岬の教会

 KAITO初音ミクがその『岬の教会』のある場所だという、村はずれの土地にやってきたとき、そこには『教会』どころか、明らかに『岬』さえも見当たらなかった。
 きっかけは、誰かわからない作詞者の作った、岬の教会の歌だった。その歌詞の中に、波間に洗われる美しい教会と、それが在るこの村と土地について詠われていたのだった。その歌を偶然見つけたミクは、詠われているその教会が、一体どんなところなのかと、ふとKAITOに話したことがあったところ、KAITOはある日、ミクを誘って、その村まで一緒に来てくれたのだった。
 しかし、まずは村までたどりついてみると、村そのものが、いわゆる山の中、見渡す限り木々の緑と岩山に囲まれた土地で、岬のある海はもちろん、川や湖などのなんらかの水も見当たらない。さらに、村から離れた岩がちな一帯の土地は、実のところ教会を建てるのに適した、人が集まるのに便利な場所でもなかった。
 緑に囲まれた道を歩き続けるKAITOについて歩きながら、ミクは、そのKAITOに声をかけられないでいた。自分の興味だけで連れ出したにも関わらず、こういうことになったのが、KAITOに悪いという気持ちで、ただ頭がいっぱいになっていた。おそらくは、岬とか教会なんて不確かな情報だった、という結末に、これ以上時間をとらせるのも悪いが、かといって、すぐに帰ろうなどと自分の方から言い出すのも、自分勝手すぎるような気がする。ミクは気まずいのをごまかすように辺りの小道の光景に目を移し、KAITOの方がそろそろ帰ろうと言い出すのを待つだけだった。
 しかし、予想に反して、KAITOは行手に何かを見つけて言った。
「見つけたよ。あそこの家じゃないかな」
「え……」
 今KAITOが探していたのは、村人によると、この一帯の土地については一番よく知っているという、村外れに住む老人の家だった。見たところ、小屋の周りのわずかに開けた土地と、木々の様子を見ると、この村はずれで果樹でも作っているのが本業なのだろうか。
 KAITOとミクが小屋の扉を叩き、現れたその老人は、小柄で曲がった背と、地味でくたびれた服装から、この素朴な山間の光景に申し合わせたように溶け込んでいるように見えた。KAITOは、背後でミクが黙って見守る中、その老人に、『教会』や『岬』について尋ねた。
「確かにあるよ」老人が穏やかに発したその答えは、ミクの予想には反したものだった。だが、KAITOがそれらがどこにあるのか聞くより前に、こう続けた。「ただ、そこについてはね。この辺りの土地には見所は多いが、そこだけは、ただいつでも行けばいい、ってわけじゃないんだ。……日が落ちてから、また来てごらん」
「夜ですか」KAITOが聞き返した。
「もっとも、一度や二度来ても駄目かもしれないが」老人はかすかに笑って、付け加えた。
 穏やかなその姿勢と声は、KAITOを決して邪険に扱ってもいないが、かといって、こと細かに懇切丁寧に語ってくれるでもない。この山間の村の光景そのものが、人を容れないが拒みもしないのと、よく似ているとミクは思った。



 その日以後、KAITOとミクは、その小屋の老人の言葉通りに、着くのが夜になるように見計らって、幾度かその村を訪れた。夜道にミクひとりというわけにはいかないので、KAITOはミクに連れ添って、というよりも、おぼつかない暗い道のりを歩くミクの先を導いて、共に歩いた。
「いいの……わざわざ来てくれて」ミクは最初は、ためらってKAITOに言ったものだった。
「たいした労力じゃないよ」KAITOはそう言った。「本当にあの人の言うとおりなら、その教会は、本当に村のどこかにあるらしい。ミクは、知りたいんだろう……」
 ミクはKAITOに腕をとられて、夜空が晴れて明るい星に照らされていたり、曇って星が見えず薄暗かったりする夜道を、一緒に歩いた。……KAITOの腕、それはミクにとって、頼りにさせてくれたり、いつでも守ってくれることがわかっている腕なのだが、ミクの側からは、守られたり、自分からすがりついたりするような機会は、普段の日々ではなかなか見つからない。そのKAITOの腕に、道を歩く間じゅう、すがって、守られて歩くことができるのだった。ときに夜が暗いときに、おぼつかないミクの足元がふらつくと、ミクはその腕にすがって体をあずけ、あるいはそのKAITOの腕が支え導いてくれることが、しばしばあった。それは、ミクが教会の歌詞を見つけたときにはまるで予想していなかった、小さな幸福を感じるささやかな時間だった。
 ふたりは村を訪れると毎回、例の小屋をたずねた。老人は、決まって夜空を見上げ、夜風を感じるように顔を風上に向け、やってきたそんなふたりの姿を見た。
 そして、今日は駄目なようだ、今日行っても駄目だ、と言うだけだった。最初の日と同じように、柔和だがそれ以上の親切さは無しに。その『岬』だとか『教会』は、どこにあるのか、というKAITOのそれとない質問にも、小屋の老人は煙に巻くような答えを返すだけだった。それが、来るたびに毎夜続いた。
 村も、その辺りに開けた土地の一帯も、さほど大きくはなかったので、KAITOとミクは来たついでにその土地を、辺りに水源や教会の建物らしきものがないか、探して歩いてみたこともあったのだが、それらしいものは見つからなかった。



