白虎野への道 〜 逆風のしらべ (中)


 リンはその叱咤の声の主の姿を見た瞬間、てっきり多国籍闇社会組織”ヤクザ”の幹部かと思った。広場のスペースの端に立っていたのは、喪服のように真っ黒いスーツをまとったミラーグラスの、見たところ初老の男の姿の電脳空間内概形(サーフィス)だった。どちらかというと、大柄で厳つい。
 男の目はグラスに隠れて見えないが、顔の動きからその視線はわかった。その視線が、そこにいるふざけた組み合わせの三者――長大な大太刀を不格好に担いだ砂漠民のような偽師匠P、やたら厚着のコートにマフラーのKAITO、そして、水兵甲板衣を切り詰めたような露出度の高い鏡音リンの姿へと、順次動いた。
「公共の、しかも、落ち着くためのスペースだろう」初老の男はその面々を、いかにも不審なものを見るように、まだ見回し続けながら言った。「休むために来ている人もいる。だれか一人が占領する場所ではない」
「はうぅ」偽師匠Pが、弱気なうめき声を出した。
「しかも、そんな落ち着きのない趣味の音楽など、がなり立て……迷惑を考えろ」
 その相手の言葉に、リンは思わず眉を上げた。KAITOや偽師匠Pの前に一歩進み出かけたが、
「すいまっしぇーーーんごめんなっしゃーーーい」偽師匠Pが頭をかきながら、困ったように笑いつつ、完全に気の抜けきった返事をした。
 偽師匠Pは両手でよたよたと大太刀をかつぎ上げ、悠々と続くKAITOを傍らに、そそくさとその場を離れた。
「……あのさ、平沢さん」リンは、その偽師匠Pを小さく駆け寄るように追いながら、なおも小さく口を挟もうとした。
「先にほかに人がいたんならしょうがないねぇ」偽師匠Pは返事をしたが、あたかも、そんなリンの言うことは何も聞いていないようだった。
「今のは、《浜松》の専務の一人だよ。村田さんの上司だ」KAITOが、よく仕事をするまた別のプロデューサーの名を言った。「……あの専務は、音楽に関しては厳格な人なんだろうね」
「専務だろうが会長だろうが知ったことかヨ」リンは呟いた。
 リンには、それほどうるさくした覚えはない。というより、騒音にあたりそうだったのは、さっきの音楽、リンやKAITOの歌よりも、むしろ直後の偽師匠Pの奇声の方である。つまるところ、あの専務は、実際に音楽がうるさかったというよりも、『落ち着きのない音楽』というもの自体が気に食わなかったところに、偽師匠Pの叫び声でその出所を知ったので、これ幸いと言いがかりをつけたのだろう。
「一人のための場所じゃないって、それはあっちだって同じじゃないの」同行するふたりのどちらも聞いてはいないとわかった上で、リンは呟き続けた。「先に声を出して罵ったもの勝ちとか、ゴロツキの小物の理屈だと思うけど」
 しかし、そう言うリンの本心は、実の所こういった道理とも、また別のところにある。あの音楽、リンの得意な強いビートのあの歌を、『落ち着きのない音楽』などと切り捨て、最初から理解を拒むという時点で、あの専務と相容れないものを感じている。
 自分と同じものを聞いたり歌ったりしたときに、同じように楽しむことができないような人間、というものを、リンは根本的な部分から全面的に、一切理解できるという気がしないのだ。
 ああいう人間には、VCLDを理解することも決してできない。この手合いの人間がいる限り、”VCLDはパッケージを買った人間を『マスター』などと呼んで一方的に服従し、マスターのために全て尽くす立場”、”VCLDは人間に『調教』される立場”と決めつける、そんな連中が減ることは決してないのだ。



 もっとも――リンは、いま自分の音をけなされたというのに、何もこたえた様子のない偽師匠PとKAITOを、歩きながら一瞥し――こちらも理解しているとは、いまひとつ信じられないのだが。
「こんくらい離れればいいっかなぁ」
