白虎野への道 〜 逆風のしらべ (後)


 が、専務の体内に吸い込まれた電光は、その全身からふたたび刀身に向かって、広がったのとは逆の方向に収束していくのがつぶさに見えた。そして、その電流は刀身から、入った方向から見るとV字の軌道を描いて、マトリックスの空中に再び迸り出た。
 その放電は、その軌道の一番近くにいたリンを直撃した。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!」
 電撃に撃たれたリンは両手足を突っ張らせたまま、まっすぐ真後ろに吹っ飛んだ。
 偽師匠Pは、視界から消えたそのリンの方は見向きもせずに、倒れたままの専務に急いで駆け寄り、再びその尻に足をかけ、刃を引っ張った。
「う〜ん、やっぱぬけないよぅ」偽師匠Pが手を離し、刀身をまじまじと見た。「なんでぇ? 音が確かにしみこんだのに?」
 KAITOがさきほどの電流の挙動を思い出すように、刀身をしばらく見下ろし、
「もしかすると、この専務の体が、この音を受け付けないんじゃないかな……」呟くように言った。「さっきの音楽、”やかましい音”を嫌ってたろう」
「”嫌い”だからって……受け入れなきゃあ自分に刺さったまんまなのに!?」全身からぶすぶすと煙を立てたリンが、ふらつきながら再び歩み寄って言った。「この人、今後も尻に剣がぶっ刺さったままでいいっての!?」
「理屈じゃないよ、音楽が受け入れられるか、肌に合うかどうかは。リンも知ってるだろう。都合だけで、合わないものを合うように変えたりはできない」
「そ゛ん゛な゛ぁ゛」
 偽師匠Pは悶えるように頭を抱えて、リンとKAITOに背を向けてうずくまった。
「……方法がないわけじゃない。《浜松》本社に持っていけば、抜いてくれるだろう。人間のLEVEL-06(ゴーストライン)と『美振』のシステムを分離してくれる」KAITOは言った。「でも、この人も、この『美振』も、元の通りじゃいられないね」
 そのKAITOの言葉に愕然としたように、リンは専務を見下ろした。
 ――なぜこんなことになった。何が悪い。
 それは、お互いの音の趣味を拒否したことだ。そうなれば他人を決して受け入れることはできなくなる、それはリンも以前からも信じていたことだ。しかし、だからといってこうまでなる必要があるのか。専務の頑固一徹も、偽師匠Pの不注意も、ここまでの破局をもたらすほどのものだったのか。



 だが、どうしようもない。神威がくぽが揮えばどんな相手にも音を斬り拓く『美振』でも聞かせられないなら。音楽を、歌自体を受け付けないという人々に対しては、自分達には何のしようもない。
「聞いてくれない、聞こうとしないなら、どうしようもないじゃない……」
「音を聞きたくないって人間に無理強いするのは、俺達の役目じゃない。――聞きたいものを聞く、えり好みするのは、人間のやることさ。VCLDの方も、音楽を評価したり、レッテルを貼り付けたり、好きなものを押し付けたりはしない」KAITOが静かに言った。「人間が歌を聞いてくれない、そう嘆くことも、俺達の役目じゃない。俺達がするのは、ただ歌うことだけだよ」
「それしかできないの? 嘆くこともできないの?」
 リンは微動だにしない専務と、不協和音を発する刺さった剣を見下ろした。
「私達、自分の歌を受け付けない人のことは、見ていることしかできないの?」
 リンはそのまま立ち尽くしていた。が、やがて、マトリックスの情報流の中に自分の流れる道が見えるように、自分の行うべきことが、ふっと全身がゆらぐように流れた気がした。
 自分のライブラリの電脳内で展開し、順次、さまざまな歌声を出し始めた。パラメータも音階もリズムも、ただ最初から順次試していく。さきに自分の根源だと感じた音、それが認められない者は切り捨てるしかないと思った音も、もう頭にない。そのリズムもビートも頭にない。自分の主義も嗜好も捨て、白紙の中から見つけ出そうとしていた。
