白虎野への道 〜 逆風のしらべ (前)

 鏡音リンの目に入ったその人物は、緑に彩られた庭園の空間に、おおよそこれほどそぐわない姿もないと思わせた。この庭園には、草地の中に朽ち果てた古代の城跡のようなオブジェクトが配置され、飛石による道の上のそこかしこに、石のアーチの門がある。――その人物は、そのアーチのうちひとつにひっかかり、何の原因かわからないが前に進むことができずに、ただもがいていた。
「ひょっとして、あれなの」
 リンはその人物を怪訝げに見ながら、傍らに立っているKAITOに声をかけた。
「あれって、何がだい……」KAITOには何の話題か自体がわからなかったかもしれないが、ただ、穏やかに短い声を発した。
 その人物は(欧州内陸風の庭園の光景には、おおよそ似合わない)西アジアの乾燥地帯のような、ゆったりとした薄く布地の多い服装に短いターバンで、ほぼ男装にも関わらず女性の、どちらかというと小柄な姿だった。年の頃は、リンとさして変わらないように見える。その服装の様式、少女のような姿、壮麗な遺構の風景にぎこちなくもがいているすべてが、この光景に合致しない。
「あそこにひっかかってる、扮装だけアルル・フォルテッシモだか何だかみたいな女……」それを指で差すのもためらったリンは、眉をひそめてKAITOに答えた。
 その女性が飛石の上を進もうと足を動かすたびに、がつんがつんと音が響き、それは背中に何か長いものを担いでいて、アーチに引っかかっているのは明白だった。そこを何とかしてアーチを通りぬけようとしているようなのだが、うまくいっていない。
「んいいいいいいっ。出られない」その叫び声は、どうやら独り言のようだ。
 KAITOは無言で、ゆっくりとそちらに歩み寄っていった。もがき続ける女性のうしろのアーチに回り、背後から手をのばした。彼女の背にひっかかっているものの向きを斜めにし、アーチの空洞の対角線を通過するように調整した。
「おおおぅ」
 小さな叫び声と共に、彼女はアーチからまろび出た。リンはその次の光景をほぼ確信していたが――案の定、彼女は前転しかねない勢いで転げ、べたりと草むらに顔を突っ込んだ。
「すみません」
 KAITOが静かに手をさしのべた。
「いやぁー、別に気にしないっていうか、……むしろありがとぅ」
 彼女は頭をかきながら、起きあがろうとした。が、いまだに背に負っているものが邪魔で、うまく起きられないようだった。斜めに担いでいるもの、さきほどアーチにつっかえていたそれは、拵えまで入れれば明らかに彼女の身長の倍近くはある大太刀だった。これは武器ではない。『美振(mibri)』という、楽器の一種である。
「平沢さんですね」
 その背負っているものを見下ろして、KAITOが言った。
 彼女はその言葉に、ふたりを見上げて、目を輝かせて言った。
「お兄さんと、リンちゃんだね!?」
 その女性は、その場で飛び上がるように(一度は大太刀の鞘の先をつっかえさせて)立ち上がり、ふたりを改めてまじまじと見比べた。
 リンは、さらに落ち着かない気分になった。あまり信じたくなかったが、やはりこの女が、今日、KAITOとリンとの待ち合わせにやってきた『偽師匠P』に違いないようなのだ。



 『偽師匠P』の名をリンが最初に聞いたのは、実は第一世代VOCALOIDの中でも最古参である”母”、LOLAを通じてである。この偽師匠Pは、VCLD-P(プロデューサー)ら――すなわち、VCLDソフトのパッケージを購入しての”契約”により、高位AIであるVCLDの音声を、AIの下位(サブ)プログラムを介して利用するユーザーら――のうち、最も古いひとりとのことだった。鏡音リン初音ミクら第二世代VCLDがネット上で知られるよりも遥かに前から、LOLA、MEIKOら第一世代をはじめ、VCLDのみならずDelayLamaなどのネット上の様々なボーカルアーティストらと幅広く仕事をしているユーザーだという。そしてLOLAの言葉を信じれば、最も古くから”VCLDというものを理解している”ユーザーのひとりである、とも。
