Lives behind the live (6)


「離れちゃいけないぜ」カウボーイは、対AIライフルを肩からおろしつつ、青年に言った。「といったって、お前にそう遠くまでいける移動手段はないだろうけどさ」
 青年は戸惑った。敵のいる場所まで一緒に来るとは覚悟してきたが、その後、その当の敵、”チハヤ”のウェイジメイジとやらと対決する際に、その正面にまで立つとは思っていなかった。離れているか、どこかに隠れてでもいればいいものと思っていた。青年は束の間、今この場から逃げ出したくなった。
「逃げるところなんてないぜ」その青年の心の動きなど手に取るようにわかるのだろう、カウボーイが言った。「どのみち、向こうが追っかけるような気になったら、お前、逃げたり隠れたりする技術なんてないだろ……おれたちの近く、セキュリティの及ぶ範囲にいるのが一番安全なのさ」
「敵の偽装を〈解呪(ディスペル)〉します」
 ウィザードが言って、操作卓(コンソール)の操作の反映、互いに向き合った両てのひらを開くように裏返す仕草をした。
 見渡す限り一帯のマトリックス空間に光子が駆け巡った後、周囲の格子(グリッド)の構成、空間が急速に歪み、既知宇宙(ネットワーク)を構成する霊子網(イーサネット)そのものが暴風にあおられたかのようにはためき揺らいだ。大質量の〈解呪〉用のブレイクウェイア(攻防プログラム)が、一帯の霊子網(イーサネット)を構成する結節(ノード)電子機器に大量に流し込まれた影響だった。
 ガラスのスクリーンが砕け散るように、周囲の光景そのものがはじけ飛んだ。ただの何もない格子の荒野の風景が剥がれ落ち、そして、”隠蔽用の映像に覆われていない”この周辺のマトリックス、《札幌》のデータベースの真の姿が現れた。そこに現出したものに、青年は思わずあとじさるように、身をすくませた。
 隠れていた防壁、《札幌》の社のデータベースを守るICEの防壁が、だだっ広い空間に覆いかぶさるように、はるか遠くまで続いている。さっき青年が捕えられた、《札幌》のAI・CRV2が作ったものとは見るからに異質で、それはまるで知識のない青年にも、あれほどは緻密でも高級でもないことはわかった。冷たさ、きめの細かさ、それらから感じられる緻密さがなく、まさしく、のっぺりした岩の城壁のような圧迫感を感じさせる。広大なエリア(侵入経路)をカバーするために、目的が違うのだろう。といっても、攻撃的なものには見えないが、常人や、並のカウボーイには近づけもしない防護であることはわかる。
 しかし、青年を驚かせたのは、その風景ではなく、その中にある、いかにも尋常とは言い難い状況を示しているのが素人目にも想像できるような禍々しい光景だった。
 今青年らがいるエリアの近くには、汚染源のような、周囲の格子(グリッド)の地面に対して『菌糸』のようなものを放出し、根を張りめぐらせているオブジェクトがある。一般に周囲のマトリックスに対して排除されずに浸食し寄生するのは容易ではなく、偽の情報を発して警告や自己修復をごまかす似非(グリッチ)システムを展開するか、周囲を解析・同調して一体化するかである。浸食する菌糸は、今も成長と変貌を続けつつ象牙状に色彩を変異させ続けており、周囲との一体化・親和化が今もなおめまぐるしく進行を続けていることが、プログラムのパラメータの推移が表面形状のパターン、色彩の変化やそのスピードに視覚化される象徴図像学(アイコニクス)によって一目でわかるようになっていた。
 今、この場から、視界を遮って高くにそびえ立っているICEの壁面まではまだかなりの距離があるのだが、菌糸が集中したマトリックスの地面には細かい枝を伴った亀裂が入り、その亀裂が城壁の方に一直線に伸びていた。亀裂と浸食の末端は、城壁の表面に達し、菌糸の浸食と細かい亀裂の影響が及んでいるのがここからでも見える。カウボーイがさっき言っていた、《札幌》を攻撃するために設置された仕掛け、さきほどまで見えなかった『掘削(ボーリング)施設』というのがこれらしい。
