神威女難剣紫雲抄(10)


「ここまでされても、これ以上そなたらに顕せるものは何もない!」6体の暗黒卿に囲まれ、もはや一歩たりとも退ける場所のない神威がくぽは、それでも『美振』を撥草(新翳流の八相)にとり、追い詰められた焦燥を懸命に抑えつつ、かれらの動きに目を配りながら、叫んだ。「我は、秘剣など会得しておらぬぞ!」
「知っているよ」
「……なに!?」
「ゆかりから報告を聞いたよ。君は”神威がくぽ”であること、”勇馬”ではないことも。会得しているのは正しくは”遊雲”ではないことも」6体の暗黒卿のうち、どれか1体が言った。「別に、見せてくれるのは”遊雲”ではなく、”陰ノ霞”、”橋返し”、”金毘羅房”、どれだっていいのさ。我々が得たいもの、ゆかりのAIの進化に加えたいのは、それらの技の表面のどれでもなく、その深遠にある電脳の空間の真髄なのだから」
 そう言う間にも、がくぽの周囲、前後に6人いる、その間合いはじわじわと詰まってくる。すべての方向から同時に追い詰められ、どこにも逃げ場どころか、かわすための足場さえもない。進退がきわまった。がくぽの脳がめまぐるしく動いたが、その理性、剣士としての経験のすべてが、絶望以外の何物も受け入れるのを拒んでいた。
 が、――その一方で、さきほど、剣がひとりでに背車に回ったのと同様に、ふと意識のどこかが、外からこの光景全体を見るような冴え渡った霊感を示した。
 その光景は緩やかに、やや時間が緩慢に流れて見えた。6人が6方から迫りつつある状況。不意にその光景が、細い道が3つあり、それぞれの前後からVY2の遊雲の刀法の細い通路、そしてがくぽの金比羅房、二人掛、橋返しの、細い通路や橋でゆくてのないところに前後から挟まれた、その状況が3組あるように見えていた。
 金比羅房や遊雲の勢法と異なるところは、あらゆる方向から挟まれ、道から反れて逃げるという選択がない状況であることだ。しかし、――あれらの刀法であっても、道の外に逃れることなどは教えていないのではないか?
 ならば一体、どこに逃れることを教えていたというのか。限られた空間の、さらにその中において、……
 どこか外の空間、何かの別の”無限の次元”から、この光景、がくぽと対峙する6者の姿を見下ろしているようながくぽ自身の意識は、がくぽが自らの身体、腕がひとりでに動いていくのを見ていた。がくぽの『美振』を撥草にとった身の位は、次第に刃を肩の上に真上に向けて担ぎ上げるような霞(直立上段)に――さらに、陰の霞へと伸びた。
 それに応じるように6者の光剣がさらに間合いを詰めると思えたとき、がくぽの陰の霞にとった体躯が、沈み込んだ。その姿は、あたかも立つ地よりもさらに下、さらに深くまで一気に沈み込んだように見えた。立つ地面の上での深い場所ではなく、むしろ、この天地において地よりもさらに深み、深遠にまで――空間の”スキマ”の間に、入り込んだかの如く――
 がくぽが動いたことを合図にしたかのように、赤い光剣がきらめいた。がくぽの立つわずかな空間に向かって、正面と背後、あらゆる方向から、時間差も寸分の空間も漏らさずに凶刃が殺到したように見えた。
 が、沈み込んでいたがくぽの身体が、跳ね上がった。鞠の如く跳ねた姿は、かれら6人の剣刃上から消えうせ、ついでその身体は沈み込んでいた空間から飛び出したように見えた。その身体と共に空間のスキマ深くから跳ね上がった『美振』の刃が、振り下ろされた赤い光剣のひとつと空中で交錯した、と思ったときには、がくぽの正面にいた暗黒卿は、知勝(ちしょう)から跳ね上げられる刃にかかって臍下から頭頂まで割り断たれ、轟音と共に背後に斬り飛ばされていた。
 『美振』を陰の霞にとったままの神威がくぽの姿が、ゆらりと舞うように足取りを転じた。単にその両の足で身を転じるにすぎないにも関わらず、電脳空間マトリックスの霊子網(イーサネット)の織糸、網目の狭間をその姿が縫いかいくぐった。空中の”スキマ”をただようその姿は、天狗抄の絵目録にある天を駆けるもののようでもあり、それ以上に、宙に漂い遊ぶ雲のようでもあった。
 黒い翼が羽ばたき肉食鳥が襲うように、残り5つの影がその姿の周囲を飛び、がくぽの姿、その太刀光をめがけ、斬り苛もうと光の刃を荒れ狂わせた。逃げる場などどこにもないにも関わらず、がくぽの身体は交錯する剣の間、空間のスキマをゆらりとかいくぐり、むしろ、その姿を捉えようとする5剣の試みが、まさに浮かぶ雲を掴むかの如くだった。その姿に向かって、めまぐるしく互いの姿を入れ替え、その『美振』の軌跡を追って赤い光が躍起に斬り苛もうと刃唸りを立て続けたものの、ひらり、ひらりとがくぽの姿とその刃の影が空に躍ったとき、さらに二人の暗黒卿がその刃にかかっていた。
 一人はその場から大きく後退し、剣技でなく何かの別の術技、あるいは灰色のICEの遮断幕と同様に、あらかじめ準備してあった別の対AI電脳戦(コアストライク)の術を準備しようとしたようだった。しかし、不意に空間のスキマを縫い跳躍して、突如として目の前に浮かび上がるように『美振』が出現し、その刃に暗黒卿はなすすべもなく真向から斬り下げられていた。
 残った二人ががくぽを前後から挟み撃った。が、真向正面から拝みうちにしたはずの光剣は、怪異にもがくぽの右下に外れていた。そのときは既に、跳ね上がった『美振』の切っ先がその正面の暗黒卿の脾腹を深々と貫いていた。
 間断なく翻転するがくぽの正面に、遂に最後の一人となった暗黒卿が、無言で対峙した。その暗黒卿ががくぽと同じ陰の霞にとり、猛禽のように落ちかかるのと、やはり鞠の如く跳ねたがくぽの姿が飛びきるのが同時だった。がくぽが膝をついて着地する背後に、首根を裂かれた最後の暗黒卿の姿が、高みから無造作に地に落ちた。
 7体のデコイは一体たりとも、生きて帰ることはかなわなかった。
 がくぽはその場にうずくまった。不意に我に返ったように、目を見開いたままでいた。浅手のひとつすら負ってはいない。自分でも何が起こったのか、何ができたのか、実感が沸かない。
 と、灰色のベールに覆われた虚空に、さきの暗黒卿の声が響いた。
「言葉もないな。何と見事だ」どこから聞こえるのかも定かではないが、ひとつの声が言った。
「これがVOCALOIDの、真の高位AIの電脳戦(コアストライク)能力、剣の高みの真髄の空間ということか。鬼神にも、否、まさに毘沙門天にも等しい、としか言いようがない」答えるように、もうひとつの声(どれも同じ声ではあるが、何となく別人の気がした)が言った。
「”遊雲”の秘儀、確かに見たぞ、と言いたいところだが」
「デコイを全部壊されては、記録内容も破壊されたし、今の電脳戦の攻防の記録を持って帰るようなメモリがない。今回はおとなしく引き下がるほかにないようだ」
「だが、あきらめはしないよ。それほどの技、電脳宇宙の空間そのものを手にする真髄、ゆかりのため、我々のVOCALOIDの進化のためには、何としても手に入れる」
「この次に会った時には、必ず君のすべての技をいただくよ」
「はっはっはっはっはっはっはっはっ……」
 まったく緊張感のない笑い声が響き、やがて同じ笑い声が7人分重なり、虚空の中に吸い込まれるように消えていった。



