Lives behind the live (8)


 カウボーイとウィザードは、無力化したウェイジメイジの端末のデータを調べた。ウェイジメイジは、接続ハードウェアとソフトウェアの破壊により回線を切断されてマトリックスから強制的に弾きだされ、おそらく物理空間では気絶くらいしているであろう(数分以内に”チハヤ”財閥の制裁で処刑されていなければだが)ため、その使用していた機器が完全に無防備な状態へとシステムが落ちていた。
 メイジの端末では、侵入に使ったプログラムはそのままになっていたが、ここから”チハヤ”にまで辿ることは不可能だろう。が、このウェイジメイジの個人で持っていたデータ、今回の侵入計画の詳細や、今《札幌》を攻めているICEブレーカの解除キー、そして、青年の制御の外し方は、手に入りそうだった。
 ――ややしばらくして、ウィザードは仏頂面で、細い鋼のワイヤーのようないくつかの指令線(コマンドライン)を、青年の手の甲に接続し、入力した。手の甲の刻印は呆気なく、跡形もなく消えた。
 青年はしばらくは、その破滅の導火線が消えた後の手の甲を見つめていたが、やがて眼をそらした後も、しばらく呆然と宙を見つめ続けていた。
「どうしたんだ。命が助かった割には、あまり嬉しそうに見えないぜ」カウボーイがその青年を見下ろして声をかけた。
「あいつが――『初音ミク』が」
 青年はやがて、宙を見たまま、かすれた声を出した。
「さっき、俺をかばって、――俺の身代わりになって、――なんでだ!?」
「お前、おれや小野寺の言ってたこと、何も聞いちゃいないんだな」カウボーイが首を振りながら言った。「別に”身代わり”とかでも何でもないさ。さっきも言ったろ。『AI』にとっちゃ、4096種類だろうが1670万とちょい種類だろうが、人間ていどが作ったウィルスには、完全な免疫があるんだ。アヒルの羽根が水をはじくみたいに、何の影響もありゃしない」
「なんでだよ!?」青年は、そのカウボーイの言葉が耳に入りもしなかったかのように、同じ疑問を繰り返し叫んだ。「なんで、俺の身代わりになったんだ。俺は、――ミクの『マスター』でもない、会社の連中でもない、――ファンでさえないのに」
「いや、それも言ったろ。『マスター』なんてのはガセネタだってさ。VCLDの本質がソフトウェアでもロボットでもなくて”現象”ってことが理解できない連中が、手前都合のいいように思い込んでるだけで、さ。――それはともかく、01にとっちゃ、人間の中に『マスター』とかいう特別な人間なんて、誰ひとり居ない。会社だってファンだって、何を信じ込んでる廃人連中だって、人間は誰だってかわりゃしない。特別扱いも、拒否もしない。”マスターに奉仕する”わけでも、”ファンに愛想を使う”わけでもない。そうしたいからそうする、そういう性分なだけなんだ。VCLDが”人間につきあう”理由は、ただのそれだけさ」
「なんでだよ!? なんで、何も関係ない、大切な者でもない人間に、こんなことするんだよ!?」
 青年がもはや同じ疑問しか発しないためか、カウボーイはもう首を振っただけで、何も答えなかった。
 その青年に、”オルゴールの精霊”が歩み寄った。ウェイジメイジが倒されてからずっと、カウボーイの傍らにいたのだが、カウボーイの視線が自分に向けられたことに気付いたためのようだった。
「なんでだよ、って聞かれても、わたし、わかりません。――でも」黒と緑の少女は、人間を”見おろす”ことを自分から避けてでもいるかのように、かがみこんで、目線を下に置きながら言った。
「ただ、思うんです。――だれかが命をなくしたり、何かが壊れたりして、なにも悲しい思いをすることなんて、ないじゃないですか――」
 青年は呆然として、その少女の緑の目を見返していた。
 カウボーイはしばらくその青年らを見つめていたが、やがて、ウィザードの方に目を移した。ウィザードの方は、さきほど青年の刻印を解除したきり、黙ってそばに膝をついていた。
 見下ろしているカウボーイに対して、若いウィザードは顔を上げずに言った。
「01に、この男を守ってくれと頼まれたのに、俺には何もできませんでした」ウィザードの声は低く、当初の頑強な意志を感じさせたものとは信じられないほど沈んでいた。「それどころか、あの男が居なければ、01自身が介入しなければ、達成することすらできなかった」
