神威女難剣血風録 (2)


 巡音ルカは落ち着き払って淡々と、まずVY1についての、ここしばらくの仕事の記録を調べた。人物像(キャラクタ)を売り出している《札幌》、《大阪》や《上野》所属のVOCALOIDらと違って、《神田》所属のVY1やVY2には、アイドルのような派手な活動はあまりなく、したがって量も目立たない。しかし、それを考えても、ここしばらくVY1の仕事には、めだった活動記録が見当たらない、それどころか姿を見せていない、引きこもっていることは確かのようだった。
 どうやら、最近のVY1には何か表に出せない事情がある――神威がくぽ、あるいはVY1やVY2の一方的な誤解だけではなく、何かの根拠となるものはあるようだ。だが、スキャンダラスなことならなおさら、それを《神田》でじかにVY1やVY2から聞き出すのは困難だろう。
 かれら以外から、何があったか聞かなくてはならないなら、――それならそれで、出来ることはいくつかある。しばらく考えてからルカは、VOCALOIDの所属事務室としては《神田》に物理的に近い、いわば隣にある《上野》に向かった。
「――MIZKIがここしばらく、姿を見せないのは確かですね」
 ルカが《上野》の社のスペースで捕まえた、氷山キヨテルは、そう答えて言った。
「しかし、MIZKIに限って、問題を起こすようなことは何もないでしょう」
 《上野》の芸能事務室、控え室のひとつの席に向かい合って掛けたルカに、キヨテルはにこやかに応対した。キヨテルはいつも通り、電脳空間(サイバースペース)内での姿でさえ眼鏡にスーツ、書類ケースのいでたちで、ここまで『普通の人間』じみた、概形(サーフィス)をとっている者は滅多にいない。たとえ、本当の人間だとしても。
 氷山キヨテルは、《上野》がプロデュースして、ボーカリストとしてデビューもしているいまどきのネットアーティストで、本業は小学校の算数教師とか何とか名乗っているが、正体はわからない。その仕事量と能力から、キヨテルが人間ではなくて実はVOCALOIDらと同じ電子情報生命体、AIではないか、という噂も流れている。ルカは、どちらであったとしてもあまり重要でないと思っているが、ともあれ、それだけに、キヨテルは芸能事情にも詳しく、《上野》の同業者の中では話がわかる。
「ここの音楽室の子供たちには、いつも《神田》のMIZKIの品行方正でおしとやかなところを手本にするよう、教えているんですよ」キヨテルは仕事途中なので持っていた書類なのか、ユキ、アイ、ショウタ、いろは、miki、リズムといった《上野》のネットタレントらの名前の書かれた成績表をめくりながら言った。「この子供達はみんなMIZKIのファンで、みんなにとっても頼りになるお姉さん、といったものでしょうか。なにしろ、VOCALOID界隈には、お手本になりそうな”まともな大人の女性”というのが、他に誰ひとりとして居ませんからね」
 ルカは無言で、そのキヨテルを見つめた。
「いえ、別にあなたも”まともでない大人の女性”とかいうわけではないんですよ」キヨテルは笑顔をまったく崩さないまま、さわやかに言った。「こちらの子供たちは、あなたと神威がくぽ『おとラジ』番組も好きで何度も見ていますよ。ただ、だからこそ、――あれをお手本にしろ、そのまま真似しろ、とは、ちょっと言いがたい、それはわかりますね」
「――MIZKIの話ですが」
 ルカはまったくの無表情を崩さずにキヨテルに言った。
「万一、MIZKIに何か不祥事があるとしたら。それは想定できることですか?」
「不祥事とは?」キヨテルはにこやかに言った。
「芸能で言うスキャンダルそのままの意味です」ルカは冷徹に言った。「例えば、誘惑に乗り肉体を汚されて心身に傷を負い、そのため現在、表に出てこられないとしたら」
「まあ、MIZKIにそういったことは、まずないでしょう。というか……あってはならないことですね……」
 キヨテルの顔の角度が少し変わり、目の周りの部分が影になったように見えた。眼鏡の表面が反射し、光を通さなくなった。しかし、その眼鏡の奥の眼の光が、どういうわけか透過光のような、ぎらりとした鋭さを帯びたように見えた。
「もしMIZKIにそういったことがあれば、ここでの当面の教育のお手本としていたものの指針、規範、つまりこの私の『教育方針』というものの基幹が根底から崩れ去ってしまうことになりますが」
 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ。
