KAITOのタイニーゼビウス(2)


 その後も、来る日も来る日も、KAITOは公園のエリアのベンチの老人のもとを訪れ、その昔話を聞き続けた。話はさらにどんどん断片的になり、繰り返しが多く、あまりにも混乱し、雑然としていった。老人はまるで時間感覚すら失ったように、KAITO自身のことを、手元にあったPC-6601であるかのように語りかけることもあった。初音ミクには話の中身はさらにわからず、おそらくそれはKAITOであっても同じだろう。
 しかし、ミクが見るに、KAITOはそうすることに疑念さえ抱かずに、老人のために通い、話を聞き続けているように見えた。ミクにしても、そんな状態の老人のあまりの哀れさと、その老人が話相手に選んだのがKAITOや自分なのだと考えると、拒否する口実がどうしても考えつかず、KAITOについて公園を訪れた。
「『オリオン』だ、『オリオン』の色がな……」
 当時のPC-6000シリーズの、あまりにも画像性能が低かったので、スペックの示すモノクロや4色さえ正確には表示されず、ブラウン管に色のにじみが出ていたこと。ところが、その色のにじみを逆に利用して、スペック以上の多彩な着色が実現できたこと。それは、さらに古いAppleIIという機械で培われた工夫であったこと。まさに、当時のかれらは、なけなしの性能から無限の可能性を引き出すことができたのだ。
「わしの持っていたあの箱は、もちろん、ずっと昔になくなってしまった。時代に押し流されてな」老人は見えないキーボードの縁をなぞるように、手をのばした。「かわりにコンピュータの世界が、ネットワークとか電脳空間(サイバースペース)とかいう、こんな大きな宇宙になってしまい、そして、わしが逆に、ちっぽけな箱になってしまった」
 老人は、電脳空間の格子(グリッド)の無空間(ノンスペース)の空を見上げ、
「……だがな、実は、昔からこの世界はずっと同じだったんだ。あの頃にはもう、今あるもののすべては、何かしらの形であった。わしの手にあったマイコンは、喋ったり歌ったりできたし、あの箱の中には、確かに今と同じくらいの、宇宙が広がっていたんだ」



 そして、幕切れも雑然と、断片的に訪れた。老人の語りが、今までもときどき起こっていたように長い間途切れたとき、KAITO氷菓子を買いにゆき、ミクはただベンチの傍らに立って、老人を見守っていた。
 やがて、老人はゆっくりと目をあけて、ミクを見上げた。
「しゃべるマイコンのお姫さんや」老人は今までの昔話とまるで同じような調子で、ミクに言った。「お兄さんに伝えてくれ。あんたたちふたりに出会えたおかげで……わしの年月の中で、ひとつだけ楽しかったことを思い出した」
 その老人の人生の中で、楽しかったこととして思い出せるのは、本当に、そのちっぽけな古い箱と一緒だった、その他愛のない時間の記憶以外に何もなかったのだ。他のすべては、長年老人を鞭打ち、肉体も精神もこのように朽ち果てさせてしまった、時間の灰色の風雨が消し流していた。かろうじて残っていた、この断片を除いて。それも、このテクノロジーの進み続ける時代に、およそ考えられる限り最も何の役にも立たない断片を。
 その唯一の思い出を話すことのできる相手を見つけ、すべてを語り終えた今、もはや老人自身をひきとめるものは、何もなかったのかもしれない。
「輝いてたあの時代──いつも、一緒だった、──」
 呟きが消え入ると思うと、不意に、老人の電脳空間内イメージが、かき消すように跡形もなく失せた。脳波が途切れ、入力信号を検出できなくなったので、電脳空間への投影が自動的に停止したのだ。千葉(チバ)かどこかの槽(ヴァット)の中で、かろうじて生命だったかもしれないものが、生命でさえなくなった。
「おじいさん」ミクはそれでも、老人の手の映像があったあたりを、取り戻そうとするように探り続けていた。「おじいさん……!」
 ──氷菓子の袋を抱えて歩いて戻ってきたKAITOは、老人の一番最後の呟きだけと、そして、からっぽのベンチと、ベンチの前に膝をつき両掌で顔を覆ったミクの背中だけを認めた。KAITOはそれきり、ただその場に立ち止まり、袋を抱えたきり、ただ悲しげに、いつまでもそこに立ち尽くしていた。



(続)