足運びとその距離

 それはKAITO初音ミクが、動画収録のためのロケに向かう途中のことだった。その札幌市の郊外の自然林に近い一帯は、雨が上がってもう何日か経っていたのだが、草地が途切れたその周辺は、かなりの面積がまだぬかるみになっており、かれらの行く手を阻んでいた。
 ミクは思わず足をとめて、そのぬかるみに靴を踏み入れることをしばらく躊躇した。そうしていた時間は――自分では、それほど長くなかったように思える。しかし、結局のところ、自分自身ではわからない。数秒だったような気もするし、もしかすると、十何分もの間、そうやってためらっていたのかもしれない。
 ともかくも、そんなミクを黙って横から眺めていたKAITOは、一声をかけた。
「いいかい……」
 何がいいのかミクがわからないうちに、KAITOはそのミクを抱き上げた。そして、そのままぬかるみを歩いて渡り始めた。
 ミクはしばらくの間、動転して何が起こっているのかわからなかった。横抱き、いわゆるお姫様抱っこというやつで、小柄で軽いミクをそうするのはKAITOにとって、わけのないことだった。
 たとえば兄妹なら、場合にもよるだろうが、こんなことをされていても、少なくとも誰かから咎められるようなことはないだろう。兄妹でなくとも――例えば恋人や、もっと深い関係なら、気兼ねするようなことでもないはずだ。ミクが動転したのは、ミクとKAITOとの関係は、おそらくそのどちらとも断言できないからだった。もっと正確には、ミクは、そのどちらについても、自分からそう言い切る、思い切るのを、いまだにためらっているからだった。――こんな姿を、誰かに見られたら一体どうしよう。ファンやスタッフはもちろんのこと、VOCALOIDの姉妹らにも。
 ……KAITOが歩きながら、わずかにミクの腕を見た。それは、抱えて歩くときの、支えられるミクの不安定さが気になったのだとわかった。KAITOはミクを軽々と運んでいくが、その強すぎない抱え方の優しさと、ミクの体がひどくこわばっているせいで、やや危なっかしく、歩きにくそうにも見える。ミクの側がKAITOにつかまれば――体に腕を回すなどすれば、安定する。例えば、首に腕を回すとか。
 それを想像したとき、ミクは頬がかっと熱くなったのを感じた。ミクが、自分からKAITOにそんなことができるわけがない。
 と、突然のことだった。KAITOが、ミクを抱き支えるその腕に、ぐいと力をこめた。
「あ……」
 ミクは思わず声を出してしまったが、KAITOは気づいてもいないように歩き続けた。
 さっきまで不安定に支えられていたミクの体はKAITOにしっかりと抱きかかえられ、歩きやすくなったらしくKAITOの足取りも安定した。だが、こんなにも強く、一方的に抱きしめられ続けて――ぬかるみを渡るだけの目的ならば、もはや、兄妹でも恋人の姿としてさえ、この姿は普通とはいえない。KAITOは平然としているが、ミクには他にも気になることがある。こんなに密着していて、顔が、手足が熱くなっていることや、胸が高鳴っていることが、KAITOに気づかれたらどうしよう。
 いや、それよりも、一体、この状態を誰かに見られたらどうしよう。ロケで会う姉妹らにさえ、これを知られたら。それを思うと、気が気ではない。



 あまりにも動転していたミクは、それからしばらくして、足場のぬかるみが終わった時も、それにさえも気づかなかった。なので、KAITOにゆっくりと地面におろされたときも、まるで不意でもつかれたように、ただ呆然としていた。
 到着したロケ地にKAITOが先に進んでいった後も、ミクはひとり、その場に突っ立っていた。まだしばらく胸が高鳴っていた。……ややあって、目的地に着いたことにも、そして何よりも、さっきまでの姿を誰にも見られなかったことにも気づくと、深く息をついた。
 一気に安堵がおそってくると、やがて自然に、さっきあったことが思い出されてきた。しかし、さっきはあれほど落ち着かなかった、動転しか生まなかった出来事だったのに、もう誰にも決して知られる心配がない、良い思い出だけだと思うと、じわじわと心が温かくなるだけのことに思えてくる。ミクはしばらくその場で、安心しきって繰り返し思い出した。ミクは頬をほのかに赤くして、両袖を軽く頬に当てたまま、その場に立ってそうしていた。
 ……ロケ地にすでに着いていたMEIKOが、そのミクを見つけて歩み寄ってきた。
「ミク、収録だけど――」
 だが、MEIKOが何度声をかけても、ミクはかすかに赤くなってその場に突っ立っているだけで、まったく返事が無い。
 MEIKOは微動だにしないミクの姿を、上から下までまじまじと見た。
 そして、ミクの靴に眼をとめて、じっと見つめた。ロケ地の周りはくまなく泥沼なのに、ミクの足回りはまったく汚れていなかったからだった。それから首を回して、ロケのスタッフと話しているKAITOの足元、その靴が泥だらけになっているのを見た。
 ぼうっとしたまま突っ立ち、しばらくロケの使い物にならないミクを、MEIKOは呆れたようにまた眺めた。
「仕事になんないじゃないの。KAITOにはなんて言い聞かせとけば――」MEIKOはいまだに何も聞こえていないミクをよそに、つぶやいてから、「――まぁ、別にいいか。よくあることだし」