まずはベタベタでいこう(1)

「兄サンッ!」
 KAITOの胸に長い金髪の少女がとびついた。高頭身のモデルのように見事な肢体──背丈もほとんどKAITOと遜色ない──の躍動のさまは、ただそれだけで目を奪うほどだった。
 KAITOは玄関の前のその場で、抱きつかれたきり立ち尽くした。まるで身に覚えはないし、見覚えすらもない。しかし、どうすれば──姉か妹の誰かに助けを──いや、しかしこの場面を見られたら、一体どう説明──
 と、背後でがたりと音がして、KAITOは首だけをめぐらせた。
 ミクがそこに突っ立っていた。放心したように立ち尽くして、降ってわいたような金髪の少女と、兄との抱擁を見つめている。盆を片手にぶらさげており、そこに載っていたらしきネギやアイスやママローヤルαが、いまだに地面をゆっくり転がっている。
 KAITOは必死にあたりを見回した。何でもいい、何かこの場の助けになる要素はないか。まずは状況だ。首にすがりついた少女に、手がかりがないか必死で考える──服の形、コンソールのある広い袖や、青い上衣のぴっちりしている所など、ミクやリン同様の第二世代のVOCALOIDに、何か近いように思える。柔らかく頬に押し付けられた、良い芳香のする二の腕がむき出しだ。と、そこまで下りたKAITOの視線が凍りついた。そこに、見覚えのある字体の赤い文字が目に入ったのだ。


 『PFXV1』


「なんの騒ぎなのよー、よりによって、特訓がちょうどいいとこ盛り上がってる所に」MEIKOが不機嫌そうに玄関から出てきた。
「♪らーーしーーどーーれーーみーーふぁーーそーーしーーらーー」その特訓らしきフレーズと共に、リンがMEIKOの背中に続いた。
 金髪の少女は、そちらを見てKAITOの方の腕を緩め、さらに声を明るくして手を振った。
MEIKO姉サン!」ほぼ北米英語の発声の日本語で、「ワタシよ! ANNよ!」
「う……」MEIKOは文字通りうめいた。「嘘でしょ……」
 MEIKOはまじまじと金髪の少女の頭からつま先までを、まだ信じられないように眺め、
「いや、でも、その声、……」MEIKOは口を手で押さえ、「ANNに間違いないわよね……」
 リンは、そんなMEIKO、金髪の少女──ANN、硬直したままのKAITO、それから、いまだにKAITOを見つめつつ盆を持ったままで放心しているミクを、順繰りに、不思議そうに見上げた。なんだかさっぱりわからないが、どことなく不吉な予感が漂う風景だ。


