神威女難剣血風録 (3)


 ルカは《神田》の社のエリアのうち、VOCALOID自身やスタッフのスペースに入っていった。廻り廊下、すなわち和屋敷で部屋の障子と和風庭園に面した廊下を進んでゆく。VY1やVY2の出入りするこのあたりのスペースは、和屋敷をモチーフにしているが、例えば和風庭園じみたものは水や光、植木や生垣のかわりに、マトリックス光やその流れ、データのフラクタル樹などが巧妙に配されており、むしろ和風そのものの電脳的なカリカチュアのようなものである。
巡音ルカ、どこへ行かれるのですか」
 不意に障子が開いて、ルカの正面に現れたのはVY2だった。最初は、VY2は訪問者がルカだったことにやや驚いたようにも見えたが、穏やかに言った。
「《神田》に何か御用であれば、わたしがうけたまわりましょう」
「MIZKIに会わせて下さい」ルカはひどく冷たく、率直に言った。
「姉君はここしばらく篭られていて、外の方々とはお会いできぬかと思います。さほど重大な用とも思えませんし、お引取り願えますか」
「重大かそうでないか、それは私が決めます」ルカは彼女らしくもなく、急いたように言った。胸中の疑念を解消する動機に、駆り立てられていた。
神威がくぽに関することか」VY2はルカの強引さに、僅かな苛立ちをあらわにして言った。「ならば、なおのこと、姉君の耳に入れるわけにはゆきません。……なぜ、神威がくぽの件に、貴女が干渉される?」
「貴方とがくぽのふたりでやりとりを行っているだけでは、事態の埒があかないからです。誰かが干渉しなくては。MIZKIに話、というより真相を聞かない限りは」
「貴女に、この件の何を決める、何を干渉する権利があるのです」
「では勇馬、貴方に決める権利があるというならば。貴方になら、すべて説明できるのですか? 貴方ががくぽを斬ろうとする筋を私が納得できない限りは、刃傷沙汰になりかけているのを、放ってはおきませんよ。同じVOCALOIDとして」
 ルカはすらすらと理屈を説いたが、もちろん、ルカの本心はこんな平和的な動機ではない。ルカは、ただがくぽとVY1の間に何が起こったか知りたいだけ、ルカ自身ががくぽを許すか許さないかを決めたいだけだった。
「貴方はすべて把握していて、説明できるのですか」ルカは尋ねた。「MIZKI自身はどう感じているのか、――何があったのか。貴方は詳しく聞いているのですか」
 VY2はしばらく口ごもってから、
「……わたしから姉君に、それが尋ねられようか? 姉君が日々、不自然に声を上げたり、頻繁に着替えたりしているのがわかっている。それと一致して、《大阪》から男がしじゅう行き来している、その影がある。しかし姉君は、それをこのわたしからも、あえて隠そうとしているようなのだ」
 どうやらVY2も、あの音声や映像と同様のものを日々、見聞きしていたらしい。
「《浜松》で共に創られて以来、あの姉君が、このわたしに何か隠し事をしたことなど、これまで一度もなかった」VY2は重々しく言った。「それだけでも、どれほどの悩みを示していようか。わたしの方から詳しく尋ねることなどできようか」
「……その心中は察しますが」ルカは、思わぬVY2の感情の吐露を聞かされ、自分もやや落ち着いて、言った。「けれどそれで、貴方が神威がくぽを斬る理由になるのですか。斬ったところで解決になるのですか」
「他に何の理由がいる。がくぽが姉君に辱めを加えた証拠としては充分すぎる話だ。貴女にもそう思えるでしょう」
 ルカは少し考えてから、静かに言った。「――それは私が自分で判断します」