 何夜かそれが続いた後の帰り道で、ミクは、老人はあんなふうに言うが、やはりそんな教会などは無いのではないか、と思い始めていた。そう思うだけで、毎夜一緒に来てくれるKAITOにはまだ言えないうち、どうしようかと迷っていると、不意にKAITOは、村の小さな酒場の明かりに向かっていった。
「村の人達に聞いてみよう」KAITOは言った。
「あ……」ミクは少し驚いて立ち止まってから、そのKAITOの背中を小走りに追いかけた。
 小さな村の人々が夜に集まるらしい、素朴だがさびれたふうでもない店で、温かいものを注文してから、その場にいる人々に、『岬の教会』について聞いてみた。村の皆は、他所からの客人としてのKAITOとミク、すなわち男女ふたり連れがこの村に来るその珍しさにも驚いたが、それ以上に、その質問に首をかしげた。そんな話には、にわかに心あたりはないようだった。
「あの爺さんは物知りだが、誰も行ったことがない隅々までの記憶が、今も確かかどうかは、わからないしな」酒場の店主が言い、村の人々の小さな笑いの質を見るところ、その老人に対する評は冗談めかしたもの以上ではなさそうだった。
 だが、村人の一人だけが、教会ってあの話かな、と言った。ずっと前に亡くなった両親が、この近くの『大聖堂』に、ふたりで連れ立って行った思い出があるとか、聞いたことがある、と。
「酔っ払ってたんじゃないのかい」店主が茶化した。「こんな村に、大聖堂なんてな」
 他の村人も罪なく笑った。小さな教会ならともかく、『大聖堂』などという響き自体が、このささやかな村の風景にあまりに場違いなものに聞こえた。
「そうかもしれない」村人はこだわる様子もなく言った。「親夫婦のふたりともが、そのとき酔っ払ってたっていうなら、だけど」
 ……店の人々に礼と別れを告げ、やはりミクの手をとって帰り道をしばらくたどってから、不意にKAITOが言った。
「どうやら、本当にあるみたいだね、聖堂のある教会が」
「ええ」ミクは小さく同意した。
 だが、老人以外の村人からも、なんとか教会の存在の裏らしきものは取れたものの、かえって不可解になった気がする。正直なところ、村人たちも言っていた通り、今まですでに見たこの小さな村とその周辺の土地に、小さな教会ならともかく、『大聖堂』などというものは、なおさらありそうにない。
 歌詞から一度は興味をひかれたとはいえ、見つかること自体は、もうミクは期待していなかった。ただ、それを今まで口にできなかった、もう労力を費やしてまで探さなくていいという、当然のことをKAITOに対して口にできないのは、──正直なところ、それを言って探すのをもう止めてしまえば、こうやって夜ごとにKAITOと一緒に、手をとって貰い導かれ守られて夜の道を歩く時間が、今後無くなってしまう、それが惜しかったからに他ならない。
 けれど、それだけのために、見つかるあてもないものを探し続ける日々を重ねて続けてもよいものか。自分のつまらない興味を聞いてくれる、あるいは、うすうす感づいて自分と一緒の時間を過ごしてくれるKAITOの優しさに、甘え続けてもよいものか。



