神威女難剣血風録 (4)


 と、不意に、両者の視界に、風を切る唸りさえ立てて、何かが閃き入った。
 がくぽとVY2は、弾かれたようにどっと一気に飛び退いた。飛来したそれは、音を立てて庭の立ち木に突き立った。がくぽとVY2は飛び離れたそのままで、深々と刺さっているそれを凝視した。簪(かんざし)だった。
「姉君……!」
 VY2がうめくように言った。
「おやめなさい、勇馬」
 廻り廊下に面した障子がすでに開いており、その内側の座敷に、VY1の姿があった。間近で見るその楚々としつつも凛々しい姿に、氷山キヨテルがおおと嘆息した。
 ルカは木に刺さった、すなわちVY1ががくぽとVY2を遮るように投じた簪を見つめた。今、がくぽとVY2の中間にそれが飛来したとき、両者は同時に飛び離れた。それは、飛来したものに気をとられること、それに乗じて打ち込まれること、ひいては打ち込んだ隙に乗り入れて斬り込まれることを警戒して、咄嗟に飛び離れたのである。もしどちらかがそうせず、同時に刃を振り下ろす斬り合いになれば、必ずどちらか片方が斬られていた。いや、おそらくは、十中八九は相討ちである。……両者とも、剣技がわずかにでも劣っていれば、その隙と生じる結果を見切り予想することができず、斬り込んでいたに違いない。少し前のがくぽなら、そして長脇差を失う前のVY2なら、必ずそうして自滅していただろう。つまりVY1は、両者のその剣技を十二分に見切った上で、それを投げて両者を止めたに他ならない。
「勇馬、剣をお引きなさい。余人はともかく、あなたと神威がくぽが斬り合ってはなりません」VY1が、普段の活動では滅多にない厳しい声色で、VY2に言った。
「しかし、この神威がくぽは、姉君の……」VY2が重苦しく言った。
「事情は存じませんけど、何の理由があろうとも、歌い手である勇馬がその剣技を芸の道の他に用いては……きゃああっ!」
 と、落ち着いた語りだったVY1の言葉の末尾が、突如として、少女のような悲鳴(初音ミクやmikiとたいして変わらないもの)になった。



「どーーん!」
 何者かがそう叫びながら、VY1の背後、その腰に抱きついていた。
「むにゅっ!」VY1の太股、素足に、小さな親指の腹が押し付けられた。「よほ〜〜っぴた〜〜っと吸いつくぜ〜このあんよ!」
 まるでどこかの無精髭のオヤジでも発するような台詞だが、それは甲高い少年声だった。VY1の背後から、腰から足にかけて手を回しつつ、てのひらをVY1の素足の部分に這わせていた。その手つきもとてもいたいけな少年とは思えない、あたかも脂ぎったオヤジめいたものだった。
「うほほ〜〜っひんやり素足きんもちい〜〜っ!!」
リュウト、駄目です! 言ったでしょう、脚は駄目ですってば……ああっ」VY1が顔を赤らめた。
「何……」
 がくぽは思わず息をつめてしまってから、叫んだ。
リュウトだと〜〜!!」
 がくぽ、ルカ、VY2及びキヨテルは、その緑色の少年、下手をすると歌愛ユキ猫村いろはよりも幼い姿――VOCALOID”VA−GP01”リュウトが、オヤジめいた声と手つきと共にVY1の下半身にすがりついているのを呆然と見つめた。
「また前にお茶をこぼしたときみたいに……もう、着替えなくてはならないし、この間こぼしたところは、まだ跡になっているんですから」VY1は、短い着物の裾をほんのわずかに持ち上げた(キヨテルが息を飲んだ)。すぐ近くで見れば、その太股の素肌の小さな赤い跡は、キスマークなどではなく、軽い火傷の跡だと一目でわかった。
「――では真相は、がくぽではなく、全部リュウトだった、ということですか」
 ルカが無表情で言った。
「あの隣の部屋からでも声が拾われていた悲鳴の声の相手、MIZKIがここで日々密会を重ねていた《大阪》所属の男声VOCALOIDとは、がくぽ達の末の”弟”だったのですか」
「あ、あの……前に、《大阪》の地下で一緒に迷子になったことがあってから、仲がよくなってしまいまして……しじゅう遊びに来ると、断れなくて」VY1は頬を赤らめたまま、片手を唇に当て、「でも、《大阪》の人達にも怒られますから、あまりひと目につかないよう……それで私も、その間はできるだけ外に出ないように……」
「何難しい話してんの〜?」リュウトは、首だけを傾けてVY1を見上げた。「どうせ誰も、MIZKIに向かって怒ったりなんかしないんだからさ。あんなひとたちなんかさ、別に放っといていいよ」