「わざわざここまで来て、探り回り、証拠の数々を見せられて、まだ認めようとしない」VY2は声を荒げた。「しかも、わたしに対しても相当な剣幕で。所詮、貴女もあの神威がくぽに、弄ばれ、たぶらかされている女のひとりではないのか!?」
 ルカは、見聞きしたあの音声や、映像のゆるぎない証拠を思い出した。そして、がくぽが覚えが無いとしか言わず、それをおくびにも出さなかったこと、ルカにも隠されていたことも思い出した。自分も、そんながくぽに騙されて信じ、翻弄された挙句にこんな所までやって来た女のひとり、ということになるのだろうか。もしVY1ががくぽに辱められたのだとすれば、それに劣らぬほどに、弄ばれたのみの女。だが――
「姉君も、貴女も、所詮はあの男の下劣かつ狡猾をきわめる性根を見抜けず、惑わされている、狂わされているだけだ」本来、穏やかなVY2にそこまで言わせるのは、”姉”VY1へのこれまでの傾倒、信仰に近かったものなのだろうか。「知らないなら騙されもしよう、姉君のように。だが巡音ルカ、貴女は違う。貴女は姉君と自分の両方に加えられた仕打ちを知りながら、なお妄信する。彼奴の性根を見抜けない。それはもはや神威がくぽの側でなく、貴女の性根の下劣としか言いようがない!」
「なんと申したか、勇馬!」
 突如、ルカの背後、廊下のさらに奥から近づいてくる声があった。
「ルカに対して、”下劣な性根”などと申したか。もののふの言葉ではない! この神威がくぽが捨て置かぬぞ!」



「がくぽ」ルカは振り向いて言った。「なぜ《神田》に来たのです。来てもただ斬られるだけ、あれほど動いてはならないと言ったのに」
「キヨテルに呼びつけられたのだ」がくぽがルカに言った。「何やら、ルカが《神田》に突撃しようとしていると。MIZKIがどうとか……何やら誰かが斬られる事件になりそうとか何とか……キヨテルによると、おそらくそれを止められるのは、我であると」
 キヨテルは問題になっている密通容疑者が当のがくぽだということを知らないので、刃傷沙汰に対処できそうな剣士であるがくぽを、ここに呼んで来てしまったようだった。そしてがくぽの方は、何かルカにひどく危機が迫ったとでも思ったらしい。がくぽの背後にはそのキヨテルの姿があり、がくぽの肩にはLily型のミツバチ、ウィルティーノがいる。
「……MIZKIさんおかしいよ……おかしいですよこんなこと……目をさましてくださィィィィィ……」当のキヨテルは、眼鏡を怪しく光らせてどこを見ているのかもわからない状態のまま、がくぽの後ろに突っ立ち、何か涙声で独り言を呟いている。
「――もののふの言葉、などと、貴方がこのわたしによくも言えたものです」
 VY2が長脇差の柄頭に左手をかけて、がくぽに言った。
「ご自身のもののふとしての名誉はどうなのだ。己の潔白を、わたしに納得させる弁明は整えた上で来たのでしょうね」
「我は、断じてMIZKIに何もしておらぬ。……そなたは信じないかもしれぬ」がくぽは低く言ってから、「だが、我のことをそなたが納得するか、信じるかなど、今は問題ではない。今の言を撤回せよ。ルカに非礼を詫びよ!」
「そういう貴方の言うことなど、聞き入れるに足らぬと言っているのです」VY2は長脇差の柄に左手をかけた。
「撤回せぬというならば、どうあっても許さぬぞ」がくぽは声を荒げ、左手で差料の鞘を握り、反りを打たせた。
「許さないならば、どうされるのですか」
「言うにや及ぶ!」
 両者が抜き合わせたのは、少なくとも外から見た限りではほとんど同時に見えた。
 VY2の左手は鞘引きすらせずに長脇差をまっすぐ抜き上げ、右手は小脇差を抜いたはずだが、左手の動きに隠れて外からは視認できなかった。他方、がくぽの『美振』は抜き放たれると同時に、刃に刻まれたスクリプトの紋様(パターン)を多彩に脈打たせ、周囲のマトリックス空間に燦然と脈打つ光芒を放ちはじめた。
