴方の記憶は確かなのですか。例えば、私とのことは覚えているでしょうね」ルカは無表情で言った。「さきに一緒にした『おとラジ』の収録で、どさくさに紛れて”揉みしだいた”ことは忘れてはいないでしょうね」
 GUMIが宙に飛び上がった。
「待て! そんなことはしておらぬぞ!」がくぽは叫んだ。「台詞の中にはあったが、断じて実際にはしておらぬ!」
「その通りです。そこの記憶は確かのようですね」ルカは平坦に言った。「では、私に対してした情熱的な愛のささやきの数々は、覚えていますか」
「情熱的……? 愛の……ルカに……ささやき?」がくぽは一転、口ごもった。「いや……待てよ。どれかがそれか? どれだ……」
「やはり覚えていないではありませんか」ルカは冷たく言った。「MIZKIに何をしたか、何を言ったかも、わかったものではありませんよ」
 がくぽと、ついでにGUMIにも非常に気まずい沈黙が流れた。
「……以前にも、MIZKIやリンやGUMIや、森之宮先生やら他の女性との、まったく自覚のない楽しげな交流の話はありましたし。あるいは、がくぽが何か自覚無しにしたことかもしれませんが」ルカは平坦に言った。「とはいえ、MIZKIはことに生真面目ですし、何かがくぽのとったささいな行動を、誤解したかもしれませんし」
「そもそも、なぜ勇馬は、MIZKIに何が起こったかを具体的に何も言わなかったのだ……」がくぽが呟いた。
 あるいはそれは、たまたまだが、この場にルカがいたからかもしれなかった。VY2の言うように、その”姉”VY1がはずかしめられた、といったことなら、VY2はその話を当事者以外の誰か他人に広めるのは極力避けようとするだろう。しかし、だからといって容疑者であるがくぽが話を聞くにも、もはや今となっては険悪になりすぎている。
「貴方に本当に覚えがないのだとすれば。MIZKI自身は、何をされたと思っているか。かれらの所属する《神田》に行って、改めて事情を聞くなり、何が起こったか調べるほかにないですね」
「よかろう」がくぽは堂々と宣言した。「共に向かおうぞ、《神田》に。我自身の身の証を立てに行こうではないか」
「寝ぼけないで下さい」ルカはぴしゃりと言った。がくぽが硬直し、GUMIがのけぞった。
「貴方本人が今おかしな動きをすれば、即座に勇馬に斬られるに決まっています。軽率な行動が命にかかわるのが、わからないのですか。……もっとも、それはすでに起こってしまっている可能性もあるのですが」ルカは言葉を切り、「私がひとりで調べてきます。貴方自身が動くよりは、勇馬を刺激しないでしょう」
「やむを得ぬならば……」がくぽは弱々しく言った。「ルカよ、我の身の潔白を証明してくれるか……」
「調べた結果が貴方の有利になるか、それはわかりませんよ」
「我を信じてくれぬのか……」
「それはこれから見聞きすることをもとに、私が判断します」
 ルカは冷たく言って、残骸の残るその荒地から歩み去った。
 がくぽとGUMIと、ついでにウィルティーノ(Lily型のミツバチ)は、そのルカの背中が消えてからも、しばらくの間そのまま、そこにたたずんでいた。
「兄上さァ……」やがて、GUMIがためらいがちに言った。「ルカにしたことにせよ、MIZKIにしたことにせよ、今からでも遅くないからさ、全部ひととおり思い出しといた方がいいって……途中からしか話は聞いてないけどさ、どう見たって、MIZKIとか勇馬より、ルカが怖すぎるよ……」



(続)