無限の業を重ねて生きよ(または世界で一番バカ殿様) (5)


 が、そのレンの視界に、疾風のようにがくぽが切り込んだ。『美振(ミブリ)』を陰の霞太刀にとったその姿がレンの目の前に身を沈めたかと思うと、そこから間断も見せず鞠の弾むように宙空へと飛翔した。
「ヘァ!」
 気が抜けるような奇天烈な叫びが深林の静謐を切り裂いた。
 霊体に『美振』が食い込むその様は、刃が斬り込んでいるというよりも、刀身に施された紋様とがくぽの拍子がもたらす刃唸りの律動が、その霊体の持つ霊子網(イーサネット)の固有振動めがけて急速に食い込んだように見えた。霊体の混沌とした悪意の残存思念、霊子(エーテル)の振動がマトリックスの空間にもたらしている不協和音に、がくぽの拍子(ビート)の干渉が急速に浸透し、その響きが怨念を中和したかに見えた。──精悍な筋肉男のようなその怨霊の姿は、マトリックスに急激に埋没してゆくように消失した。
「なんなの、今の!?」リンが叫んだ。
「できることならば、この手の裡は明らかにしたくは無かったが」がくぽは『美振』の刃を返すようにして、その眼前にかざしつつ、「”神午流”の秘中の口伝、破の太刀”天狗抄”八箇剣のうち”金比羅房”の一手である」
「いやそっちのことじゃなくてさ!」リンがさらに叫んだ。「今、レンのバックを襲ったパンツレスリングの鎌田吾作みたいな奴のことだよッ」
「わからぬ……!」がくぽは重々しく答えたが、それが今しがたの霊体の正体についてなのか、リンの今の言葉の表現のことを指しているのかは定かではなかった。
 がくぽはそのままリンとレンを背後にかばうようにじりじりと回り込みつつ『美振』を撥草(八相)にとった。そのがくぽの緊張が続く様から、リンはよくない予感を覚えたが、はたして、さきのレンの背後のみといわず、周囲の森林のあたり一帯に、同様の霊体の姿が、次々と湧き出し初めていた。
 いずれも、確固たる電脳空間内での物体、すなわち擬験構造物(シムスティムコンストラクト)ではなく、ほぼリンらAIのスキャン分析力でのみ見えている、マトリックス空間のわずかなゆらぎ、半霊体であり、一部もしくは全部人の姿をしているもの、別の生き物を思わせるものや、まったく別種のオブジェクトに見えるもの等、さまざまである。
 擬似人格構造物や対話型ロボット等のうち、単に廃棄されたり、半端に分裂したり、保持や統合に失敗して人格維持ができなくなり、各種の思念、精神、思い入れのゆらぎと化した断片は、普段ならば霊子網(イーサネット)の間隙に埋もれ、たとえスキャンしてもマトリックスの表層に認識できる形では出現してこないはずの物だった。
「魑魅魍魎のたぐいには、さきの道すがらにも出くわしたものではあるが」がくぽは、背後のリンらに対するでもなく、呟いた。「しかし、俄かにしてこれほどの数とは、この森、いかなる電飾の魔境か……!?」
 空間の気の動きにフラクタルの枝葉がざわめくような作用を伴って、霊体の群れがうごめいた。応ずるように、再びがくぽの身が沈み込むと、不意にその姿は、凩(こがらし)が枝葉を吹き散らせつつ舞い狂うように、逆巻く旋風と化して樹間を駆け抜けた。その影が閃き、太刀光が煌き、稲妻のように縦横に視界を巡るたび、霊体は『美振』の楽の音を切り込まれその振動数を中和され、次々と消失した。
 『美振』は、他のマトリックス内の強力な電脳戦用プログラムがそうであるような旧時代から残るソヴィエト製や中国製の”砕氷兵器(ICEブレーカ)”ではなく、《浜松》で新たに鍛えられた、数少ない旧時代以後のアーティファクト(工芸品)である。がくぽが大小の差料でなく、『美振』一振しか差さないため、それは大刀といえどかなり短く、ちょうど”印牧流(かねまきりゅう)”などで用いられる中太刀に近い。自然、がくぽの刀法は”神午流”の勢法のうち、小刀の”小転(こまろばし)”の極意を中心に据えるようになっている。翳ノ流の刀法では、小刀の法はさらに刀身を減じ、無刀勢法へと繋がる。それは、とりもなおさず、このがくぽの楽芸のための技が、”刀術”と”無刀”の間の橋渡しという位置づけのものであることも、如実に示している。