 そしてある夜、ふたりが件の小屋をおとずれると、老人はいつものように夜空を見上げた。晴れ渡り、雲がなく、月はことに大きく低くかかっていて、空が明るい。次に、いつものように夜風をたしかめたようだった。風はたえまなくそよいでいるが、強くはない。そして、これもいつものように、やってきたふたりの姿、KAITOと、夜道を守られるようにその腕に手を回しているミクの姿を見た。
「ふたりで来たね」背の曲がった老人は言ってから、その小屋を出た。「それじゃ、今夜案内しよう」
 黙って坂を上ってゆく小屋の老人のうしろに、これも無言でついてゆくKAITOの腕にすがりながら、ミクはおそるおそるついていった。さほど苦労もなく、ゆるい岩山の小道を登り、深い木々の間を縫った。ほどなく、村と一帯の開けた土地を見下ろすことができる、高台のようになっている場所についた。
 ミクは戸惑ったように見回した。建物その他、何も特別なものは見当たらない。実は、このあたりにも、KAITOと共に教会を探して来た事はあり、何もないことは知っている土地だった。ここに案内して、どうしようというのか。
「ミク」
 と、KAITOがミクの腕を掴んで言った。KAITOの普段は優しい手に、いつになく力がこめられていたので、ミクは驚いて見上げ、ついで、そのKAITOが目を奪われている視線の先に目をやった。──そして、自分も息を止めた。
 その先には、岬の上にそびえ立つ大聖堂の姿があった。
 月明かりの作り出した周囲の岩山や木々の影が、高台から見下ろせる土地一帯に伸び、それが平原の上に、影絵によって巨大な建物を思わせる姿を描いていた。周囲の山々に切り立った岩の数々が、月光に影を伸ばし、平地一帯のあちこちにそびえる岩を教会の土台として、その上に優美で壮麗な聖堂の姿の影を築き上げていた。大聖堂は、切り立った幾多の尖塔とドームを伴い、小さな石と古い木々の数々の影が作り出す装飾は、こまやかに作られた影絵が、そのドームの天窓にはめこまれているかのようだった。
 しかし、それを息を飲むほどの光景にしているものは、その壮麗な教会が”建っているその場所”にこそあった。影の教会が建っているように見える、これも影の岩壁の足元に、草木の姿と、それらが伸ばす影が、波頭を形作っていた。山合いを抜けて逆巻く風に平地の丈高い草がたえず波打ち、風になぶられる木々がうねるような影を躍らせ、大聖堂のそびえ立つ勇壮な大岩の岬を、逆巻く高波が荒れ狂い、たえず洗い続けているように見えたのだった。



 一体どれほどの時間が経ったか、夜空にかかる月が動き、風の向きが変わると、岬の教会はその姿を次第におぼろげにしていった。ただKAITOの腕にすがって立ち尽くし、その影絵の教会の姿を見つめていたミクは、そこでようやく我に返った。
 ……そして、月光の中の岬の教会がふたたび姿を消すと同時に、ミクは、旅が終わったことを感じた。KAITOとふたりで夜道を歩く日々も、これきり、終わったのだと。それに気づいたミクには、かすかにしめつけてくるような、苦い未練の味があった。
「ありがとうございます」
 そのKAITOが口を開き、老人に向き直って言った。
「あの『教会』を見つけるには、たどりつくには、この月と、風が無くてはならなかったのですね」KAITOは少し困ったように笑って言った。「せめて、教会が見えるような月と風になる、それに近い頃合くらいでも、先に教えてくれても良かったんですが」
「無くてはならないのは、月と風だけじゃなかった」
 ミクが驚いたことには、老人は、すでに小屋の老人には見えなくなっていた。曲がっていた背は伸び、疲れの皺の刻まれていたような表情と服は、かすかな月明かりの中でその陰影が失せ、声色も凪いで落ち着き──まるで牧師のようだと、ミクは思った。
「毎夜、ふたりでやってきたろう。互いに手をとりながら、守りながら。いつまでそうしなければならないか教えなかったのに、それを苦にもせずに、今までの毎夜すべて、ふたりで。それが必要だった」老牧師はKAITOとミクを見て言った。「この土地には見所は多いが、この教会にだけは、それを見届けた者しか案内しないんだ」
「何故ですか」
 かすかな風の中で問いを発するKAITOに、老牧師は手をかざすようにして言った。
「この教会は、”連れ添うふたりに祝福を与える”ためにあるからだよ」
 ミクは呆然として立ち尽くした。
 それから、自分のかすかに火照っている頬に気づいて、袖で覆おうかと思った。けれど、月が隠れている今、どうせそれは誰にも見えはしないし、それよりも──今、自分の手を強く握っているKAITOの手を握り返せなくなるので、それはできなかった。