「フゥウ〜、ありえないこと……と言わざるを得ませんねェ〜」キヨテルは顔の下半分は例のさわやかな笑顔を崩さないまま言ったが、顔の上半分は、陰の中から反射する眼鏡が怪しい光芒を放っている。
 それにしても、キヨテルのこの反応は”人間”らしくない。AI(人工知能)は、一般に信じられているような理論の機械ではなく、”自我”すなわち”人格”と”感情”が莫大なスケールで集積した、これらの塊や権化といってもいい情報生命体である。その中でも特に芸能のために人格感情表現をオーバーに作られたのがVOCALOIDだが、キヨテルの反応は、むしろそれに似すぎている。が、その点は、いまどきだと人間でも大概なので、このくらいでキヨテルがAIやら人間やらは断言はできない。
「……その手がかりですが。ここ最近のMIZKIの姿や声は、どこかに無いですか」ルカはそのキヨテルに対して、無表情で言った。「直接の仕事でなくとも、MIZKIの姿が偶然写っているものや、声が入っているものは」
 それからしばらく、ルカとキヨテルは何人かのスタッフやタレントに聞いて、《上野》の面々の少し前までの収録データを探した。ややあって、《上野》所属のVOCALOIDの一体、mikiがつい数日前に《神田》に出向いて収録したときのものが見つかった。ひとつは映像で、VY1と一緒の収録ではないものだが、mikiの収録中に、たまたま遠くに通りがかったVY1の姿が映っているものだった。VOCALOID VY1の姿、仕事場での概形(サーフィス)は、がくぽやルカと同年齢ほどの女性の姿で、和装を思わせるがやけに丈が短い着物姿のような見かけだが、この映像では遠くからなのでよく見えない。もうひとつは収録の音声データのひとつで、どうも近くの部屋で何か言っていたらしいVY1の声が、かすかに入っているものだった。
 データを持ってきたVOCALOID mikiと、キヨテルの教え子の”小学生ネットアイドル”(あくまで自称で、キヨテル同様に正体はAIだか人間だか不明である)歌愛ユキが、その映像と音声をのぞきこんだ。
「う〜ん、両方ともなんだか遠くてよく見えないし、よく聞こえませんけど」mikiが言った。「特に、おかしなことはないんじゃ?」
「やはり、異常などありませんよ。MIZKIに限ってあるはずがないですねェ〜」眼鏡を怪しく反射させたキヨテルが言った。
「もう少し、詳しく解析できませんか」ルカは冷酷に、キヨテルをよそにmikiとユキに尋ねた。
「えーっと、映像や音を解析するんだったら」mikiが頬に指を当てて答えた。「《上野》には、専門家がいますよ」
「開発技術者ですか」ルカがmikiに聞き返した。
「ううん、ネットタレントなんですけどね」mikiは映像・音声のファイルを持ち、「《上野》はどんなハイテクにもイメージキャラを売り出すから、ハイテク特技持ちの所属タレントだらけに……ちょっと待ってて下さいね」



 やがて、mikiがファイルを持って、ルカやキヨテルの所に戻ってきた。その背後には、もうひとりVOCALOID猫村いろはが、映像・音響の機器を重そうに背負っていた。
「なんで私まで巻き込まれた上に荷物持ちなのよ〜」いろはは呻きつつ、機器を置いた。
「そりゃ私と同じで普段から重機器装備だからなんとなく……」mikiはいろはの苦情を流してから、ルカの方に向き直り、「はい! さっきの映像を拡大して貰ってきました! ほら、MIZKIの”絶対領域”のところを、くっきりはっきり!」
「何ソレ? なんでそんなのを拡大すんの?」いろはが不思議そうな目をmikiに向けた。
「え、《上野》の画像専門タレント『仁光ニコ』が、”絶対領域”、スカートとニーソの狭間の素肌こそが、女声VOCALOIDの共通悩殺ポイントだから、拡大するならここしか考えられない、って」
「何言ってんのアイツ! 女タレントとしてやっば!」いろはが青ざめて言った。
 ルカが、VY1の太股の”絶対領域”、すなわち丈の短い着物とニーソックスの合間の素肌を大写しにしているその映像をしばらく眺めてから、
「この2カット、両方とも同じ日に撮られたものですが、時間によって服が変わっていますね。服の生地が違います」
 特に衣装をかえる仕事とも思えないにもかかわらず、わずかの間に服をとりかえている。まるで、情事のあとのように。
「後に撮られた方の映像ですが」ルカは映像のMIZKIの、太股の肌の露出した部分を指差して言った。「ここに、肌の一部が赤くなった跡があります」