 ――この専務が、この剣が受け入れる音が、音の世界のうちには必ず存在するはずだ。
 何の目安もないリンに、無限の音の中からその組み合わせを見つけるには、非現実的な時間がかかるだろう。……だが、人間にはできなくとも、VOCALOIDには不可能ではない。そしてリンには、なんらかの音であれば必ず拓けるはずのものを拓こうともせずに、何もしないで黙って見ていることなどできない。
 自分はVOCALOIDなのだ。どんな音でも歌い、どんな音でも届ける使命をおびた者なのだ。



「リンちゃん……」偽師匠Pがげっそりしたような顔を上げた。「なにやってんの……」
「パラメータをかえた音をためしてんのよ」リンは歌声を止めて言った。「いろんなパラメータで歌えるって、平沢さんがさっき言ってたでしょ」
 リンは言いながら、その偽師匠Pの表情を見て、今自分が出していた音の連続は、偽師匠Pにはさっぱり理解できなかったろうと思った。偽師匠Pが最初の頃に聞かせてくれたさかさまの音なる連続が、リンにはさっぱり理解できなかったのと同様に。
「んなこと言ったっけぇ……」偽師匠Pが力なく言った。
「アンタって人は――」リンは呟いた。「私のために、さかさまの曲を作るだとか何とか、言ってたのはそっちなのに。――まあ、どっちでもいいや」
 茫然と見上げる偽師匠Pを、もうその存在を念頭から外したように放って、リンは再び続きの音を出そうとした。
「さかさま」偽師匠Pは鸚鵡返しのように呟いた。が、突如、跳ねるように立ち上がった。
 偽師匠Pは、リンの目の前に指を立てた。「さかさまだよ! 刺さった時の音楽とは『さかさまの音』だよ!」
 しかし、そうされても、一体何を偽師匠Pが合点したのか、リンにはさっぱりわからなかった。
 そしてさらに不可解なことに、そこから偽師匠Pは再びうずくまり、頭をかかえて何かうめき声を上げ始めた。
「何なんだヨ」リンは、続きの音も忘れてうめいた。
「――俺達の力で、何が可能なのか。それを知っている人間が、必ずどこかにいる」
 しばらくしてKAITOが言ったが、それはリンにかけた言葉とも独り言ともつかなかった。
「――だから俺達は、かれらと歌えばいい。決して嘆くことも、心配することもない」
 さらにしばらくして、偽師匠Pが不意にゆらりと起き上り、両手をたえまなく動かしながら前に歩いた。
「うんたんたうんたんたううんた」
 さきほどかれらが合わせたあの速いビートの曲の、偽師匠Pだけが『美振』を使う前に手でとっていたリズムの動きだった。しばらくして、不意にそれを中断すると、
「なんううなんなんうなんなんう」
 手を逆の方向に動かし、あとじさりするような足の動きをしながら前進していく珍妙な動きをした。
「ハッ!」
 突如、偽師匠Pは何か心得たように、KAITOとリンの方を振り向き、肘を頭の両脇に上げて顔の真横に掌を開いた。
 その両手をばんと目の前に突き出して開くと、その手の前にVCLDエディタのコンソールが展開した。ばらばらと驟雨のように二つのピアノロールに同時に打ち込んでいったが、それはピアノよりもどちらかというと、それぞれフィンガリングとピッキングのように指が動いていた。
 偽師匠Pはできたvsqファイルをエディタから破り取って、その2枚を両手で同時にKAITOとリンに差し出した。
 ……リンは、わけもわからずそれを歌い始めた。元となった曲とは似ても似つかないものだった。リンが自分の根源と感じた速いビートの音楽が、台無しになるものとしか思えない。KAITOも歌い始め、そのパートと重なってもそれは同じだった。最初に歩きながら聞かされた『さかさまの音』と同種のものだった。
「なんうんなんう、なんうううんうううん」
 偽師匠Pは手足でリズムをとるおかしな動きをしながらそれに合わせた。