「もう、あなたがここに来てばかりで大変だって話で……あっ、駄目ですっ!!」
 リュウトの手はVY1の太股から腰廻り、さらに上がって、裾の中の方まで指を沿わせていた。
「おのれ、いいかげんにせぬか!」VY2がさきから抜き身で提げたままの小脇差を手に、リュウトに叫んだ。「下郎が、その手を離せ!」
「おやめなさい、勇馬」VY1は困ったように、VY2に言った。「そんなに声を荒げなくても……ただの、子供がふざけてやることではありませんか」
 VY1はリュウトの頭をなでた。リュウトはVY1の腰に抱きつきつつ、向かい側の庭の面々に向かって、あざ笑うように例の前歯をむきだしてみせた。
 その向かいの庭の面々は、その有様の一部始終を見つめて、しばらくの間無言で立っていたが――やがてかれら、がくぽ、ルカ、VY2及びキヨテルの胸中には、四者四様それぞれの形ではあるが、どれも負けず劣らずの強さにおいて、ふつふつとやるせない怒りがわきあがってきた。



 と、そのリュウトの背後に、何か小さな姿が見えた。リュウトの背中近くに滞空しているのは、Lilyをカリカチュアしたミツバチのような生き物――Lilyの”分身”、下部端末、”ウイルティーノ”である。先ほど、がくぽの肩に乗って一緒にやってきていた物だった。
 それが、手に持った槍を、VY1に上体だけよりかかってしがみついているリュウトの、その突き出した尻めがけて狙いをつけているところだった。槍というよりは、人間スケールで言えば注射針、それも馬に使うような極太のもの、尖端がぬらぬらと粘液に黒光りする太くたくましい剛棒が、リュウトの半ズボンごしの尻を今にも貫かんとしていた。思わず向かいのがくぽ達が声を発する、その時間さえもなかった。
 ぶすり♂。
「アッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 リュウトは顔面を床板にめりこむほどに叩きつけて、うつぶせに倒れこんだ。くの字に倒れ突き出したリュウトの尻は、見る間に、それこそミツバチの腹のように腫れ上がってきた。
「あ〜〜〜〜〜〜すっきりした」
 即座に背後の障子が開いて、Lily(の本体)が、奥の部屋から現れた。今のミツバチ、”ウィルティーノ”を呼び戻して、肩に乗せた。
「ったく、ここしばらくサボりまくって、どこを遊び歩いてるんだと思ったら」GUMIがそのうしろから続いて現れ、くの字にうつ伏せになってぴくりとも動かないリュウトに近づき、その襟首を掴んだ。「帰ってLilyとみっちりおしおきだねこりゃ」
 GUMIは、呆然とそれらの光景を見つめているVY1の方に向き直ると、その目の前に人差し指を立てて言った。「MIZKIも甘やかしてちゃ駄目じゃない。サボってるのを、こっちじゃずっと探してたんだから。MIZKIの性格上、こういう図々しいのを断れないのはわかるけど、お互いの仕事に差しさわりが出るまで許してるようじゃ困るよ」
「え、ええと……」VY1は口ごもった。
「それにだいたい、VCLD一族の男どもってすぐに調子に乗るんだから、甘やかしてたら、あとでどういう災厄になるかわかんないよ」GUMIは肩をすくめた。
 GUMIは、のびている”弟”の襟首をひっつかんでぶら下げたまま、Lilyと共にすたすたと、ふたたび障子の奥の部屋の方に戻っていった。帰り際に、GUMIは障子の前で、皆に片手を上げてみせた。
「それじゃ、ずいぶんご迷惑おかけしましたーー!!」
 ぱたりと障子が閉まっても、がくぽ、ルカ、VY1、VY2及びキヨテルは、一切の言葉を失ったまま、長い間、その場に立ち続けていた。



 リュウトをGUMIとLilyがしばき倒し、さぼっていた仕事とVY1に与えた仕事の停滞の分も落とし前をつけさせ、さらに、キヨテルがなぜか「徹底的に教育し直してやる」とわめくのに誰ひとり異論を挟まず、《上野》のユキやいろは達と共に宿題課題の日々にリュウトも編入されることになる、そういった処理には、その後しばらくの日々を要した。
 そういった処理が終わりに近づき、GUMIとLilyがまだその後始末に出かけている頃のある日、がくぽとルカは、《大阪》の電脳空間エリアの外を、小休止のためにふたりで歩いていた。VY2が壊した足軽型の防衛プログラムはまだ補充されておらず、だだっ広い荒地はどこか寂しく、殺風景だった。