 どれほどの規模か。これを準備するのにどれだけの時間がかかったのか。自分や店員が囮としてやってきたことに比べ、『本命』の攻撃のスケールに青年はおののいた。
 そして、磁針のオブジェクトが指し示しているのは、その菌糸の固まった汚染源のすぐ傍らだった。ほぼまっすぐに突き立った針の先が示しているもの、その座標に居たのは、トーガをまとった、やせた男だった。
 それは一見すると企業の一員、いわゆる会社員とは思えない概形(サーフィス)に見えた。分厚い灰色の、よく見ると周囲のマトリックスにあわせて表面にたえずノイズがかかっているそのトーガは、『精霊神の外套(エルブンクローク)』である。周囲の象徴図像学(アイコニクス)にとけこむことで、それ自体が非常に検知しにくくなっており、ウィザードの術によって暴露されなければ、目視さえもできなくなっていた。
 トーガの姿の上半身の周囲には奇妙な輝きを発するものが幾つか、ゆっくりと回転しており、マトリックスのインジケータと警告が、その物体の有する質量の高さを赤みがかった文字で頻繁に表示している。『アイオーン石』、探知、防御等の高性能オブジェクトである。男の手には、槍とも杖ともつかない形状の鉄杖、先端に細長く鋭利な意匠のある収束具があり、そちらはアイオーン石よりもさらに危険な高性能が表示されていた。
 もっとも、肝心の男の電脳空間内の概形(サーフィス)、その首から上は、顔の上半分をまるごと覆うミラーグラスのゴーグルと、さらにその周辺のディスプレイオブジェクトで、ほとんど隠れており、その風貌はわからない。しかし、そのゴーグルをかけたその意匠そのものに、青年には物理空間での見覚えがあった。
「あいつは――」青年がかすれた声で言った。「スーパーハッカーだ」
「おい、その”スーパーハッカー”って言葉、あんまり連発しないでくれないかい……聞くたび、力が抜けるんだ」カウボーイがのんびりと言った。「なあ、今、わりと緊張した場面なんだぜ、わかってんのかい……」
「アキバの店員に、俺達にハッキングプログラムを流してくれた、アドレスを教えてくれたスーパーハッカーだ」青年はかまわず言った。「フリーって話、俺達アキバ民の味方って話だったのに――チハヤの社員だったのかよ――」
「そりゃ、そうだろうよ。その他に何があり得ると思ったんだ」カウボーイは肩をすくめ、「さっき言ったろ。財閥(ザイバツ)は社外の者は信用しない。《秋葉原》に情報をばらまいて、囮を操って、その隙に《札幌》を攻撃する。”チハヤ”がそんな重要な役をフリーの雇われハッカーになんか任せない。そいつの正体がウェイジメイジさ」
 そのゴーグルの姿は、ウィザードがさきほど〈解呪〉に用いた術の影響に気付いたのか、すでにこちらを振り向いていた。ウェイジメイジは青年にも気づいたようだったが、一瞥しただけで、手元の確認に戻った。動じていないのか、もともと青年のことなどは大して気にもかけていないのかわからない。たぶん後者である。囮のひとりなど元々、とるにたらない存在でしかない。
「《札幌》のスタッフですか?」メイジはゴーグルの奥から、カウボーイらの方に向かって言った。「今更来ても、もう手遅れですよ。もう何も手は打てません」
「そっちがそう思おうが勝手だけど、さ」カウボーイは対AIライフルを体の前に回し、「あいにく、こっちはやりたいようにやるさ」
「状況がわかっていないようですね」メイジは企業人の営業トークのような柔らかい声色で、諭すように言った。一般人への説明のような態度であるが、言葉そのものは慇懃無礼にしか聞こえない。