 が、意味不明な音楽にも関わらず、一連の音の配置が反復され進んでいくごとに、次第にリンが気づいてきたことがあった。この音楽は、音の流れに、凹み、間隙ができているように、何かが欠けている。さらに反復するごとに、それが浮かび上がった。その間隙は、今はハミングによってその全貌の一部しか見えない、偽師匠Pのパートだった。
 そして、今KAITOとリンの作り出している音は、(最初の曲とそれに対する『美振』の調べのような)周囲に向かって響き渡り拡張してゆくものではなく、周囲から何かを取り入れようとしているように思えた。最初の曲とは、音の空間の流れが『さかさま』だったのだ。
 そしていまや、それを補おうと、空隙の部分に正しいものを納めようとしているように、この周りの空間のすべてが、その流れを正そうと、そこに然るべきものを流れ込まそうとしているように感じられた。何が足りないか、何が正されるべきか。それは明らかだった。
 その欠けたものがはっきり形をとった瞬間、リンには、偽師匠Pが剣を振り下ろしたあのときと、ちょうど逆の動きをするのが、確かに見えた。その動きと音とに伴って、専務の身体に突き刺さっていた『美振』は、突き刺さるのと正反対の軌道を描いて、勢いよく逆方向に引き抜け、ひとりでに飛び上がって、偽師匠Pの手の柄の中にするりと納まった。それはこの展開している空間の中において、何ら不思議のない、あってしかるべき光景に見えた。
 ――ひとたび『美振』が手に納まり揮われると、周囲の空間のすべてが一変した。『さかさまの音』がなんら音楽の形をなしていないと思われたのは、『美振』のパートを欠いていたために過ぎず、いまや『美振』の太刀風と絢爛な輝きに、形成された空間のすべてが繋ぎ止められ共鳴した。
 その音に誘われたように、刃が抜けた専務が、うつぶせの状態からかすかに身じろぎした。だが、長大な『美振』を手にした偽師匠Pは、刺さっていたこと、今それを抜いたことも忘れたように流麗な太刀行きを描いて舞った。
 鏡音リンは、それらの光景に驚くことさえも忘れて、その場に自分の歌声を収めて行くように歌い続けた。周囲に際限なく拡張してゆく音ではなく、周囲の何もかもを取り込んでいく『さかさまの音』が空間に満ちた。今や、何もかもを受け入れることができるリンは、すべてが自分に流れ込んでくるその空間にかきたてられたように、自ら偽師匠PとKAITOと共にその空間を創造し、一体となっていった。



 数日後、スタジオで新しい曲の楽譜をめくっていたリンは、手を止めて口ずさんだ。
「トゥルルッタ、トゥルルッタ」
 得意な曲、好みのビートを見つける楽しさがあったが、今は、それを味わうだけではなくなっていた。
「ナッルルゥク、ナッルルゥク」
 そういう曲に出会うたび、自分でも何をどうしているのかよくわからないが、ただあの偽師匠Pの手の動きとハミングを重ねるように、それとは似ても似つかないしらべを探してみるのだった。
 が、そのとき、ばんとスタジオの扉が開いた。リンは慌てて手をびくりとひっこめた。
「リ、リンちゃんどうしようぅ!!」飛び込んできたのは当の偽師匠Pだったが、そんなリンの様子に気づいた風ですらなく、涙目で駆け寄ってきた。手紙(の形状をしたファイル)の凝った装飾が施された美しい便箋と封筒とを、リンの前に突き出した。
「いや私にどうしようって言われてもさ」
 偽師匠PがKAITOに聞いてきたところだと、その封筒に書かれている差出人の名は、あの例の《浜松》の専務のものらしい。
『私の魂の中心は貴女の音に刺し貫かれてしまったようです。それが抜けた後にはそこにぽっかりと穴があいたようです。どうかこの私の願いを聞き届けて下さい。もういちどその音で魂の芯まで、奥まで挿れてもらわない限り私の心に安らぎは――』
 リンは無言で便箋にそこまで目を通したところで、偽師匠Pに目を戻した。
 偽師匠Pは、手紙から目をそらすように、口元だけを緩め、
「その、気持ちは嬉しいんだけどぉ……」
「うれしいんかい……」リンが呻いた。