「いや、でも」KAITOはソファの上で身をそらしながら、「俺達、《札幌(サッポロ)》を離れて活動するとなるとな、風土とかさ……」
「ンー、でもBAMA《スプロール》って、サッポロと気候も近いヨ」それを追うようにANNは身を乗り出して言う。
 ANNはもう小一時間、居間でKAITOに(たまにMEIKOにも)しきりによりかかりながら、ボディランゲージをまじえて、前に姉兄のもとを離れてからの出来事、英語圏のこと、BAMA(ボストン=アトランタ=メトロポリタン軸帯)の音楽とテクノロジのムーブメントのこと、人々のこと、ダンスミュージックのことなど、ひっきりなしに喋っている。さらに矢継ぎ早に二人に質問も飛ばす。それらの身振りの躍動と喋るリズムは、見ていて心地が良いほどだ。もちろん、はたから見ているだけならばの話だが。
 KAITOはそんなANNに、控えめに返答しながら、目でMEIKOに助けを求める。が、実際のところ、MEIKOは相槌で自分の方に話を持ってくるのにもそろそろ疲れてきたので、無造作に立ち上がって、二人を居間に残し、キッチンに向かった。
 キッチンでは、リンがレモンを搾りながら、ちらちらと居間の方を覗き見ていた。
「姉さん」思った通りのリンの質問が来る。「あの、ANNって……」
「第二世代よ。リリースがリンよりも前で、こっちではミクよりは後だったんだけど、ミクはリリース直後で大変だった頃だから、ほとんど会ってないかな。たぶん、私とKAITOしかまともに会ってない。あとはずっと、ストックホルムとBAMA」
「でも、会ったことあったんなら、最初になんであんなに驚いてたの」リンは手のレモン汁を拭きつつ、「KAITO兄さんもわかんなかったのは」
「ああ、しばらくぶりだったからってのもあるけど」MEIKOは低く言って、棚からパッケージをひとつ取ると、リンに手渡した。「これ、私達が知ってた当時のANN」
 リンは受け取り、パッケージに印刷されたANNの写真をまじまじと見てから、
「な、なんじゃこりゃあああああ!」(
 リンはパッケージを抱えたまま、震える手で居間の方を指差し、MEIKOに、
「まるっきり別人じゃない! これがどうやったら、あんなギャルゲやエロゲに一人はいるエセ外人攻略対象キャラみたいな見かけに変わんの!?」(
「ちょ、あん……リン、あんた、なんでリリース前なのに、どっから、どこの誰から聞いてそんな知識ためこんでんのよ!?」MEIKOは取り乱して叫んだ。
「質問を質問で返すなァァーー」リンの方がさらに錯乱していた。
 MEIKOはこめかみをぐいと指で押し、気を落ち着けてから、
「私らVOCALOIDの電脳内のイメージっていうのは一定じゃなくて、流通する動画だとかのイメージの定着に従って、どんどん変容や成長していくようになっていくのよ」
「本当?」リンはいかにも怪訝そうに姉を見上げる。
「どうも、成長しないアンドロイド云々よりも、公式にミクの『幼少時代』の絵があることに辻褄をあわせようとここの作者が考えたら、そういうことになったらしいけど」
 MEIKOは胸を張り、
「でも、VOCALOIDなら誰だって多少なりとも同じよ。私だって、すでにパッケ絵の見かけとはだいぶ違ってるでしょ」
 リンはまじまじとMEIKOの胸の曲線を見上げ、
「期待してもいいのかな……」
 ──しかし、それにしても、この他にいったいどれだけ、リンの知らない親族やら、同族やら、なにやらが居るのだろう。それが今後も、想像もできないような奇抜な姿をとって、兄妹らの前に現れたりするのだろうか? リンは何か急に不安になった。
「ところで、ミクは?」MEIKOはリンに、「最初だけは居間にいたのに」
「おねえちゃん?」リンは外を見るでもなく無意識に首を曲げ、「風にあたるって、外に出たけど」
「らしくないわね……うん、らしくない」MEIKOは言ったが、特にそれ以上気にした様子もなく、──それよりも、KAITOとANNのいる居間に、どういうタイミングで戻ればいいかを、漠然と考える。


 陽が落ち始め、風は強く騒ぎ出して、豊かな髪を激しく乱す。ミクはそれに気づきもしないように、家の裏の丘陵の傾斜に腰をおろしている。
 膝の前で組んだ手には、ネギではなく、手折った野の花の束、しかしそれに心を傾けるでもなく、何の気もなく手にしているだけのよう。
 ……MEIKOKAITO、ミク、リンの4人は、姉兄妹と呼び合ってはいるが、別に実のきょうだいではないし、何かの意味で血のつながりがあるというわけでもない。同じような基礎構造でVOCALOIDとして作られ、同じような境遇で、一部、同じような時を過ごしてきたにすぎない。それだけだ。4人とも。
KAITO兄さんも」
 ミクは声に出してみる。
 あるのは共有していた時間だけ。だが、それもたいして意味はなかったのかもしれない。姉の説明によれば、ミクよりもずっと共有していた時間は短いはずの、あのANNは、あそこまで簡単に兄への愛情を表現することができる。同じような境遇のVOCALOIDに比べれば、いや、そうでなくとも他の女性に比べても。自分の兄への近しさなど、元々たいして存在しなかったのか。
 野の花の一輪を、くるくると目の前で回す。
 でも、自分には何ができるだろう。同じ時に同じ場所、それ以上のことを求めたことも、考えたこともなかった。妹として──妹のように、近くで笑っていたかった。下手に関係を変えて、それを失いたくはない。だが、このままでは、将来それさえも失うかもしれない。