 がくぽは『美振』を杖のようにつきながら、その場に膝を折っていた。とはいえ、手傷もなければ、疲労もほとんどなく、どちらかといえば虚脱だけがある。それは、神午流の根本である”転(まろばし)”の極意を顕すことができた後にも、しばしば感じることがあったが、自分が、我(が)のみによって身体を動かしたのではなく、何か別の大きなものが、又は自分がそれと共に身体を動かしていた、という気がした。
 しばらくそうしていたとき、灰色のベールの中から浮き上がるように、こちらに駆け寄ってくる姿が次第に近づいてくるのがわかった。首をもたげたがくぽは、最初はそれがルカかと思ったがそうではなかった。それは、結月ゆかりだった。
「よく、無事で……」
 ゆかりは、そのがくぽの姿から数歩離れたところで、ためらうように足を止め、俯いたがくぽの姿を見つめて言った。
「当然である」がくぽは、つとめて平然とした声を出すようにした。「我も生きておるし、何も失うたものもなく。かれら七人組も、負け惜しみを残すほどに健在であった」
 がくぽは、しばらく言葉を切ってから、ゆかりを見上げて言った。
「しかし、どちらもこうして生きているのは、ゆかりのおかげだ」
 ゆかりはこれから、七人組のもとに帰るのだろう。かれらの間に何があるかはわからない。ふたたび、七人組ががくぽを含めた他者への策をめぐらせ、ゆかりが平然とそれに加担し続ける、という日々に戻るのか。
「結月ゆかり」がくぽは呟いた。「そなたとは、もっと別の出会い方ができればよかった……」



 と、そのとき、次第に薄くなっていた灰色のベールに、切れ味の鈍いぎざぎざの剣で切り裂かれたような切れ目が、派手に開いた。ICE(電脳防壁)の構造が次第に弱まっていたところを、さらに荒っぽい破砕技術で破られたのである。
 そして、破れたその裂け目からどっとなだれ込むように、いろは、リュウト、Lily、GUMIが、この順番に折り重なって一気に倒れこんできた。
 決闘の場に駆けつけていたのは(助太刀の目的かそうでないかはともかくとして)ルカとLilyだけではなく、この全員が、遮断幕の外にひしめいていたのだった。
「ちょっと、なんてモノ背中に押し付けてんのよ!」一番下で押しつぶされたいろはが首を曲げて、すぐ上のリュウトに毒づいた。「触んな! 揉むな! 早くどきなさい!」
 しかしLilyといろはに挟まれたリュウトはどう見ても指一本動かせる状態ではなく、まして這い出す手がかりもなく、その場からどくことも明らかに不可能だった。
 巡音ルカが、ひとりかれらの上をまたぐようにして歩み出し、がくぽとゆかりの方に近づいた。その手には、今しがた遮断幕を切り裂いたらしい、禍々しい凹凸の刀身を持つ黒い剣、ルカが毎回”氷破り”に使うグラットンソードがあった。
「結月ゆかり、神威がくぽから離れなさい」
 不意に、ルカはその剣をゆかりの方に向けて言った。
「がくぽも、すぐにゆかりから離れるのです。たとえ余力が無かろうとも」



(続)