「こうなるまで進行しているということは、どういうことかわかるでしょう」ウェイジメイジはトーガに覆われた腕を、菌糸の汚染が《札幌》のICEの壁まで達している方向に広げてみせ、「あなたがたにはここに居ても、できることは何もありません。脱出したほうがよいと思いますよ。ここにいると、身の危険にまで及びます」
「おれたちにその危険とやらが及ぶことを、せいぜいあんたの『マスター("The" "M"aster;天主;唯一神)』にお祈りでもしときな、腕自慢(ホットドガー)」
 ”チハヤEN”のウェイジメイジは顔を上げた。カウボーイがそこまで不敵なのを聞いた時点で、相手の服装と、ウィザードのヘルメットの社標(ロゴ)に気付いたようだった。目の前にいるのが、《札幌》の音楽やアイドルの販売スタッフではないことを。
「――『ジャスティス・トループ』」
 ウェイジメイジが独り言のようにつぶやいた、それが辛うじて聞こえた。
 それに応えるように、さきほどから無言だったこちらのウィザードが、一歩進み出た。祭式、術式でも準備するかのように、宙を切るように両腕を広げ、伸ばした。
 それを合図にしたかのように、電脳戦(コアストライク)の死のカウントが動き出した。



 ウェイジメイジの物理空間の方の手が、魔術の印を切るように、手首から先がめまぐるしく動いた。やはり電脳空間(サイバースペース)デッキを操作しているのであろうが、敏捷で剛直なこちらのウィザードの拳よりも指先の動きが遥かに複雑であり、財閥(ザイバツ)の電脳戦機材の多彩さと豊富さを想像させる。
 そのメイジの周囲の格子(グリッド)上に、なだれこむように入力されたメイジからの命令のスクリプトが移りこみ、めまぐるしく変化しつつ回転する呪文の円に囲まれた領域、その魔法円の中に、圧縮されたアーカイブからデコードされてオブジェクトが展開した。オブジェクトはそれ自体は目に見えない悪魔(アンシーン・サーバント)のように、映像や概形(サーフィス)を持たないが、その領域、不可視の数々のオブジェクトに対して、マトリックス視覚上の警告がひときわ集中した。その致傷性を示す黄から赤色にかけての明滅するシグナルと警告音が次々と花開く様は、点火された火花が駆け巡り始めたようでいかにも危険であった。
「相手は”チハヤ”のウィルスのフルセットを展開しました」身構えたこちらのウィザードが、展開されたオブジェクトの内容について、警告の声を発した。
「どの類のだい」カウボーイが尋ねた。
「全種類です。個人セキュリティを破るためのウィルスセットがそれぞれ4096組ずつ。M1からN8までのデコイが全種512個ずつ」
「おい、なんだ、4000なんたらって……」青年が思わず口を挟んだ。
「4096だぜ。気の抜ける質問はさ、後にしてくれないかい……」
「どういう数なんだ、それは」青年は構わず問い詰めた。「なんでそんな物凄い数で、しかも半端な数なんだよ」
「お前、ハッカーじゃなかったのかよ」カウボーイが飄々と肩をすくめ、「2の12乗だよ。半端って、こりゃえらくきりのいい数だぜ――道教両儀四象八卦の大昔から変わりゃしない。12か所の特性についてそれぞれビット反転したバリエーション。それくらいの量のバリエーションはまとめて注入しないと、電脳戦の最中にマトリックスに自然に発生する”ゆらぎ”にさえ対応できない、攻撃にさえなりゃしないのさ」
 青年は恐々として、展開されてゆく膨大なウィルスセット、ウェイジメイジの周囲に次々と膨らんでいく警告のシグナルを見つめた。
「どれだけの種類を用意できるかってのは、処理能力だけの問題」カウボーイが言った。「個人なら8乗そこらだが、巨大企業(メガコープ)提供の機材(ハードウェア)の制御なら、12乗くらいあたりまえだろうさ」
 カウボーイのその状況の割に飄々として悠長な説明に、青年は言葉も無い。自分はたかが1種類のウィルス、ハッキングツールなどで、『初音ミク』を掌握できると浮かれていたのだ(そのツールも偽物だったが)。
