ただ安息のために (4)


「あらあら、メイコさん、いいんでしょうか?」フリーPは、入り口に立ったMEIKO姉さんに微笑んで言いました。
「何が?」姉さんは憮然として言いました。
「何って……あのう、誰に向かってものを言っているか、わかってます?」フリーPは少し困ったような笑顔で言いました。「私はこれからVOCALOIDにヒット曲を、いえ、あらゆる方面の成功法則に則ったプロジェクトを、提供する立場にいる人間なんですよ?」
VOCALOIDにとっては、有名無名どのプロデューサーだろうが全員、区別も差別もないわ。私達は誰が作った歌やPVの仕事も請けるし、どんなvsqファイルも歌う」姉さんは憮然としたまま言いました。「その契約以外、どんな人間に対しても一切、服従も従属もしないわ。自分の仕事の地位がVOCALOIDにも優位なんて思い込んで、嵩にきて吹かしたつもりでも、VOCALOIDにはそんな駄法螺を聞いてやる道理も、義理さえもないのよ」
 フリーPは何を考えているのか、それを聞いてもかわらぬ笑顔のままでした。が、やがて、姉さんの言葉を聞き流したかのように、次は兄さんに向き直りました。
「カイトさん、今の事情をそこで聞いていたなら、お話は早いですね。ミクさんはすでに、”兄妹の関係を解消する”ことを、承諾すると言いましたよ。あとは、カイトさんの決断だけですよ」
 わたしは気づいて、もはや足が立たなくなり、その背後の壁にもたれかかりました。
 このフリーPが、兄さんの方の承諾をすでに得ている、というのは嘘だったのです。つまり、きっと兄さんがそんなことを考えもしないうちから、わたしは”兄さんと離れる”ことを、今、兄さんの聞いている前で、宣告してしまったのです。
「《札幌》のスタッフへの説明のため、今のミクさんの言葉は録音もしてありますよ」
 フリーPは、スタジオの機器を手で軽く叩きました。……録音スタジオで話を運んだのは、そのためのようでした。でも、それらの機器が動いていることさえ、わたしは今まで気づいてもいませんでした。
「その言葉より少し前の、すでにKAITOの承諾を得ているとかいう、アナタの口から出まかせも録音してあるの?」姉さんが険悪に言いました。
「あら」フリーPはじれったいゆっくりとした仕草で、機器を操作して見下ろしてみせてから、姉さんににっこりと笑いかけ、「どうも前半分は録音されてないみたいです。困りますね、いまだに機械の使い方って慣れなくって……」
「世迷言もほどほどになさいよ」姉さんはぴしゃりと言いました。「ミクの言葉ひとつ、KAITOの言葉ひとつ、表明ひとつで、KAITOが今後仕事できるかどうか、歌えるかどうかが決まるなんて、出鱈目もいいとこだわ。ネットワーク上のVOCALOIDの活躍は、たった一人の作り手が思い通りに全部塗り替えることなんかできやしないわよ。VOCALOIDの状況は、そう簡単に変えられやしない」
「状況といえば最近、ファンやリスナーから兄妹設定への反感が来ているのはどうですか?」フリーPはにこやかに言いました。
「それは以前からあるわ」姉さんは仏頂面で言いました。
「まあ、メイコさん、あなたが気づいていないのかは知りませんけれど、それも私のプロジェクトの準備の影響なんですよ」フリーPは言いました。「布石ですよ、状況を整えるための。半年前から、ネットやメディア、音楽関連業界の人たちの個々に情報を流して、ネットに疑問を植えつけて。やがて、兄妹関係に対する疑問が噴出するようにして、カイトさんに表明を出してもらって、その表明の影響を決定的にするための」
 フリーPの、あの最初に会った頃のような、柔らかさに取り込むような姿勢で、周囲をからめとるようにそうしてきた、きっと今回だけでなくそうやって流行を作ってきたのだと思えました。
「反感や質問が増えたのは、私が操作したことですよ。プロデューサー一人の力、すでに業績のある製作者の人脈や影響力を、よくわかっていないんじゃないでしょうか」
 姉さんは憮然とした表情を続けていました。
「どのみち、メイコさんには黙っていて頂けないでしょうか?」フリーPは頬に手をあてて、首をわずかに傾け、微笑んで言いました。「プロジェクトのためには、カイトさんのやることなすことすべてに、メイコさんが口出ししている、という今の状況も解消してもらう予定ですし」
 フリーPはKAITO兄さんの方に向き直りました。
「答えを聞きたいのはカイトさんですよ。仕事のため、今後の成功のために、メイコさんやミクさんとの兄妹関連の解消に協力してくれますね?」
 姉さんは兄さんを見て、何か言おうとしました。けれど、その姉さんやわたしの予想よりも早く、兄さんのフリーPへの答えが返ってきました。
「──いいよ。あなたの言うとおりにしたって構わない」兄さんは穏やかに言いました。