 ……しかしリンは、(たまにしか会わない、”父母”というよりは要事だけ現れる胡散臭い遠縁のような)LOLAを信じないというわけでもないが、よたよたと歩く偽師匠Pを傍らで眺めるごとに、どうもこのユーザーの能力に対する不信の念はつのってゆくばかりだった。偽師匠PはKAITOとリンと並んで、大太刀を大義そうにゆすりつつ、飛石の上を危なっかしく渡って歩いていた。挙措のすべてが、全くさまになっていない。もとい、背のもの、この自分の所有する”楽器”すら扱い慣れているように見えない。それでいったいVCLDの音声を扱えるのかどうか、リンには甚だ疑問に思えてくる。
 今、歩いているここの電脳エリア、リンとKAITOが偽師匠Pから仕事を受ける待合いに使ったこのスペースは、電脳空間(サイバースペース)上の集合エリアだった。《浜松(ハママツ)》の社のデータベースが集積した、音屋が訪れることが多い界隈のほど近くだが、ここはいわゆる庭園・公園のようなその見かけにたがわず、ある程度自由に使えるネット上の公共エリアである。その広いスペースを、偽師匠PはリンとKAITOに先立って歩いていった。どうやら、収録に使えるような、音を出してもいいエリアを探しているらしいが、そうやって歩きながらも、急ぐでもなく、やたら無駄話が多かった。
「リンちゃんてさぁ、確か、新しい子なのに、マニュアルっぽいんじゃなかったかなぁ」偽師匠Pが何度目かで、リンを振り向いて言った。
「いやもうあんまり新しくもないし。マニュアルっぽいって何……」
「んーんと、磨いた方が、えっとデフォルトよりVELとかBREをぐにゃぐにゃぐねぐねって動かしていい声にできるとか、音の繋がりが区切れるだとかぁ」
 偽師匠Pの喋りは、そっちこそVELを調整したくなってくるような、ろれつが充分に回らないようなひどい舌ったらずで、それは初音ミクのかぼそい声のようなたどたどしさとはまた違うが、喋り方や言葉遣いだけ聞いていれば、ミクどころか、リンより年上にすらとても思えない。
 しかし、この偽師匠Pの実際の姿、物理空間の方の姿は、このような少女ですらないことは確実だった。LOLAによると、この偽師匠Pがレスポールと呼ばれる重量級の太古のギターを弾いている、少なくとも50年以上前の演奏記録が残っているという。……プロデューサーやアーティストらにはよくあることだが、実際の年齢、性別すら含めてその他、物理空間の方の正体は一切不明である。おそらく、LOLAならこの偽師匠Pについて何かそれ以上のことも知っているのだろうが、KAITOやリンには何も語らなかった。
「音の繋がりが区切れるってことはねぇ、ほら、Act. 1の方でそのうち、お兄さんお姉さんみたいに、さかさまの音を作るのに使えるよねぇ」
「さかさまの音って何」リンはうめいた。この話題こそ話の繋がりがまるでわからないが、その言葉の意味もなおさらわからない。「モーツァルトの即興みたいな……」
「楽譜をさかさにすることじゃないよぅ」偽師匠Pは友達の冗談に答える女子学生か何かのように、鷹揚に微笑んで言った。「えーと、ほら……」
 偽師匠Pは歩きながら、こくりと顎を仰向けて宙を見つつ(その歩行がいかにも危なっかしかった)両の掌をぐるぐると互いに回し、口ずさんだ。明朗簡潔なメロディとリズムだった。
「とーとーとーてた・とーとーとーてた・とてつちたとてーたちつてとっとぅるるるるるららら、てのが」
 手をくるりと裏返し、一見不規則に回しながら、
「こう、るるるらららららぅのっのねぬになーねのなにぬねの・なぬーのーのーの・なぬーのーの、ってさぁ」
「……わからん」リンはしばらく絶句してから、ようやくうめいた。「心底わからん……」
 単に例えだからかもしれないが、後の方はメロディにもリズムにもなっていない。前の音にあったテンポすら、すべてが台無しになっている。前の方との関係で何か規則が見られるでもなく、何をもって『さかさまの音』なのかもさっぱりわからなかった。
「俺達がわかる必要はないさ」KAITOが静かに笑った。「歌うのは、平沢さんのvsq次第だよ」
 VCLDがうまく歌うのに必須のものは、しばしば派生創作の設定で描かれ、その読者が信じているような、『VCLDが音楽や歌詞の内容を理解すること』ではない。
 例えば、俗悪な人間の歌手のストーリーのように、『自分が恋愛することで、恋歌の心情を理解し、歌えるようになる』などということは、VCLDには一切ない。VCLDの歌の音楽性の全ては、作り手のvsqだけに依存する。だからこそ、無限の作り手によって無限の可能性が与えられるのである。
