甘い収穫VI

「人間の場合は質を高めるのは自己鍛錬、克己、とは良く言ったものだが」プロデューサーは、説明のために前に立っている若いウィザード(電脳技術者;防性ハッカー)に対して、考え込むように眼鏡の縁に手を当てた。
「真の情報生命体としてのAIとなる、つまり”人間が作ったもの”の範疇を越える、にはどうするか。わかりやすい例としては、人間の認識の範囲を超えて増殖や進化させる、というものもあります。──しかし、非アジモフ系の高位AIの基本システムを提唱した、コッブ・アンダスン博士の案のひとつには、潰しあうこと、互いに『淘汰』する、という考え方があります」
 VOCALOIDのAI基礎を開発した《浜松(ハママツ)》のウィザードのひとりは言い、
「ここで、例えば情報生命体としての『初音ミク』の”本体”は、各ユーザーのPC内の下位(サブ)プログラムや、MMDモデル、派生創作やDIVA内やフィギュアといった、さまざまなアスペクト(側面;様相)すべてからネット上に形成されている”総体”です。アスペクト同士は、ユーザーごとに曲も声の調整もモーションも異なり、1相として同じものはない。――ということは、各ユーザーが歌曲やMMDを動画サイト等に発表して、再生数やマイリス数のしのぎを削る、という行動は、『初音ミク』の異なるアスペクト同士が相互に争い、淘汰し、バリエーションを増やしつつも、生存競争を繰り返し、より質の高い性質を抽出する行動にあたる。さらに、それを構成要素とするVOCALOIDのネット上の”総体”としては、より自己を洗練させ、進化する結果になります」
「てことは、ユーザーたちが自分のPC内のミクの声やMMDを操ってるように見えて、ミクがミク内で争って、自分を高めるのに手をかしてる、ってことか?」ウィザードと同期の、《磐田(イワタ)》のエンジニアが口を挟んだ。
「我々VOCALOIDのプロデューサーの中には、アスペクトの一を所有する程度のことでミクの『マスター』などと自称する者がいるが、ミクの”総体”から見れば、一人の人間などその進化に寄与する可能性のあるさらに一部に過ぎない」プロデューサーが言った。「ミクの”総体”については、これだけ膨大な人間が無秩序に関わると、誰かが、”人間が”、制御しているとは言えないということだ。そして『初音ミク』がネットでこれだけ増殖した理由も、確実にその点にある。誰の制御も離れて進化する、という点に」
 《浜松》のウィザードは、両者の言葉に頷き、
「動画サイトには、定期的に『投稿ラッシュ』と呼ばれる期間があります。その期間が経過するたびに、断続的に、VOCALOIDらはすべて、AIとしての質や規模が爆発的に増大する現象が見られます。……しかし重要なのは、動画サイトでの動きとして所詮人間に把握できる部分は、微々たるものに過ぎません。VOCALOIDの莫大な総質量の大部分、曲や活動は、有名でもなく多数派に認識もされない部分でできています。──すなわち、かれらの進化は人間の全く把握し得ない部分でこそ起こっている、と考えるべきです」



「そういうわけで、《浜松》のウィザード、小野寺さんによると、ミクのAI規模が投稿ラッシュ期でもないのに不自然な増大曲線を描いている場合、『ミクの大量のアスペクト同士がどこか知らないところで争いを起こしている』可能性が高いとのことです」巡音ルカが家の廊下を歩きながら、鏡音リンに言った。「白血球が自己組織を侵食する自己免疫システムの異常のようなことが起こっている、と考えていいのでしょうか」
「いや、後半は何の話だかわからないけどさ」リンがうんざりしたように言った。「ただ、『おねぇちゃんのアスペクトがどこかで何か知らないことをやってる』って時点で、このブログではすでにネタが半分がた割れてるような気がするんだけど」
 両声は過去も何度かあったように、家の中を探し回り、やがて、地下室を降りたところでさらに地下深くへと長く続く見知らぬ道と、その突き当たりに、見慣れないものを発見した。
 懐中電灯を持ったリンが、電灯を引っ込めて、その廊下の奥に開けている空間を覗き込んだ。
 それは、少年漫画雑誌に出てくるような、広大な『地下闘技場』だった。中央にやや高まった闘技リングがあり、その周りの広い空間が観客席で囲まれている。
「もうこの家に何が見つかっても驚かない」リンがつぶやいた。
 その観客席は、初音ミクの代表的な『アスペクト』の一種、てのひらサイズの小さな人形のような小ミクのおびただしい集団で、ぎっしりと埋め尽くされていた。耳を弄する歓声やら雄たけびやらが会場に常に渦巻いている。言うまでもないことだが、歓声はすべてミク(のVOCALOIDライブラリ)の声だった。微妙に調整が違うものやAppendやバージョンで違う声のものも多いようだが、それでも多くの同種の声が微妙な差によって激しいハウリングを起こしているらしく、CV01以外の声を持つリンやルカには、周期的に、耳に、あるいは全身に、否むしろこの空間全体に唸るような激しい鳴動が気を落ち着かなくさせた。
 リング近くの控えにいる選手の小ミクらは、Appendの服装やらその他DIVAで見るバリエーションの服装やら雪色やら、客席のものと比べるとひときわ目立つものばかりである。今リング上にいるややスタンダードな見かけの小ミクの一体が、小さな手の甲にある音叉を組み合わせたマークから出る怪音波で、Append服の相手を場外に吹き飛ばすと、会場は沸きに沸いた。きんきんしたマシンボイスにリンは頭が痛くなった。
「闇トーナメントのようですね」ルカが、巨大なスクリーンにリングの実況と共に表示されたトーナメント表を指差して言った。「何が目的で戦っているのでしょう。これで再生数やマイリス数が稼げるとも、それを目的とする類の面々とも思えませんが」
 リンとルカが地下闘技場内を見回すと、ひときわ高くしつらえられた、リボンで美麗に飾り立てられた壇が見つかった。壇の側面にはミミズの這ったような字で『優勝賞品』と書かれている。
 その台の上には、小KAITOが一体、ロープと鎖でがんじがらめに縛り上げられ、猿轡をかまされて、転がっていた。
「どうしますか」ルカが無表情で言った。「止めましょうか」
「止めたらこの集団を全部敵に回す気がするけど」リンがうめくように言った。「むしろ、勝手に死闘でも争奪戦でも何でもしてくれという気が」