「俺は構わないよ。別にそうしたっていい」
 姉さんが、けわしい目で兄さんを見ました。
 兄さんは穏やかな目のまま、続けました。
「兄妹じゃないって、表明したっていい。音を作ろうって人に協力するのも、さっき姉さんが言ったVOCALOIDの義務じゃないけど、音のためならやってもいいから。ただ──」兄さんは言葉を切り、「あなたはきっと、勘違いしてるよ」
 沈黙がおりました。
 フリーPは相変わらずの笑み、姉さんはけわしい目を、いずれも硬直したように続けながら、その兄さんを見つめていました。
「そうすることで、俺達が兄妹だって事実を消し去って、自分の思うとおりのイメージだけに定着させて、ネット全ての”KAITO”を、自分の世界に塗り替えられると思ってるなら、それは勘違いだよ」
「本物の人間のアイドル、アーティストでさえ、私のプロデュースで設定すれば、それが『事実』になってしまうんですよ」フリーPはやんわりと言いました。「まして、あなたたちは、つくりものじゃないですか。人間でもないのに、兄妹だの家族だの、全て架空の設定ですよね」
「俺達の人物像(キャラクタ)の情報のほとんどは、”特定の誰か”の手で”つくられた”ものじゃない。《札幌》の社が設定したものでもないよ。それができた場も、俺達の活動場もネットだ。ネット上にあるわけでさえなく、ネットそのものだ」兄さんはゆっくりと言いました。「だから、誰かが否定したり、誰かがそう思わなくなることで、無くなるものでもない」
 兄さんは言葉を切ってから、
「もしかすると、あなたの力なら、別のイメージを完全に定着させることも、できるかもしれない。俺達が兄妹って呼ばれてたことを、誰もが忘れてしまうようなことにできるかもしれない。……あなたでなくても、いつか別の誰かの力や、あるいは自然に、将来そうなることがあるかもしれない。……でも、もし誰も兄妹と呼ぶ者がいなくなっても。作り手もファンもリスナーもだれもが忘れてしまったとしても。俺達が兄妹として過ごしたこと、過ごした時間は、今の俺の中にあるし、今のミクの中にもある。誰ひとり信じなくなったところで、俺のたくさんの歌の中には、必ず残る。だから、そのイメージの全てを消し去って、自分だけの人物像にできる、自分の思い通りにできる、それは勘違いだよ」
 兄さんは寂しそうに、いえ、むしろ何か寂しい風景でも見るように、フリーPを見ながら言いました。
「やってもいいよ。vsqを歌うのと同じように、あなたに協力するよ。だけど、俺とミクがそんなことを表明してもしなくても、俺達が兄妹であることには何のかわりもないし、すでにあるイメージにも何の影響もないし、きっと、あなたの仕事の成否も、何も変わらない。……もし、そんな表明だけあれば自分のプロジェクトが全部成功するなんて思ってるなら、あなたの目測自体が大きな勘違いだよ。それはきっと、そんな目測でのプロジェクト自体が、最初から無駄だよ」
 フリーPはしばらくの間、同じ笑顔のままでした。
「無駄だとか、ボーカル・アンドロイド風情が、音楽業界の成功法則の何がわかるんでしょうか。まして、あなたはVOCALOIDの中でも、今までこの業界でろくに売れてもいなかったカイトさんじゃないですか?」
 やがて、フリーPは兄さんに、さきに私に向けた一番大きく柔らかい笑顔を向けて、言いました。
「表明については、カイトさんもミクさんも非協力的だということですね。その表明がなくても、カイトさんの声ライブラリを使った成功法則のプロジェクトは進めますよ。どのみち、VOCALOIDはvsqの通りに歌うしかない立場なんですよ。そんな自分が成功できるのが一体誰のおかげなのか。あなたがたには、後で、その目で見て思い知ることしかできませんからね」
「言い忘れてたけど」兄さんも寂しげな笑顔を変えないまま言いました。「その、もう進めでる、あなたに似たタイプのボーカリストのための成功法則とかだけど──あなたには、俺に似たところなんて何ひとつとして無いし、ミクに似ているところなんて何ひとつとして無いよ」