 がくぽとルカはその荒地を、どちらからともなく、立ち止まった。何者かが歩いて近づいてくるのだった。
「……勇馬か」がくぽが言った。
 VY2は両者の前に止まると、神妙に一礼した。
「此度(こたび)は、面目ありません。両人とも」
「なに、そもそもすべてがリュウトのせいなのだ。むしろリュウトの”兄”として、我からもそなたらには謝っておくべきところである」がくぽはVY2に対してもまるで屈託なく、微笑んで言った。
「いえ、リュウトや姉君や、わたしの誤解のため、という以前に――わたしが理解できていれば、避けられたことがあったのです」
 VY2は目を伏せるようにして、
「此度の件が、最初から、貴方がたには何もかかわりがなかったことから、改めて考え直せば。……あなたがたふたりは、お互いの名誉を守ること、それだけを考えて動いていました。ルカはがくぽの、がくぽはルカの名誉を」
 VY2は、ルカを見た。
神威がくぽに、貴女のような方が居るならば。がくぽが、姉君は勿論、他の誰かに心を惑わされるわけがない。……そして、あれほどの証拠が出たように見えたときも、貴女は言った、あくまで自分で判断されると。あくまでがくぽの潔白を信じ、それを証明するのだと」
「それは――」ルカは言ったが、言葉が続かなかった。
「誰が見ても、貴女がたの絆は確かです。それがわたしには見えなかったのが、何よりの不徳で、今回わたしが招いた災厄の因は、そこにあります。しかし――」
 VY2はがくぽとルカを見て、
「貴方がたの持つものがあれば、どんな災厄でも乗り切れましょう。――その持つものを、何よりも大事にされるとよい」
 VY2は一礼して、去った。
 がくぽは、先日までと一転して神妙になっていたVY2の後姿を、それが見えなくなるまでの間、ただ何か不思議なもののように見つめ続けていた。
「がくぽ」しばらくして、ルカは言った。「私は、貴方に謝らなくてはならないことがあります」
「ルカが? 何か」
「正直に言いますが」ルカは目を伏せて、また少しためらってから言った。「……最初は貴方を疑っていました。勇馬の言ったように潔白を信じていたからではなく、疑っていたからこそ、動いていたにすぎませんでした。……けれど、そんな私を貴方は、勇馬の言葉から守ろうと」
「なんだ、そんなことか。……なに、全て過ぎたことだ。もうよいではないか」
 がくぽは、扇をばっと広げた。扇の中央の、例の『楽』の字が、空に掲げられる旗印のように広がった。
「いや、勇馬の言うことも、何やら難しうて、さっぱりわからないのだがな。ともかく、もう勇馬には狙われずとも良い。さっさと忘れてしまうのが良かろうな!」
 マトリックス空間の霊子網(イーサネット)が、わずかに唸る音がした。
 直後、がくぽの首筋に、ルカの抜き放ったグラットンソードが突きつけられた。
「な、なにをするーー!!」
 VY2に劣らぬ剣技を我がものとしたはずのがくぽだったが、そのルカの抜く手は全く見えなかったようだった。
「貴方のその、いいかげんさやら、さっさと忘れるやら、それが今回のような命に関わる災難を招いていることに、まだ気づかないのですか」ルカは再び冷酷な無表情に戻っており、無情に言い放った。「今回も、全部リュウトのせいだった、だけで本気で片付けるつもりだったとしたら、今後何度でもこうなりますよ」
「そ、そうか……」
 がくぽはルカの刃の冷たさに恐々としながらも、口ごもり、
「しかし、どうすればよい……今回のようなことが起こっても、どうしてよいかわからぬ。どうすればよい……我を、ルカを、災厄に巻き込まないために」
 ルカは無表情でそんながくぽを見つめていたが、
「どんな災厄も乗り切れる方法を――今、勇馬が言っていたではありませんか」
 ふっと表情を和らげると、小声で、うったえるような声で呟いた。
 ルカは手のグラットンソードを消すと、不意にがくぽに背を向けて歩き出した。
「何……何と言ったか……」
 がくぽは当惑して立ち止まってから、ふと歩み去ってゆくルカに気づき、早足でその背中に向かった。「ルカ、待ってくれ!」
 せいぜい、追いかけてくるがいい。むしろ、安心したからこそ、確かに自分を追いかけてくるのがわかったからこそ。いつも向こうから追いかけさせていよう、そんな気になっていた。