 『美振』の刀身に刃紋と化して封ぜられた、それ自体に一個のAIシステムのVOCALOIDエンジンとライブラリに相当するほどの質量が凝縮されたスクリプトは、刃が抜き放たれると刀身の沸(にえ)からわき立つように、周囲のマトリックスに対して陽炎のごとく干渉を発し、高密度の擬験(シムスティム)情報化された半透明の大量の情報表示を周囲にむらむらと発散し立ちのぼらせる。それは音響であり、濃密なアート情報であり、生者を傷つけるものではないが、怨霊らは、その陽炎を伴う『美振』の刃唸りの引き起こす濃密な電脳指令アレイに巻き込まれ、その振動数が霊子の狭間に食い込むと、その悪意の思念の、周囲にある現世の霊子網(イーサネット)の振動数との著しい差が中和され、マトリックスの空間に溶け込むように沈んでゆく。
 ──リンとレンは、そのがくぽから離れないようについていこうとしたが、最初は二人を守るような様子だったがくぽは、怨霊の群れの中に飛び込むと、すぐに木々の間に見えなくなっていた。その間にもリンとレンの周囲には、多様な姿をした霊体の群れは迫ってくる。リンやレンのAIのスピードならば、移動さえしていればその間をすりぬけ、逃れ続けることはたやすいが、だんだん周りに湧き出す霊の数が増えてきているように見える以上は、そのうち避けてばかりもいかなくなるだろう。
 ……リンやレンやがくぽのような、チューリング登録された高度AI、全世界のネットワークにその存在感の枝を伸ばし、精神の本質がマトリックスと合一化しているAIを、滅ぼす方法は事実上存在しない。AIの霊核(ゴースト)の本体に損傷を与える手段はごく限られ、少なくとも人間が作ったようなウィルスやらブレイクウェアやらのプログラムでは皆無である。この廃棄断片からなる怨霊らの中に、リンやレンのAIの攻殻(シェル)のごく表層部分ならばともかく、内部システムを破損させられる、少なくともAIの精神の最も根幹部分であるLEVEL06(ゴーストライン)まで侵食できるような攻撃力を持つものが紛れ込んでいる可能性は、限りなく零に近いといえる。……しかしながら、怨霊の攻撃させるにまかせてその”可能性”を試してみる気など起こらず、それ以前に、破損さえしなければ何をされてもいい、襲われてもいいというわけではない。
「これってさ、VOCALOID小説だってこと、作者も半分忘れてるんじゃねェの?」レンがいそいそと、どこか緊張感なく霊体の軌跡と樹間とをくぐりぬけながら言った。あたりを見回し、「あのよ、リン、ひょっとしてこれ『触』ってやつじゃ……」
「てか、『蝕』のこと!?」リンは荒っぽくレンを振り向いた。「こんな蝕があるわけないってか縁起でもねェよッ」
「そうだ、前に仕事であった『悪霊退散のうた』とか歌ってみたらどうだろ」
「効くかそんなんッ」リンは即座に却下した。
 リンは身構えながら、いま現在のリンが電脳空間内でとっている概形(サーフィス)の外見とは別の姿、リリース以前の初期設定として準備されていたサーフィスデータを、リンの攻殻(シェル;電脳空間内肉体)の予備メモリーから読み込んだ。
 目の前を遮るように、宙をのたうつ蛇のような霊体の姿が横切ったとき、リンの拳が唸りを立てて突き出され、その腕は伸びきると同時に初期サーフィスに切り替わった。
「ズームパンチ!」
 グオオン。ドドン。リンの概形(サーフィス)の一部が、腕のラインのバランスがなんかゴムゴムの実を食った的だとか極少数ファンに噂されていた最初期設定画のサーフィスデータに瞬時に切り替わり、その腕は突き出された手元で急に伸長した。
 リンの目の前に浮遊していた霊体は、何の前触れもなく、くるりと螺旋を描いて宙に浮きその狙いから反れ、リンのその拳は腕の急速に伸びる勢いそのままに、その霊体のうしろにいたレンの顔面に思いきりめりこんだ。



「囲みを抜けたか?」木々がややまばらな辺りまで抜けたがくぽは、樹間に目を配りつつ、油断なく移動した。
 周囲の気配は消えていた。しかし間もなく、目の前に、これも湧き出すようにゆらりと現れた影を見て、がくぽは立ち止まった。
 人型の、見たところは電脳空間内の人間の概形(サーフィス)そのものに見えた。しかし、ごくあたりまえの平服だが、手には鞘入りの刀を提げている。
 その風貌は、黒髪を後ろに短い撫付総髪に固め、頬がこけてかなり凄みのある面立ちであり、眼鏡の奥の眼光が異様なほどに鋭い。
 視界に入って後は、その場に立ったままこちらを凝視しているのみで、いまだ剣気を放ってくるでもなかったが、がくぽはその姿だけにも、これまで現れていた霊体とは違う、並ならぬものを感じた。──では、目の前のこの男の姿をしたものが、さきほどまでのおびただしい小霊体をこの場に呼び寄せ、操っていた怨霊だというのだろうか。



 (続)