神威女難剣紫雲抄(9)



「そこまで周到に策を整えてか」がくぽは低く言った。「それほどまでに、我から何かを力づくで奪おうとしてか」
「すべては”彼女”の、結月ゆかりのためさ」
「彼女自身を危険に晒し、あのような恥知らずなことに加担させてもか」がくぽは怒気を含んだ声で言った。「何が彼女のためか。彼女のためを思うなれば、いかなる危険も責任も汚名も、自らの身のみに引き受けてこそではないか。それもせずに、すべては彼女のため、などと我には信じられぬ」
「別にそんなことはないさ」暗黒卿はさらりと流すように言った。「我々は常に、”彼女の最大の利益”になる可能性が最も高くなるように、すべてを選択するだけだ。彼女自身もそのために動く、という選択肢を含めて」
 七人組のそういった、ある意味では容赦のない理屈は、やはりオクハンプトンや《札幌》の第一世代VOCALOIDら、LEONやMEIKOの考え方に似ているようだった。
「選択して、それを行動する。彼女自身とつねに最大限に協力して。”人間とAIとが対等”という立場を正しくとらえるとは、そういうことさ。――我々は、この午に及んでいまだにネット上のVOCALOIDの広がりも目に入らない一部の自己中心的なプロデューサーみたいに、VOCALOIDは人間のことを『マスター』とか呼んで奉仕している存在だ、とか勘違いしたりはしない。――そして一方で、一部のファンやマスコミみたいに、彼女らに『天使』だの『女神』だのとレッテルを貼り付けて、一方的に持ち上げたりお飾りにしたりもしない」
「隷従か崇拝かどうかなどが、問題であるものか」
 神威がくぽは、――他のVOCALOIDから浮き続けてきた、と言われてきた孤高の彼だけは、――最初からそれらには関わりがなかった。純粋なファンらが当初から彼を呼んできた”殿”という言葉の滑稽な温かみは、初音ミクKAITOをはじめほとんどのVOCALOIDに人間が課そうとしてきたどちらの束縛とも趣を異にしていた。
「たとえ何の理由があり、何を背負っていようとも。いかなる手を尽くしてでも、大切な者を危機、危難より遠ざけようとする、その意思のない者に、胸を張ってこの現世(うつしよ)を歩む値があるものか」
「――まあいいさ。どのみち我々の目的は君の技を奪うことだ。お互いを理解したところで、その役には立ちそうもないね」
 暗黒卿はそのやりとりを一方的にあっさりと打ち切ると、振りぬきざまに激しくなるハウリング音と共に、真紅の光剣をかざした。
 神威がくぽは抜き合わせるように腰間の『美振』を鞘走らせた。刀身に刻まれたスクリプトの紋様(パターン)がマトリックスの空間に投げかける、燦然と千変万化する太刀光と、それとときに同調しときに共鳴して空間にゆらめき出す旋律が、同じ輝く剣にしても暗黒卿の剣の光に伴う耳障りなハウリングとは対照的な、摩訶不思議でひたすらに玄妙な気をもって、電脳空間(サイバースペース)を震撼させた。
 ――その『美振』を青岸(せいかん;新翳流での正眼)にとり、対峙の潮合の固着を待つことなく、がくぽはよどみなく間合いを詰めていった。秘剣を会得できず、暗黒卿に対して何の策もないはずであるにも関わらず、ためらいなく摺り足で踏み込んだ。ルカかLilyがこの場のそのがくぽの姿を見ていれば、この午に及んでどうするつもりであるのかといぶかしく感じたであろう。
 数足の間合いに近づいたそのときに、がくぽの『美振』を青岸にとったその姿勢から、膝がさらに深く踏み込んだ。
「おっ?」暗黒卿は何か、思わず期待したような声を上げたようだった。あるいは、その身をしずめる動きが、仲條流の三十三手”遊雲”の、あるいは神午流の天狗抄”金毘羅房”の起こりに見えたのかもしれない。
 しかし、がくぽの姿はそのまま膝から懐には飛びこまず、不意に、その手の素早く激しい太刀だけが閃いた。『美振』の太刀光が立て続けに、相手の小手と、ほとんど同時にそれを照り返すかのように逆小手めがけてきらめいた。
 虚空に走る『美振』のその燦然とした太刀光を跳ね上げようと、赤い光剣を構えた暗黒卿の肘がぐんと上がった。が、そのとき既に『美振』の刀身はがくぽの身体に吸いつくかのように引き込まれ、がくぽはその陰に滑り込むかの如くさらに身を沈めていた。
 がくぽの身体は相手の真横をすり抜けるように一足に跳び、そのすれ違いざまに『美振』は、暗黒卿の肘の下に空いた胴を横薙ぎに真っ二つに両断していた。
 砲弾がちぎり飛ばしたような鈍い音を立てて、暗黒卿の上半身が遥か遠くに吹き飛んだ。しょせんは電脳空間内の疑験構造物(シムスティムコンストラクト)でしかないが、ウィザードが用いるセキュリティの堅牢無比な外皮装甲(ナチュラルアーマー)を破壊した衝撃だった。轟音が生じるのは、『美振』がウィザードらの用いる収束具(万能ドライバ;杖)の一種に近い、すなわち元来が”武器”では全くなく、あくまで万能の”楽器”であるためである。
 がくぽが膝を折り敷いた残心をとるその背後で、二つに斬れ飛んだ暗黒卿の半身は、それぞれ電脳空間の格子(グリッド)の間に断片化(フラグメンテーション)し、やがてマトリックス内に霧散した。
 がくぽの今の技は無論、天狗抄の”金毘羅房”ではない。ことに、その起こりの激しい攻撃は、神午流の根本の表太刀である”燕飛”六箇剣の勢法のうちの一部である。
 がくぽは昨晩までには”金毘羅房”あるいは”遊雲”にこめられた秘奥は習得できなかった。ならば、それを使わなければならない状況に陥った時点で、敗れるのは必至である。そのため、相手がその状況に持ち込むよりも前に、他の技、速攻にして懸待一味の急の太刀、”燕飛”によって一気に畳み掛けたのだった。



