無限の業を重ねて生きよ(または世界で一番バカ殿様) (6)

 がくぽは、その鞘の刀を提げ近づいてくる相手に対しつつ、ほぼ自然体から突立ったるままに右足を引き、剣尖を後ろに落とし『美振(ミブリ)』を車(脇構え)に取った。……そのがくぽの身の位にも、依然、相手は歩み寄ってくるが、その剣尖を向けないがくぽの姿が専守防衛の様でないことには、とうに気づいているということらしい。
 相手は無言で、しかし眼鏡の奥の眼光も鋭いまま、その手の刀を抜き放った。定寸と思われるが、その刃は抜き放たれた際にマトリックスに透明な波紋をわずかに投げかけ、太刀行きに従って周囲の光景のかすかな屈折、凝集した高密度のスクリプトの質量による空間の歪みを生じている。それがただの見かけ上のものや、形だけ武器の形状をなぞったそこらの並大抵のブレイクウェア(電脳防壁突破用プログラム)でないことはわかる。
 相手はするすると動きつつ、その上体は微動だにせず、その刀身の冷たさも水面のように静まり返っている。刀身はこれも宙を滑るように、正眼から下へと落ち、がくぽの側からは相手の刀身のすべてが、不意に切先の一点の後ろに隠れたように見えた。”逸刀流(いっとうりゅう)”の本覚(ほんがく)と呼ばれる構えである。それも、おそらくは逸刀流溝口派だが、明らかに並大抵の業前(わざまえ)ではない。がくぽの眼からは、その剣尖の一点に、刀身のみならず、相手の全身すべてが隠れたかのような錯覚を覚えさせるほどだった。
 がくぽのひそやかな車(脇構)の中には、その相手への意識からの静かな剣気が張り詰めてきた。……間合いが詰まるにつれて、がくぽの『美振』は間断なく流れるように、車から取り上げて雷刀(大上段)へと上がっていた。
 互いの踏み込みが、間境をこえた。
 瞬間、がくぽの雷刀が落ちかかった。同時に相手の本覚が摺り上がっていた。その切先は一直線に、しかし玄妙にも生き物のようにしなり上がってがくぽの顔面に迫った。いずれも太刀の起こりが見えないほど間断なかった。
 先に打つと見せつつ相手の摺り上げに打ち乗ったがくぽの剣が、合撃(がっしうち)に懸かったかと思えたが、両の刃は絡みつくように噛み合った。鎬が火花を散らし、刻まれた両の刃紋のスクリプトは互いの構造に猛烈に食い込みそれ以上の干渉の閃光を舞い散らせた。マトリックスの空間が引き裂け、半透明の表示が重層した光の屈折と、衝突(コンフリクト)警告表示の赤光が飛び散った。
 両者は瞬時にすべり離れ、足場を入れ替わりに、跳ね返るように向き直った。
 相手は、まったく何事もなかったかのように、もとの一点と化したような刃を真っ直ぐに向けている、”本覚”のままである。……一方、がくぽは間合いの離れた相手に向かって、留め突きつけるように青岸(正眼)、それも膝を深く踏み込んだ”燕飛”に変わっていた。しかも、がくぽは小手にわずかに刃をかすられ、概形(サーフィス)に断片化(フラグメンテーション)が生じていた。AIの持つリジェネレーション(再構成)が効いていない。相手の妖刀の切っ先は、チューリング登録AIであるはずのがくぽの攻殻(シェル)のセキュリティ防護をいとも簡単に貫通し、分解された状態の構成を強制的に保存したのだ。あの妖刀の氷破り(ICEブレーカ)プログラムの威力も、それを扱う電脳戦技術も、尋常の認識の範疇ではない。
 相手のその刃は、ぴたりと先と同じ”本覚”につけたままだが、次は間合いを詰めてくることもなく、刃も足運びも微動だにしない。がくぽも相手に刃を突きつけ遠ざけるような青岸にとったきり、間を詰めることもできなかった。
 相手の業前(わざまえ)に対して、攻め手が容易に見つからなかった。今度は相手側も間合いを詰めてこないことから、相手ががくぽに感じているのも近いのかもしれない。相中段での対峙が続き、それは、じわじわと心気を蝕み続けるにも関わらず、その空気の張り詰め方は、高まり極まる一方である。……それがいつとも知れぬほどまで続いたとき、永劫に続くかと思える対峙の間に、不意に、異変が起こった。
 正眼よりも下がっている相手の”本覚”の刀身が、糸にでもひかれているように、次第に浮き上がり始めた。その切っ先は、ゆっくりと上に向けて、円弧を描いて上がった。緩慢に廻る剣尖は、フラクタル樹の木漏れ日のマトリックス光を照り跳ねて、きらり、きらりと、煌きを返したことだった。
 剣がすべり上がるにつれ、相手のその左足が、あたかもがくぽの深い踏み込みに応ずるように、延べるように踏み込まれた。
 本覚から、霞中段の構えへと移ろうとしている。……がくぽの意識の片隅にやるせない不安がよぎった。今、構えを変化させるなどということができるのは、当然ながら、いまだ間合いが詰まりきっていないためである。一気に間合いを詰めて、相手の変化途中の構えに切り込めるのは、今をおいて他にない。がくぽは、そうしなくてはならない、むしろ理由もなく、変化を阻止しなくてはならないという衝動に、じわじわと駆り立てられていった。間合いが詰まるよりも前に、変化を終わらせてはならない、あの円月を最後まで描き終わらせてはいけない──
 がくぽの青岸の肘と踏み込んだ膝に、激しい緊張が漲った。