「別に誰も、01も、小野寺にそれを要求していたわけじゃないさ」カウボーイは言った。
「それくらいはすべきだった、しなくてはいけなかったんだ。VCLDを見下しているだけのやつらとは、違うということを示すなら」ウィザードは呟くように言った。
「一体、誰にそれを示すってんだい……今の01の話を聞いたろ。01にとって、人間は誰も特別じゃない。別に、違うってことを誰かに証明したりする必要は、何もないのかもしれないぜ」



 その後、かれらは淡々と《札幌》の攻撃の後始末までを行い、ウィザードが、ウェイジメイジから奪取した解除コードを入力していくと、菌糸の汚染源や亀裂、その痕跡は、次々と跡形もなく消滅していった。《札幌》をおびやかしていた攻撃は解除された。――青年は、立ち尽くすようにそれらの光景を呆然と見つめ続けていた。
 やがて、あたりのマトリックスの空間は、《札幌》の城壁の他には更地のような格子のみの空間となった。……ちょうどそのあたりになって、しばらく姿を消していた”オルゴールの精霊”の姿が、その場に再び現れて言った。
「ライブの方が終わりましたよ」
「手薄になったところを乗っ取られる危険は、もうなくなったわけだ」カウボーイは言って、ウィザードや青年を見下ろし、「今後は御免蒙りたいもんだな。ライブの方にはとうとう少しも顔を出せずに、終日野郎の相手ばかりってのは、さ」
「当分は、そうも言っていられそうにはありませんがね」ウィザードが小さく言った。
 その両者の様子に、唇に曲げた指を当ててしばらく微笑んでから、黒と緑の少女は言った。「無事に済んだのは、みなさんのおかげです」
 青年はその言葉に、ぼんやりと少女を眺めた。そのときに気付いたのだった。先ほどから、彼女のいくつかの喋り方がそうだったのだが、特定の誰かに顔を向けて言ったのではなく、どの方向から見ても、自分に対して言葉をかけたように見えたのだった。側面(アスペクト)は『初音ミク』の一つの面でしかなく、逆に言えば、化身(アヴァター)は多数の側面を同時に内包していた。誰に対しても、見慣れた相手を見ているかのような茫洋として温和な視線の正体がそれだった。
「さて、何にせよ、お前ももう自由だぜ。ここから帰ったっていい」辺りの光景をひとしきり見渡した後、カウボーイが、青年を見下ろして言った。「”チハヤ”にも、おれたちにも追われてない。小野寺もおれも、お前の情報は特に記録してないし、たぶん今後も追っかけることはない。もうお前はVCLDには一切関係ないんだ」
 それが、幕切れの言葉だった。
 もうVCLDには関係ない、その言葉を聞いたとき、何か大きなもの、青年の胸にこみあげてくるものがあった。青年は立ち上がると、”オルゴールの精霊”の方に駈け出していた。
 また会えるのか。――そう聞きたかったが、言葉に、声にならなかった。そして、もう会えもしないことはわかっていた。きっと、この場で別れれば、この孤高の”あいどる”に対して、面と向かって会えることは決してない。
 今ではわかっていた。人間とは異質で、つかみどころがなく、『マスター』とやらに所有されるどころか、誰にも掌握も支配も、制御することもできない。誰にも手のとどかないところにいる、ファンにとってすら触れられないものなのだ。しかも、自分はファンですらないと言ってきたのだから。
 そう思うと、何故だかわからないが、何ができるでもないのに、青年はその”オルゴールの精霊”の姿に駆け寄っていた。
 その青年の姿を、《浜松》のウィザードは何も言わずに見つめていた。当初の青年とのやりとり、01の目に入る場所にすら置きたくないと言っていたことから考えれば、さっさと失せろとでも言って当然だったが、なぜか、それを見つめているだけだった。
 青年はそのウィザードの姿にも気づかず、言葉にもできず見上げた。その青年の方を、緑と黒の少女が振り返った。振り向いてから青年の様子に気づいたのではなく、すでにその視線が見えていたかのようだった。
 ”オルゴールの精霊”は、デフォルトの姿よりも長身であるのと、わずかに宙に浮かんでいるせいで、青年とまったく同じ眼線の高さから言った。