 偽師匠Pはしばらく歩いてから、また立ち止まった。こうは言っているが、さっきの場所からたいして離れておらず、何か周りの様子に注意を払った様子もない。リンは枝が切りそろえられた生垣(防音シールド・セキュリティシステム)を見た。さっきのように偽師匠Pが叫びさえしなければ、大して問題にはならないだろう。正直なところ、またあの専務に聞こえたって、別に構わない。
「んじゃ、さっきのもぅいちどぉ」偽師匠Pは背の大太刀の下げ緒を手繰り、大儀そうな仕草で、背負っていた『美振』を前におろした。「今度はオケあわせるよー」
 偽師匠Pは大太刀の鐺(こじり)をごんと音を立てて一度、足元の飛石に置いた。それからあとじさりつつ、うんしょよいしょと声をかけて、『美振』をずるずると鞘から引っぱり出した。時ごとに彩を変える原色の絢爛な光を放つ、身幅広く反りのきわめて強い刀身が現れた。
 『美振(mibri)』は武器ではなく(そもそも、マトリックス内の電脳兵器(ブレイクウェイア)は、大概は武器のような形状はしていないし、人間が武器のように持ち運んだりはできない)《浜松》で開発された楽器、電脳音源である。リンはこの楽器自体、『神威がくぽ』の所有しているもの以外、他では一度も見たことがない。がくぽの持つ美振は二尺をわずかに出た中太刀(大脇差)だが、偽師匠Pのこちらは特にそれと雌雄か何かの関係があるとも思えない長大なもので、渡りだけでも七尺と五、六寸、柄元までならどう見ても九尺をこえる。東洋拵えされた陣太刀には見えず、その長大な柄は象嵌の他は黒一色で、螺旋のようにねじれた円と十字の鍔が大きく張出し、とても揮いやすいようには見えなかった。といっても、この偽師匠Pの5フィート強ばかりの身長と、これまでの身のこなしからは、それ以前の問題として、到底この長物を扱えそうには見えなかった。
 さきほどの譜面と同じ歌を、リンとKAITOが歌い始めると、その声が流れる中、偽師匠Pはその大太刀の柄を両手に握ったまま、目をとじて、全身でリズムをとっていた。2リピートほどもそれを確かめてから、偽師匠Pは大太刀を捧げ上げつつ、ふわりと踏み出した。そのリズムの動きの続きのように、ごく自然に踏み出したように見えた。
 が、その瞬間、空間のすべてが一変した。
 KAITOとリンの歌声に『美振』の音が合わさったそのとき、リンは自分の全身に、さきほど偽師匠Pが発した奇声にも似た響きが一気にこみあげて来るのを感じた。合わさったときのそれは、ハーモニーが生じたというより、空間そのものがこの場に産まれ出た瞬間だった。
 ――『美振』とはつまるところ、演武のように全身の捌きで音を奏でる楽器だが、神威がくぽに言わせれば、それは単に身体の動いた通り音を出す、というものではない。剣は窮まれば揮う者と天地(あまつち)とを一体にするものであり、すなわち、『美振』とは音と空間すべてを繋ぐものである、という。正直そのときには意味はよくわからなかったその言葉を、リンは今、偽師匠Pの奏でる姿に思い出していた。
 これまでの偽師匠Pの、いかにも鈍臭い身のこなしや振る舞いの、何もかもが嘘のようだった。長大な『美振』の太刀行きは緩やかに流れ、対して偽師匠Pの小さな身体は、その軌道の周りを軽々と舞うかのように躍動した。先にたどたどしく見えた足踏みやハミングと、全く同じテンポのはずだが、今の足取りには寸分の無駄もあるように見えず、空間の広がりに沿い、それを作っていくかのようだ。前にがくぽが云っていた、あれは何だったか。『能楽』と『新翳流』に共通する拍子取り、足運びの奥義――『西江水(せいごうすい)』、という言葉。左手がフィンガリングのように峰を滑りその鎬の表裏を行き来するごとに、太刀光が閃くように翻り、『美振』の刀身は、そのリズムに応じて様々な原色に移り変わる燦然とした光と共に、マトリックスの空間全体に朗々と共鳴を発した。