 と、草木をかきわけて、森の奥から駆け出すように、リンとレンの姿ががくぽの視界に現れた。リンとレンは、その対峙する二者の姿を認めて、揃って一度に立ち止まり、一度に驚愕の眼を見開いた。
 相手の、眼鏡の奥の目付けが、わずかにリンとレンの現れた方に動き、がくぽから外れたように見えた。──その刹那、猛烈な気合を乗せてがくぽは切り込んでいた。
 相手は弾かれたように後退したかに見えたが、それは延べていた左足を引いただけであり、がくぽの刃を外すと共に、その霞中段の刀はほぼ同時に上段へと跳ね上がっていた。
「む……」リンがようやく口を開くと、叫んだ。「村田隊長!?」
 リンの声に、その相手の刀は上段のまま止まった。同時にもう片方の足も引き、滑るように後退して間をとった。
「がくぽ、ちょ……ちょっと待って!」リンはその相手の傍らへと飛び出し、両者の間を遮るように、がくぽに向けて叫んだ。
「リン! そやつから離れろ!」がくぽは大気を割るように響く音声で叫んだ。リンの声はほとんど耳に入っておらず、その相手の剣技のあまりの凄絶さに対し、リンの身の危険が、がくぽの意識を捉えていた。下段に転じている『美振』に剣気が漲った。
 相手は上段の剣をわずかに下ろしただけで、そのがくぽに対し、眼鏡の奥の鋭い眼光を外そうとしない。がくぽはじりじりと間合いを詰め、リンの存在すら再び意識の傍らに退け、その相手を斬るための機のみをひたすらに求め業念の殺気を迸らせた。
「あ!」
 と、レンが、がくぽの背後を指差して叫んだ。
 無論がくぽは振り向きもしなかった。目の前の、刀を抜いた相手に隙を見せる訳にはゆかず、それ以前に、背後には振り向く必要を認めるような気配は何も感じていなかったからである。……しかし、リンには、レンの指差した先、がくぽのすぐ背後に、唐突に、白と紫の服の少女が出現していたのが見えていた。
 がくぽのすぐ背後に、気配もなく『森之宮先生』が立っていた。森之宮先生は、刀を下段に深く膝を踏み込んでいるがくぽに対し、真後ろからゆるやかな仕草で、象牙を削ったかのような繊細で滑らかな指を伸ばし、そのがくぽの頭の上に、そっと手を置いた。
 がくぽ本人やリンやその他の誰かが反応するよりも速く、森之宮先生はその置いたままの手首を、突如、一気に(がくぽの首ごと)思い切りねじった。
 ゴキャッ。恐ろしく硬質の音が響き渡った。がくぽの首が270°ほど回転した。
 全身の骨がすっかり抜けたかのように、がくぽの体は急にその場にへたり落ち、コンニャクのように地べたに伸び広がった。



 (続)