 (無論、VCLDは音楽性や歌や”音楽”でなく、自分の発声、”音”そのものは日々追及する。《札幌》や《大阪》の各所属事務所や、時に《浜松》まで赴いて、常に訓練し研鑽する、それらの成果は、後日VCLDたちに特有の頻繁な『バージョンアップ』として反映されることになる。)
 完成する”音楽”は、VCLDがいかに曲を理解するか、ではなく、作り手の方がVCLDの特性(かれらの研鑽を重ねた”音”)をいかに理解しvsqを作るか、ただそれだけにかかっている。VCLDを調整、もとい、『VCLDに調教されなくてはならないのは常に人間の方だ』ともいわれる所以である。
 その旨を理解し、そして個々のVCLDの特性をも理解する優秀なプロデューサーのひとりがこの偽師匠Pだ、と母LOLAは言うのだが、しかし、リンの不信は募るばかりだった。……様々な奇矯なプロデューサーらと、それ以上に日々奇怪すぎる振る舞いの一族VCLD達の間で過ごしている鏡音リンは、誰かの並大抵の奇行に出くわしてもいまさら驚いたりはしないが、それを置いておいても、やはり偽師匠Pの振る舞いと、今発した『さかさまの音』とやらは、何ひとつ理解できなかった。



「んーじゃぁ、このへんでぇ」偽師匠Pは、公園の一か所、なぜここを選んだのかはよくわからない、変わり映えのしない広場に立ち止まった。「あたりつけてみょっかぁ」
 偽師匠Pは、アジア衣裳の膨らんだ袖の中をごそごそとひとしきり探った後、vsqファイル(この偽師匠Pのものは、電脳空間内では、楽譜の紙束の形状をとっていた)を、それぞれKAITOとリンにひとつずつ手渡した。
 リンはそのファイルに目を通してスキャンし、ざっと電脳でデータ全体を処理した。……さっきのおかしな『さかさまの音』のような、音楽になっていない代物が出たらどうしようかと思っていたが、特にそんなことはなかった。vsqファイルは今のところ断片的だが、全体的にリンの得意な、メロディよりもリズムでできているような、強いビートに沿った曲だ。このプロデューサーは今のこの見かけ通り、主に民族風にテクノの入った音を作る、とKAITOからは聞いていたが、しかし、今回のこの曲はかなりテンポが速く、激しいフレーズの間奏の反復が入る、リンの好みのダンス曲の性質が入っているようだった。
 偽師匠Pはそのエリアに立ったまま、電脳空間マトリックスの格子空間の空中に、ピアノロールが表示されたVCLDエディタのウィンドゥを開き、リンやKAITOがvsqファイルの内容を歌うのを聞きながら、指を曲げて調整した。リンの声にあわせて、すたんすたんと足でリズムをとり(背中の大太刀をがたがたと揺らし)ながら、鼻歌やらスキャットやらを織り交ぜて、パラメータや曲そのものを調整していった。
「もっとテンポを変えた方がいぃのかなぁ」ピアノロール上の、さっき言っていたリンの声の繋がりにあたる部分を眺めながら言う。打ち込んでは止め、短いフレーズごとに直し、メモ用紙のような修正ファイルをリンの楽譜に挿入しては新たに渡し続けた。
 最初も、それを変えていく過程も、他のユーザーらが曲を作る時と同様だった。むしろ、手際はたどたどしい方(その鈍臭い見かけ通り)とも言える。LOLAが言っていたような、VCLDを特性を掴むカンや飲み込みが、とりたてて良いとも思えない。
 しかし、偽師匠Pのこのvsq技術や作曲能力は案の定、期待できないが、歌っている今のこの曲自体、強いビートは悪くはない。リンに合った、というより好みの曲なのは偶然なのだろうと思うが、まあ仕事の気分は乗る。
「いいよぉー。うんたんたうんたんたううんた」リンとKAITOの曲が形になっていくにつれ、偽師匠Pはおそらくリズムにあわせて、両手に変な動きを加えた。何度目かで、曲をつなぎあわせ、さらにKAITOとリンのパートをあわせた。その両者のハーモニーをはじめて聞いたとき、偽師匠Pは感きわまったように身をふるわせつつ、拳と脇を締めて、けたたましい奇声を発した。
「ヴォーーーーーーーウ!!!!」
「やかましい! 何事だ!」
 突然、低い怒鳴り声が響いた。皆が思わずそちらを振り向いた。



(続)