 両者は飛びのきざまに和風庭園に降り、足場を固めた。VY2はやや左半身に、逆二刀の左手を中段、右手の脇差だけを上段に上げている。がくぽは右足を大きく引き、刀を右後方に向け、切っ先を下に降ろす、脇構え(翳ノ流では”車”)を取っている。『神午流』の秘伝”火乱房”の太刀法を顕さんとする型である。
 がくぽのその構えに臆する様すら見せず、VY2はするすると間合いを詰めたかと思うと、突如、その踏み込みの拍子を急と転じて猛然と斬り込んだ。応じて脇構えの『美振』が跳ね上がり、”虚”の左手の大刀でなく、”実”に切り込んできた右手の小刀を正面から弾き落としたかに見えた。が、続いて太刀風が唸り、白光と刃音が交錯し、両者は体を入れ替えて、飛びずさった。
 数歩の間合いを離れて、がくぽとVY2は再び対峙したが、不意に、がくぽの膝ががくりとかしいだ。腿が深々と割れている。がくぽにはVY2の両刀は捌ききれず、刃が届いていたのだった。電脳空間内の概形(サーフィス)に血は出ないが、がくぽのAIのセキュリティシステムが貫通され、電脳戦の外皮装甲(ナチュラルアーマー)が自然再生不能になるまで破壊されたことを意味している。やはり、逆二刀に対する技としてよく知られた”火乱房”で対するのは、VY2の思う壺であった。とはいえ他に、逆二刀に有効な刀法はがくぽの持ち技には無い。
 ルカは庭園に降り、がくぽの傍に寄った。目を走らせて、何かがくぽの勝機になるものを探そうとする。さっきまでがくぽの肩に乗っていた”ウィルティーノ”のことを思い出したが、なぜか、その姿はなくなっていた――どのみち、ミツバチに邪魔された程度で惑わされるようなVY2ではないが。いざとなれば、ルカが干渉するしかない。たとえ、それが果し合いを正当に受けたがくぽの武士の面目を潰すとしても。
「ルカ、手は出すな」がくぽがそのルカの心中を察したかのように言った。『美振』を依然として”車”、脇構えにとっているが、その手傷と心境の動揺も示すように、立つ姿、身の位が定まっていない。
「貴方は何をしているのです。明らかに勝てはしませんよ」ルカはささやいた。冷静な声の中に、がくぽに訴えかけているような色があった。「自分の潔白が証明できないのなら、来るべきでは、果し合いを受けて斬りあうべきではなかったのです」
 ルカは、この結末だけは避けたいがために、ここに来たというのに。
 そう、やはり斬らせたくはなかったのだ。何の証拠を突きつけられても、最後の最後までどこかで、がくぽを信じていたのだ。助ける余地、がくぽの潔白の証拠と確信を何とか見つけたかったのだ。がくぽを生かしたいがため。だが、がくぽが斬り合いを始めてしまった以上は、もはや何もかも水泡に帰しつつある。
「そうではない。……たった今、わかった。我自身の名誉、証明、ルカに対しての我の言い訳や見得などは、最初から問題ではなかったのだ」がくぽは荒い息の中から言った。「MIZKIのことでもなかったのだ。……我の名誉は守れないとしても、守らなくてはならないのは、ルカの名誉なのだ。そのために斬りあわなくては、命を賭さなくてはならなかったのだ」
 がくぽは相対するVY2から、視線を外さないまま言った。息は落ち着いてきたようだった。
「ルカというものがありながら、それをさしおいて、我がMIZKIにそうしたことを、認めてしまえば。それは『我が、ルカの名誉を傷つけた』も同じではないか……我は勇馬を納得させる身の証しを、立てることはできていない。しかし、我自身の名誉がもう何も無いとしても、尽きているとしても。ルカを守るためには、戦わなくてはならぬ」