 もはや、リンのこれまで好みだった曲にたまたま似ているから、ではない。これこそが根本だ。リンの中心にあるビートそのものだ。その強いビートと共に膨張していく空間に、自分自身が広がり出て、『美振』とKAITOと共にリンの歌声がその空間を形作っていく、その湧き上がる感覚にリンは駆り立てられていった。



 が、不意にそのとき、いっぺんに様々なことが起こった。
 突如、激しい不協和音と共に、その『美振』の音が糸が途切れるように止まったかと思うと(リンとKAITOの声は出続けていたにもかかわらず、共鳴するものを失い霧散したかのような錯覚を起させた)偽師匠Pの手から『美振』が消えうせた。
 それが、踊り回る偽師匠Pの手から、なんらかの理由ですっぽ抜けて、その長大なぎらつく刀身がどこかにすっ飛んで行った、と気づく間もなく――
 ぶすり♂。
「アッー―――――――――――――!!!!」
 つかのまの沈黙がおりた。
 偽師匠Pはそのときの姿勢のまま立ち止まっていたが、首を回してリンとKAITOを振り向いた。三者は黙って顔を見合わせる形となった。
 直後、その方向に、つまり今の刺突音と続く野太い悲鳴が聞こえた方向に向かって、リン、KAITO、偽師匠Pの三者は駆け出していた。



 その場所は、生垣をこえたすぐの場所にあった。その場に最初にたどりついたリンは、その光景に、しばし呆然として立ち尽くした。
 生垣を挟んですぐの場所、そこにさきほどのスーツ姿の大柄な、《浜松》の専務の姿があった。うつぶせに倒れているが、体をくの次に折り曲げ、膝だけを立てて腰だけをこちらに突き出したような姿勢になっている。……その尻に、『美振』の刀身が深々と突き刺さっていた。
 続いて偽師匠Pが、さっきまでの音を奏でていた際の軽やかな動きが嘘のように、足をもつれさせてその場にたどりついた。
「え!?」偽師匠Pは唖然として、その光景と、手の中に握ったものとを、交互に幾度も見比べた。「えぇ!?」
 偽師匠Pの手にあるもの、それは『美振』の大太刀の、柄(つか)だけになっていた。長大な刀身は、茎(なかご)だけをこちらに向けて突き出している。
「なんでぇ? えっとぉ、なんで抜けたの? なんで飛んでったの?!」
「目釘(めくぎ)が抜けたんだ」
 KAITOはそっと捧げ持つように、茫然としてされるがままになっている偽師匠Pの手ごと、その柄を握った。それから、その柄のなかばの目釘穴(刀身と柄を固定している釘の入る孔)を、偽師匠Pの方に向けて見せた。……リンはようやく理解した。先ほどまでの偽師匠Pの『美振』の扱いのちぐはぐな差、偽師匠Pは『美振』の”楽器”としての扱いは熟達しているものの、”刀剣”の扱い方は何ひとつ体得していないのだ。神威がくぽのようなAIにとっては、その二つは不可分のものだが、人間の場合、電脳空間内の神経接続を介したイメージ操作では、別個のシステムとして処理されてしまうのか。
 と、偽師匠Pは、一歩後じさったリンにいきなり掴みかかった。
「リ、リンちゃんどうしようぅ!!」偽師匠Pはリンの両肩をつかんで、涙目でうったえた。「人に刺さっちゃうなんて!」
「いや落ち着いて。私にどうしようって言われてもさ」
 実際のところ、『美振』が、人間の電脳空間内の概形(サーフィス)に刺さった、というそれ自体で、人間に害があるわけではない。電脳空間内の体は人間自身の体ではなく、『美振』は武器ではなく楽器である。そもそも、ブラックICEのような非常に珍しい電脳兵器、神経フィードバック兵器でもなければ、電脳空間内のプログラムが人間に本当の損傷を与えることはない。(もっとも本当のところを言えば、疑験(シムスティム;全感覚疑似体験)情報の万能の媒介である『美振』は、ウィザード(防性ハッカー)やAIが持てば、電脳戦(コアストライク)の収束具、一種の"杖"としても使用できるのだが、無論のこと、偽師匠Pとそんな電脳技術などとは無縁な話だった。)