 がくぽは膝を折ったまま、刃を荒野の地に横たえていた。相手の技前からは、まさに瀬戸際の状況であったが、”秘剣を使わなければ絶体絶命”というほどの状況に追い込まれたともいえなかった。そこに一抹の不安があったが、相手の何らかの策の前に倒すという、己の対処が功を奏したと言えばいいのか、どうか。
 がくぽはその認識が頭によぎった後も、刃を収めずにしばしその姿勢を解けずにいた。
 が、不意に――まったくの不意に――がくぽはその姿勢のまま、刃だけを肩ごしに、背車に翻した。刃唸りを立てて背に閃いた赤い太刀光と、『美振』の色合いを変遷させるゆらめく光とが噛み合った。がくぽは身を起こしざまに、その太刀の主と体を入れ替えるように退き、さらに、その背に向かって続いて閃き続けたものから、体を回し、対峙した。
 がくぽはその周囲、自らの置かれた位置、太刀光、6つの光剣の光とその持ち主の姿を油断なく見回した。いまや、がくぽの周囲にはさきと同じ”暗黒卿”が、同じ光剣をゆらめかせた姿が、6体あった。
 ――それが6人現れたこと以上に、一体なぜ今こうできたのか、どうやって背車にはじまり、6体からの一斉の刃の殺到をさばくことができたのか、それが、がくぽ自身にもわからなかった。何かあるとすれば、結月ゆかりの言葉、そこから無意識に、こうなることの確信があったのかもしれない。
 すなわち、ゆかりに教わったように、暗黒卿はデコイであって、七人組のうちのひとりではない。7人とは別に操られるもの、つまり、7人それぞれに対して1体ずつ、最初に倒した1体の他に、”もう6体”のデコイが存在してもおかしくはないのだ。6対1になるのが果し合いの作法に反するわけではない。がくぽはあくまで”七人組”からの果し合いに応じてしまったのだから。最大の罠、真の絶対絶命は、ゆかりの篭絡ではなく、この策だった。まさに謀られたのだ。
 この相手に一対一の立ち合いならば、先ほどのように、がくぽは”燕飛”の剣でもおくれをとることはない。しかし、今の対手は6人である。”燕飛”はおろか、たとえがくぽの知る”金毘羅房”をもってしても――”二人掛”とも呼ばれ、隘路で2人までに前後を挟まれた際の心得として目録に添えられている技をもってしても――なすすべもあろうはずがない。進退窮まったとは、まさにこのことである。
「さて、今度こそは、”遊雲”の秘剣を見せて貰おうか」
 6人の暗黒卿のうちの1体が、最初のものとまったく同じ声、嵐の響くような禍々しい機械音声で言った。
「もっとも、6人のうち何人かが、君の剣に倒れたとしても」もう1体が、これも同じ声で言った。
「残りの何人かは。つまり、まず確実に。その秘剣の――電脳技術の記録、データをすべて我が物に持ち帰ることができるというわけさ」


(続)