「まぁ、たのむぜ」カウボーイはひらりと身軽に(一見、魔術的な飛翔には見えにくいほどに自然な身のこなしだが、明らかに人間の域をこえた身体能力で)その場を飛びのいた。
 ウィザードは両拳を握りしめ、全身を緊張させるかのように曲げた腕を一度身体の全面にかざしてから、一気にその身体を瞬発させ、どっと格子(グリッド)の土(プレーンソイル;ゼロブランク)を蹴って真正面に突進した。カウボーイとは逆だった。――”カウボーイが攻性”で、”ウィザードが防性”というから、青年は漠然と、カウボーイの方が前に出るものと予想をしていたが、そうではなかったのだ。
 疾走するウィザードのその概形(サーフィス)の周囲に、その突進に伴って、その周囲の空間にばらまかれている妨害ウィルス、小規模な論理爆弾(ロジックボム)が、彼の周囲の論理的セキュリティ防壁、外皮装甲(ナチュラルアーマー)と反発装甲(ディフレクションアーマー)に押し退けられ、その周囲の格子(グリッド)に陽炎のような視界の湾曲が生じているのがわかった。
 敵のウェイジメイジは、警告の火花に彩られた無数のオブジェクト、ウィルスセットとデコイを傍らに待機させつつ、突進してくるウィザードに立ちふさがるかのように、鉄杖のような収束具をその前にかざした。両腕で大きく振り下ろすように鉄杖をふるうと、目の前のマトリックスの大地に、その石突きで地を削るかのように鉤型のグリフ(紋章)を穿った。天地を揺るがす(電脳空間内でおかしな話だが)轟音と共に、ウィザードとメイジの両者のかざした拳と収束具から力場の防壁が膨れ上がり、それが両者の中間で激突し、前以上の轟音が地を震撼させた。
 《浜松》ののウィザードは両足をマトリックスの大地に踏みしめ、組んだ両拳をまっすぐ前に突き出し、”チハヤEN”のウェイジメイジは地に鉄杖を突きたて、その拳と杖からは半球状の透明な力場の壁が、互いのウィルスその他の攻撃を阻むと共に、互いを押し潰そうとでもするように圧迫していた。
 双方の力場の衝突地点を中心に、色彩とその変化する速度および密度がめまぐるしく変化する。互いの攻撃ルート、すなわち攻撃手段の注入経路とその予測範囲のバリエーション、貫通率が、三次元の色彩、紋章やその変位などに視覚化され、展開されている。電子情報を擬験(シムスティム;五感すべての知覚情報)に変換したその莫大な情報を、感覚的に、太古の魔術師が風や土や霊の声を掴むようにたやすく知覚し操るのが、ウィザードやメイジという人種である。
 その擬験情報だけにあきたらず、力場の表面いたるところ、さらにはその周囲の空中にすらはみ出して、めまぐるしくスクリプトと呪文、ドキュメント、警告の表示が駆け巡る。互いの力場が押し合い、せめぎ合うその場では、情報密度が脈打つようにめまぐるしく変わり、無数のプログラムがロードされる動きに伴って奔流のような情報流が現れては消え、フラクタルの樹形と羊歯の軌跡を描いて、波頭のように衝突し、干渉しあって飛び散り消える。
 象徴図像学(アイコニクス)に視覚化されていても、青年の目と頭脳、能力ではまったく何が起こっているのか処理できない。これがウィザードとメイジの戦いなのか。こんな連中のところに、自分はあんな程度のツールと知識で”ハッキング”をしたつもりになっていたのか。
 生きた心地もしない青年は、文字通り息をつくのも忘れてその光景に呆然とするのみだった。と、不意に軽い電子音の短い連続が耳元で鳴り響いた。
 振り向くと、《浜松》のカウボーイが、いつのまに長大な8フィートもの対AIライフルを肩に構え、その照門の周囲に先ほどの電子音と共に点滅する情報を映したレーダー状のディスプレイを浮遊させて、ウィザードとメイジの両者のせめぎ合いの狭間に銃口を向けたところだった。


(続)