「それにしてもなんでこのおっさんは、なんでこんなとこでこっちに尻向けてヨーツンヴァインになってたんだヨ……」当面、応急の何かをする必要がないと知って、リンが呟いた。
 が、偽師匠Pはおそるおそる、その専務の背後に近づいた。危なっかしい仕草のまま、(しかしリンが驚いたことには)その専務の尻に無造作に足をかけ、刺さった刃の茎(なかご)を両手で握り、思いっきり引っ張った。
「うんんうぅおうぅえぁぁぁあぁ」
 呻きとも叫びともつかない声と共に、目を固くつむり、口を曲げる音がするかと思うほどにへの字にひんまげて両手を引き絞ったが、肩や腰や突っ張った足にだけどう見ても余計な力がかかっており、肝心の剣にはまるで力がかかっているようには見えない。
「うう〜、ふたりでひっぱってみよっか〜〜」偽師匠Pが茎から離した両手をだらりと下に下げてから、リンを手招きしようとした。
「力じゃ抜けないのかもしれないね」と、KAITOが言った。
「どゆこと……」偽師匠Pが背後のKAITOを振り返って言った。
「《浜松》の人から聞いたような覚えがあるけど」KAITOが低く言った。「その剣はきっと、刃(は)が切るものじゃなく、音が切り込むものだからさ……」
 偽師匠Pは頓狂な表情で、自分の手の柄と、重役から突き出た刃を交互に見比べ続けた。自身『美振』の数少ない使い手なのに、そういう話は聞いたことがなかったのだろうか。というより、聞いたことくらいはあっても、気にもせずに使っていたのかもしれない。そもそも、武器と楽器の別も意識せずに使っていたのだろうから。
「『刃が刺さったり切り開いたり』するんじゃなく」KAITOが言った。「『音が染み透ったり道を拓いたり』するのかもしれない」
「そっか、考えてみたら、この中(電脳空間)で腕に力を入れたって駄目だよねぇ」偽師匠Pは頭を掻きながら言った。さっきの余計な力み方は、まさかとは思ったが、物理空間の方の腕が無意味に力んでいた反映だったのか。「”力”を入れるんじゃなくて、”音”を入れればいいんだねぇ」
 突き刺さった『美振』の刀身は、今も音を発している。震えつつの唸りは剣自身か専務の心かはわからないが、まるで怨嗟の声のようである。リンは以前ルカか誰かから聞いた、犠牲者と持ち主とを共にさいなむ”黒の剣”、”冷たき剣”の説話を思い出した。
「それじゃあ、さっきのねぇ」偽師匠Pが、譜面をKAITOとリンに手渡した。
「それじゃあって何を……」リンが振り向いて聞き返したが、
「何って、さっきの曲を、刺さった時の”音”を入れるんだよぉ」
 偽師匠Pの指示に従って、KAITOとリンはさきほどのvsqを歌った。しかし『美振』の合わせるべきパートについては、偽師匠Pが両手を叩いてふにゃふにゃと上体を左右に動かしながら、気の抜けるハミングをしているだけだった。1コーラスが終わったところで突如、偽師匠Pは奇怪な動きで上体をぐんにゃりと一度ゆらめかせると、片腕を突き出した。
「さんだぁーぶれえくぅっ!」
 今奏でられた音楽のデータ流、五感全てに訴える疑験(シムスティム)情報の圧縮された奔流が、高電圧にかけられた電子流のごとく、マトリックスの霊子網(イーサネット)の上位にある仮想粒子に満たされた虚空に真空放電を起こし、偽師匠Pの指先から稲妻となって出力された。放電は茎(なかご)に当たると、その刀身、あらゆる構造物(コンストラクト)の中で音声情報の伝導率が最も高い『美振』の玉鋼を伝い、専務の尻からその全身にすべて吸い込まれた。
 一瞬を置いて、周囲一帯の霊子網(イーサネット)の方が上位ネットに起こった放電現象に共鳴して激震を起こし、天地を揺るがすかのような雷鳴が轟いた。



 (続)