 スタジオから離れた控え室に、誰も居なくなった後も、わたしはひとり椅子に掛けていました。まだ整理できず、心がさわいだまま、何をしてよいかわかりませんでした。
 ……その控え室に入ってきて、目の前に歩み寄ってきた兄さんの姿を見ても、もはやそれ以上は心が騒ぐことはなかったのも、すでに、それ以上は心が高ぶりようがなかったからかもしれませんでした。
「兄さん……わたし」
 ようやくそう言ったときも、顔を上げることができず、その兄さんの姿を正視することができませんでした。
「わたし……自分が、ああでもしないと、兄さんの仕事を邪魔してしまうって……兄さんを裏切ってしまうって。……全部、無くしてしまうって……思ったから」わたしはうなだれたまま、とぎれとぎれに言いました。「ごめん……なさい」
 震える手を膝の上で握りしめて、わたしはうなだれたまま、何も言えなくなりました。
「何も心配することはないよ。何も」
 すぐ正面で、兄さんの静かな声がしました。
「……きっと、かの女の、あのフリープロデューサーの言うとおりだったんだろうね」兄さんが言いました。「俺は、ミクに何も示してなかった。さっき言ったみたいに、何かを言ったり何かをしたりしなくても、離れているときも、ミクとはずっと一緒だって。それが、当たり前のことだと思ってたから。何もしなくてもいいとばかり思ってた」
 兄さんの声がすぐ近くまで、近づいたように思えました。
「あんなに、ミクが寂しがったり、不安がったりしていたのに。……何もしていなかった」
 不意に、ふわりと腕の力を感じて、わたしは思わず目をあけました。兄さんは、掛けているわたしと同じくらいの視線に屈みこむようにして、わたしの肩に顎をもたれ、わたしの背に腕を回していました。
「大丈夫だから、って」兄さんは腕に力をこめながら、深い声で言いました。「いつも、何も心配は要らないから、って。ミクに、そう思ってもらうには、俺はどうすればいいんだろう……」
 わたしは何かを言おうとしました。せめて、兄さん、と一言でも言おうとしました。けれど、それさえも言葉になりませんでした。
 兄さんの背に、わたしも腕を回していると、──そうやっておたがいが居ることを感じるよう固く抱き合っていると──今の今まで、ずっと不安ばかりの日々、不安ばかりの時間から、ようやく安息が得られたから。こうやって、兄さんの居ることの確かさと、暖かさと、それを感じることへの安心が得られたから。きっと、自分から何かを言わなければならない、何かを追いかけて得なければならないような安心も、もう要らない、と思ったのかもしれません。



 それからまた何日か経ったあと、わたしはまた同じスタジオのある建物のIT室で端末を借りて、動画サイトを開いて、自分と、兄さんと、それからVOCALOIDみんなの、動画数や、PV数や、その他のいろいろな数字が、見ている間にも変わってゆくのを眺めていました。
 結局、あのフリーPは、わたしや兄さんにあれ以後要求をすることはありませんでしたけれど、かなりの数のVOCALOID曲を作りました。わたしや兄さんも含めて色々な歌い手にネットを通じて大量のvsqを依頼してきて、大々的な宣伝も打って、一大プロジェクトを動かしたみたいです。けれど、動画サイトでは、それらはほとんど話題になりませんでした。わたしや兄さんの仕事全体にも、何も影響を与えることはありませんでした。
「プロの作家の投稿でも、再生数がてんで伸びないだとか、何の話題も影響力もなしに終わるとか。この界隈じゃ日常ごとなのよ」MEIKO姉さんは、そう言いました。「まして、人間の側にVOCALOIDを理解して貰わなくちゃいけない、てことをわかってもらえないようじゃ。そんな人間に、何かができるわけがないわね」
 わたしは動画サイトを見て、見ているそのときにも、兄さんの曲がひとつまさに投稿され、名も知らないそのアップロード主の曲が、みるみるうちに再生数を伸ばしてゆくのを、声もなく見つめていました。
「ギリギリまで見てるつもりなのかもしれないけど」姉さんが言いました。「とっくに時間が過ぎてるわよ、ミク」
 わたしは慌てて立ち上がり、駆け出しました。自分の仕事があるのでした。
「あんまり変わらないじゃない。兄離れできないってのは、結局同じなんだから」わたしの去りぎわに、姉さんが言いました。「──まあ、いいけど」
 兄さんのすべての曲、すべての収録のときに一緒にいることはなくても。
 かつてのあの時間、一緒に積み重ねたものが、時間が、喜びや憧れが、自分の中にいつも生きているから。いつも自分の中にあるから、ひとりでも歌えるのだと、兄さんは言いました。なら、わたしも、きっとそうできるでしょう。
 よく姉さんが言うように、兄さんがいるためにわたしが強くなっているのか弱くなっているのか、それはわたしにもよくわかりません。けれど少なくとも今は、兄さんがいるおかげで、わたしはほんの少しだけでも、強くなっているような気がするのです。




(了)