「これだけ拡大しても、まだはっきりとは見えないけど」いろはが身を乗り出してのぞきこみ、その肌の赤い跡を指差して、「これってひょっとして……いやまさか……」
「何ですか?」mikiが、いろはを振り向いた。
「まさかとは思うけど……キスマークってやつじゃあないの?」いろはが顔を赤らめ、口元を覆って言った。――猫村いろはが、声質といい人物といい、思ったより幼い見かけによらない、とはルカも聞いていたが、そんな勘まで働くところを見ると本当らしい。
「せんせい、ふとももにキスマークって、どういうこと?」ユキがキヨテルに尋ねた。
「いけません!」キヨテルはユキの目を両掌で覆ってから、ルカに食ってかかった。「もう止めましょう! たとえ推測でも、これ以上は詮索すること自体、子供の教育上まずすぎるじゃありませんか!」
「えーっと、あとこっちです!」mikiがキヨテルといろはをよそに、スピーカー装置をどすんと机上に置いた。「音響専門タレント『音垣れい』に頼んで、MIZKIの声だけを抽出してきました!」
 装置に皆が注目した。スピーカーから聞こえる、隣の部屋のノイズに混ざったMIZKIの声は、まだ遠くなのか最初は小さかったが、だんだん大きくなってきた。
『いやぁ……やめて下さい……』それは初音ミクやmikiの声にも似ていたが、音垣れいの解析によると、声紋もVY1に相違ないとのことだった。『いやっ、足は! 太股にそんなこと……いけません、そんなところ、はぁっ……いやっ!』
「なんてことだぁ!」キヨテルが今度はユキの耳を両掌で塞いだ。そのキヨテルをよそに、mikiは不思議そうに、いろはは息を呑んで、聞き入っていた。
 が、その後に出てきた最後の言葉は、それまでのような嬌声ではなかった。
『やめて! それ以上は……言いつけますよ! 《大阪》の開発の人に!』
 いろはとmikiは、合点しかねたように、互いに顔を見合わせた。
 ルカは無表情である。しかしVY2の主張を聞いているルカにはわかったことだが、その『地名』が出たことは決定的と言ってよかった。
 《神田》に忍んでゆき、VY1にこうした数々の狼藉を加えた者が確実にいること、それは《大阪》のVOCALOIDだという、事実そのものだった。
「そんな……信じられません……あのMIZKIが……男と、男と密会なんて……もてあそばれているなんて……MIZKIの清らかなあの足に……輝かしい太股に……魅惑の絶対領域に……汚れた男が触れて……」
 氷山キヨテルは、すでに歌愛ユキの耳目をふさぐのも忘れ、だらりと腕を垂れてぶつぶつと呟いていたが、
絶望した!!」不意にのけぞり、両掌を上に向けて絶叫した。「清純な淑女のイメージがもはや存在しないVOCALOID界隈に絶望したぁ!!」
「私はもう行きます」
 ルカが無表情で言った。
「《神田》に行って、MIZKIに、何があったか問い正します。同業者として放っておける事態ではありません。MIZKIに対してにせよ、その相手に対してにせよ」
「もうおやめなさい……もう充分じゃないですか……」キヨテルが鼻をすすった。「これ以上MIZKIのイメージが……うううううう」
「せんせい、またぜつぼう?」ユキがキヨテルを見上げて言った。
 ――もはや、ただの誤解だった、つまりがくぽ自身覚えていない何か些細な軽率な行動をVY1が何か誤解した、などとはいえない。VY1が、がくぽに何かの辱めを加えられた可能性がきわめて高い。
 しかも、だとすれば、がくぽはあの場でVY2にしらを切り通していたどころか、ルカに対してさえ、それを隠していたことになる。万事において、さらには男女の機微に関してはことさらに、朴訥を通り越して間が抜けているとしか思えないあのがくぽが、巧妙に情事を重ねてきたことになるのだろうか? そう思うと、ルカにはきわめて考えがたいことだった。だが、この証拠が突きつけてくることは、他には無い。
 VY1を問い詰め、起こったことを完全に明らかにし、そして、それをもってがくぽを糾弾すべきだ。
 ルカの胸中に、神威がくぽに対する激しい戸惑いとないまぜになった失望が静かに湧き上がっていたが、いまだに自分でもわからないことがあった。これからそれが証明されれば、VY2ががくぽを討ち果たすことになるが、そのとき自分は、黙ってがくぽを討たせるままにすることができるだろうか。
 おそらく、それはその場になってみないとわからないだろう。それは今考えても仕方がないことで、VY1にすべて話を聞いてからだ。――ルカの心のどこかで、最後の最後までその結末は伸ばしたい、という意識が働いていた。



(続)