KAITOのタイニーゼビウス(3)


 KAITOはその日以来、それきり、そのベンチのある電脳区画に立ち寄ることもなく、老人のことを話そうともしなかった。
 しかし初音ミクは、あの武田老人自身の身元や過去について、馴れない情報収集のぎこちなさで、何らかの他の手がかりを探そうとした。あのミクの目の前で消えていった掌を、なんとか手繰り寄せるように、──あの断片的な思い出と、今のこの世を、何か繋げるものがないのかと──
 しかし結局、老人の身元も過去も、あのとき収容されていた病院さえも、情報を辿ることはできなかった。わかったのは、今の時代、そうした身元不明で引き取り手のない老人が延命のすえに槽(ヴァット)などで最期を迎えた場合、埋葬と称して小さな収容スペースに誰の区別もつかない状態でまとめて入れられる、そんな扱いですら、受けられればまだましなほうという。大半は、そんな老人が存在した痕跡さえ、跡形もなくこの世から消失してしまうとのことだった。……ミクのかねてから知る北海道警の雇われの捜査員の男が、ディスプレイごしに(このときはミクは電脳空間からアクセスし、男だけが物理空間の、北海道庁近くの道警本部にいる)それらを一応は一通り教えてくれた。
「なんでこんなことに時間をかけてんだ、CV01」男はうんざりして言った。「あんたらAIの時間は無限かもしれんが、あんたにつきあってる人間はそうじゃないんだ」
「……ごめんなさい、針村さん」
「おれのことじゃない」男はいらいらと言った。「周りの皆、音楽の仕事をしてもらいたいだの何だの、あんたに先にやってもらいたがってることがあるだろ」
 その通りにも関わらず、なぜ自分が固執しているかの理由は、ミク自身よくわからなかった。いまさら何かの手がかりを見つけたところで、何の役に立つわけもない。ただ、強いて言えば、あの老人の思い出を受け取った”KAITOの優しさ”に、何かの意味があったのだと、その根拠を何か別の所に見つけたかったのかもしれない。
「そのおじいさん、KAITO兄さんと親しかった人で……だから、わたしも何か手がかりを探そうかと思って……」
「またCRV2(KAITO)のことなのか。ったく、この01は、AIでもオンナだって言うのかよ」捜査員は呆れたように言ったが、その言い方の意味は、ミクにはこの当時はまだわからなかった。
「そんな、電脳空間でたまたま死ぬのを見かけた爺さんの切れ切れの昔話なんかに、つながりや身元を見出すだの……だいたい、それ以前に、人間はそんな大昔の機械の話なんざ、何も応用できない情報を聞きこむのに時間を費やしたりなんて、無意味なことは最初からしない」
「無意味なことなんかじゃありません」ミクは自分の今行っていることよりも、KAITOの行ったことが否定されたのが我慢ならなかった。「あのおじいさんの思い出は、価値のないものなんかじゃ……」
「──人間にはな、もとから価値のない思い出なんてひとつもないんだよ」しかし、捜査員は突如、声を荒げた。「なにもかも価値がある。これまでに人間の考えたなにもかもが、価値があるんだ。どこかの誰かにとっては、必ず、とても大事なものなんだよ。……だが、切れ端なんか他人には伝わらないし、切れ端だけ伝わっても値打ちがわかる他人なんてほとんど見つからない。だから、自分の思い出だろうが、他人の思い出だろうが、ほとんどは、それ以上どうしようもない。消えていくしかない。……あんたらに看取られもせずに、消えていったほかの爺さんや、その記憶が、今までどれだけあるんだ」
 男は言ってから、何かAIなど相手にそんなことを言った自分にさらにいらついたか、叶和圓(イェヘユアン)の煙草の、明らかにすでに空になっている箱を指でさぐりつつ、
「あんたらAIは、忘れないかもしれない。だがな、人間は日々そういうものを、忘れたり、押し流したり、そうやって生きてる。”おまえを絶対忘れはしない”と心底信じていても、いつか忘れるしかないかもしれない。そうやって生きていくしかないんだよ。……まして、今は電脳空間(サイバースペース)に情報があふれかえって、なにもかも、あっという間にネットに溶け込んだり、埋もれたり、押し流される時代だ……」
 ……結局、とうの昔に時代に押し流されて消えてしまった、その小さな箱のあとを追うようにして、箱になってしまった老人も、すべての痕跡とともに押し流されてしまった。そして、老人自身がただひとつ残したその思い出も。KAITOと、わずかにミクのメモリーに残ってはいるが、無価値な断片としてもう誰も省みることはなく、決して誰に伝わることもないのだ。



「ミク、なんだか最近、泣いてばかりじゃないの」MEIKOが冗談めかして言いながら、ミクの自室の机の端によりかかった。
「姉さん……」机に突っ伏していたミクは顔だけ少し上げ、それからも、しばらく茫然としていたが、「……思い出が、見捨てられていくのは、当たり前のことなんだって……人間にとって」
「──いつも起こってること。なんでもないこと。それで、誰かが損をするわけでもない」MEIKOは憂うような目を宙に移しながら、低く言った。
「でも、当たり前のことだったら、……どうしてこんなに悲しいの……?」ミクは涙声で言った。「兄さんが……おじいさんに優しくしてあげてた兄さんが、かわいそうだから……? でもきっと、それだけじゃない」
 MEIKOは腕を組んで、そんなミクを傍らで黙って見下ろしていたが、やがて口を開いた。
「……当たり前のことでも、人間は、ただ捨てるばかりにしてきたわけじゃないわ。……人間は昔から、そういう理由のわからない、やるせない悲しささえ、ただそれきり投げ捨てておこうとはしなかったのよ」
 ミクは顔を傾けて、MEIKOを見た。



(続)