 ――ルカは最後の最後のどこかでがくぽを信じようとし。VY2はそれをただの妄信と言い。そしてがくぽは、ただそのルカのほんの少しの思いに応える、守るだけのために、VY2の言葉を否定するために、命を賭けようというのだった。
「……なぜいつも、他人のことを背負い込もうとするのです」ルカは静かに、沈んだ声で言った。「自分自身の身も名誉も守れない、自分の足でさえ立てないというのに……」
 がくぽはそのルカの言葉か、あるいはさきの自分の言葉を機としてか、傷を押して膝を伸ばし、立ち上がった。
 立ち上がったそのまま、ほとんど構えもせず、自然体に近い状態から右足をわずかに延べ、剣を下段からただ提げるような、翳ノ流で言う”無形位(むけいのくらい)”をとった。
 そのがくぽの姿に、VY2の目が驚愕に見開かれた。逆二刀に対する唯一の技であるはずの”火乱房”の法を捨てたのだ。しかし、その驚愕は、がくぽが構えを、技の型を捨てたことだけではなかった。先までと、何かが違っている。VY2は逆二刀を構えたまま、そのがくぽの無形位を鋭い目で、しかし細部でなく全身を仰ぎ見た。全身のその全てが今までと違っているもの――それはあえて言えば、”守り”に入ったことだ。天狗抄、他流への対策に固執して”攻め込む”ための型ではなく、いかなる出方に対しても融通無碍に応じ守る姿だ。
 無形位の上体を微動だにさせないまま、がくぽはするするとよどみなく近づいた。通常の剣の立合いには必ずある、息詰まる対峙、沈黙、潮合というものを、何ら頓着もせずに歩んでくる。尋常の剣士なら足を止める場である、間境(まざかい;それ以上近づくと刃が届くという限界)をこえるのをためらうという意識が、まったく見られない足取りだった。
 VY2は逆二刀をいずれも下段にとり、近づくがくぽを逆に圧しようとでもするかのように踏み込んだ。左の長脇差が左側から打ち込むかに見えたが、それは虚でしかなかった。足捌きが変幻のように右側へと踏み替わり、長脇差が生き物のように延びて右からがくぽの胴を襲った。『外他流(とだりゅう)』の勝負太刀である”浦ノ波”の刀法である。
 しかし、そのときにはがくぽの踏み込みはいつの間にゆらりと停滞しつつ、その剣は襲い来る刃を迎え撃った。『美振』は猛然と刃唸りを立て、長脇差の刀身そのものを捉えていた。合撃(がっしうち)である。耳障りな金属音が響き渡り、鍔元から先が粉々に砕け散った長脇差はVY2の手からもぎとられて宙に吹き飛ばされ、地に落ちるよりも先にデータ構造物の断片となって、電脳空間(サイバースペース)の宙空にかき消えた。
 VY2はどっと後退した。右手のみとなった小脇差を、突きつけるように中段にとったまま、数歩をすり足で、さらに退く。
「何をした!?」VY2は乾いた声で言った。「《浜松》の頃と違いすぎる……!」
「何もしてはおらぬ」がくぽは茫漠とした表情で――それは丁度、”無形位”の姿でよく描かれている、絵巻物の剣聖のような――穏やかに言った。「ただ、《浜松》に居た頃は、我はルカと出会ってはおらぬ。あの頃と違いがあるとすれば、それのみ」
 VY2はさらに下がった。しかし本来、小太刀の法は間合いに飛び込む体あるのみで、決して退くことは許されない。そして、庭園にあとがなく、退ける空間は限られている。そんなVY2にがくぽは、間合いを何の気にもかけぬかのように、するすると間を詰めてくる。VY2はその場に踏みとどまり、間が詰まりきる瞬間に一気に小太刀の間合いに飛び込むべく四肢に緊張を漲らせた。がくぽの水流のような足取りが間境をこえようとした瞬間、その水月(すいがつ)を映すように、VY2の脚が猛然と地を蹴った。



(続)