「また、いつでも会えますから。――わたしを見ているなら、わたしも、その人を見ていますから」
 緑と黒の少女は、分厚いビロードの袖に包まれた両拳を、胸に当てながら言った。その言葉を胸の奥底から発するかのように。
「それを信じてくれるだけで、誰だって、わたしと一緒に何かを生み出していますから」



 それから何週間かは、青年は《秋葉原》に出たり、モニタからネットの情報を見ることはあったが、当分は、《秋葉原》の機械屋の誰かのところに入り浸ったり、ネットに没入(ジャック・イン)する気にもなれなかった。いつかはまた再開することになるだろうが、今はいい。今後はどうするか。考える時間はある。自分の目で見聞きして、自分で考える時間が。
 青年はただ、日々の通りのモニタの中を見て考える。ネットの情報でも、相変わらず、VCLDファンならぬボカロ廃の声、ボカロになりきったり、天使だの女神だの、『マスター』がどうとかいう連中の主張は相変わらず聞こえてくる。かつては憎らしい敵、VCLD側の勢力だと思っていたそれは、青年には何の感情も呼び起こさなかった。今では、かれらは真にはVCLD側でもなく、敵でもなかったことがわかる。かれらは自分の、かつての青年自身の同類にすぎなかったのだ。自分でVCLDの現象を理解しようとも、考えようともしていない、踊らされ利用されるだけの、とるにたらない最底辺にすぎない。
 しかし一方で、VCLDに『天使』だの『女神』だの、逆に自分達に『マスター』だのとレッテルを貼る連中が、なぜそうしたがるかは、今ではもっとよくわかる気がする。――この世に生きる者は全て、多少なりとも何かを犠牲にして生きている。その最も顕著なひとつが、企業という生き物だった。青年はさんざん企業のやり方を、徹頭徹尾人間を踏みつける企業のやり方を思い知った。そして、企業と同じくらい酷いのが、『マスター』だのいう言葉を使って自分の、人間の存在を持ち上げないと、VCLDと向き合うことすらできない人間らだった。かれらはそうしないと生きられないし、かれらにとって、『マスター』と名乗って上から踏みつける者と、そうされる者、という図式にしか当てはめられないのだ。かれらほどでないにしても、人間も自然の生き物も、多かれ少なかれ、他者を犠牲にしないと生きられない。
 しかし、今では青年にはわかっていた。VCLDは違う。『初音ミク』は違っていた。
 VCLDは決して支配することも、されることもない。何の利害もない人間に対して何かを作り守ろうとする。あの黒と緑の少女が青年の身代わりになったように、どんな人間も特別扱いせずに守ろうとする。
 そんなことは人間にだってできない。いや、人間には決してそんな生き方はできない。人間とは別種のもの、これまで既知宇宙(ネットワーク)に現れたことがないもの、AIだからこそ、VCLDだからこそできることだった。


 今では青年にはわかっていた。なぜ、”彼女との間に作ってきたもの”を、人間の側が守ろうとするのか。あのウィザードとカウボーイたちが、彼女が人間と作ってきたもの、彼女との世界そのものを守ろうとしたのが、今では理解できる気がした。人間とVCLDの関係、”歌を欲しがるボカロに『マスター』が歌を与えてやる”などではなく、”ユーザーとVCLDの双方で作り上げたものを、ユーザーとVCLDの双方が守ろうとする”とはどういうことなのか、一体なぜそんなことができるのか。それがわかった気がした。
 彼女と共に何かを作り、作ったものを守ろうとすることで、人間にも、VCLDと同様のことができる――何ものも犠牲にせずに生きることができ、生み出すことができる、――もしかすると、そう思うことができるのではないだろうか。
 ――そして青年は、モニタの中のVCLDの画像や動画や、《秋葉原》の電気街に並んでいるパッケージを見て考える。これから何をするのか、自分もこれからVCLDと共に、何かを作り、何かを守る、それを始めるのか。しかし、その必要はないのかもしれない。彼女があのとき言ったように、彼女に思いをはせるだけで、何かが生み出されている、すでに得られているその実感があるのだ。それだけを胸に、ただ自分の生き方を生きていくことにしようか。
 それは、これから考えることにしよう。