ただ安息のために (3)


 わたしはその日になって、直前にようやく決心して、収録がちょうど終わった頃を見計らって、兄さんの収録しているスタジオに向かいました。
 兄さんに会ったところで、何を言えるのか、なんてことはわかりませんでした。仕事が増えない方がいい、なんて言えるわけがありません。兄妹だってことを確かめられる時間が欲しい、でも、一体それは何? きっと、兄さんの顔を見ればなおさら何もわからなくなったと思うのですが、兄さんと会えばわたしの何かをわかってくれることを、勝手に期待していたのかもしれません。
 ……でも、意を決してやってきたにもかかわらず、スタジオの中には誰もいませんでした。収録が行われていた気配が、もうなくなっています。早めに収録が終わってしまい、もう兄さんも──スタッフたちも、みんなで一緒に立ち去った後なのでしょうか。わたしはがらんどうのスタジオに、その静けさの中にとり残されたように、しばらく立ち尽くしていました。
「誰か、探してるんでしょうか?」
 わたしはぎくりとして振り向きました。いつのまに入ってきたのか、収録機器の近くに、あのフリーPがいました。
「いえ……別に、誰も」わたしは思わずそう答えながら、我ながらずいぶんと嘘っぽいと感じました。
「なら、ちょうどよかったわ」フリーPは、胸の前で両てのひらをあわせて、喜んで言いました。「私は、ちょうどミクさんを探してたんですよ。ちょっといいですか?」
 わたしの答えも待たず、フリーPは歩み寄りながら、
「ねぇ、ミクさんって、カイトさんと兄妹ってアナウンスはないけど、世間じゃほとんどそれで定着してますよね。……本当にそんなふうに、それも、仲の良い兄妹に見えると思いますよ。カイトさんもミクさんのことを喋るときは、そんなふうだし」
「そうですか……」私は戸惑って、小さく答えました。
「いつも一緒にいるって。……それでね、だから私、それを、きちんと解消しておいて欲しいんです」フリーPは、わたしに笑いかけて言いました。「ミクさんは、カイトさんと確実に、兄妹の縁を切っておいてくれないかって。兄妹ごっこだとか家族ごっこだとか、今後は一切、無くしておいて欲しいんですよ」



 わたしがしばらく何も反応できなかったのは、フリーPのその笑顔のため、当初、何を言われたのか飲み込めなかったためでした。
「何の……ためになんですか」わたしは飲み込めてからも、さらに、かなりためらった後に言いました。
「てっとり早く言うと、ですよ」フリーPはひとさし指を頬に当て、「これからの私のプロデュースするシリーズのため、イメージ戦略のためです。独立した、本当にソロのアーティストとしてのカイトさんのイメージで、すべてを一貫させるためです。”初音ミクの兄”じゃなくて」
「あの、……そういう設定の音楽を作るってことも……」わたしはまた間を置いてしまってから、小さく言いました。
 ネット上などで、沢山のプロデューサー達が作るVOCALOIDのそれぞれの楽曲やストーリー動画では、プロデューサーが曲やイメージごとに色々な設定で作ります。その中では、設定を周りに押し付けるのではなく、結局はその設定が自然に流行して実際に定着したものが全て、という暗黙の了解があります。実は、わたしたちが兄妹、ということが、社が表明していないにも関わらず世間でも定着したのも、たまたま最初の頃のそのイメージの動画から広まったためなのですが……だから、もし兄妹でない、という設定を広めたければ、そういった音や動画をまず作って定着させる、というのが、今までのVOCALOIDの創作者の間での通例です。
「まあ、でも、そういうやりかたって、所詮は素人の人たちの動画サイトの中でのレベルの話ですよねー。定着する設定のたいていは、傍目にはその界隈の内輪の中でしか通用してないし。そんな人達の戦略なんて、業界全体のヒットだとか影響力がどういうものか想像もできない視点ですよ。所詮は動画サイトとそこから出たレベル、所詮は他のポップスが落ち込んでたときにVOCALOID曲がたまたま切り込んだとかいうレベルで有頂天になるくらいだから。他人が広げるに任せてればいいとか、そんな勘違いをするんですよね」
 フリーPは頬に指を当てたまま、おどけたように宙を見つめ、
「でも私は、どんなほかの条件、イメージ戦略のためのどんな手段も、例えば他のメディアでの声だとか広告だとか、全部の状況を整えてプロデュースする主義なので。そうやってまるごとイメージを統一するって方法で、今まで業界で成功させてきましたから。半年前から、私とそっくりなタイプのカイトさんのために、私と同じ成功法則で、もう進めてますから」
 フリーPはわたしに向き直り、
「でも、これって、ミクさんの損にもならないでしょう?」フリーPは、やわらかく見えて周りをむりやり取り込んでしまう、例の笑顔のまま言いました。「だいたい、ミクさんのファンの大半の男性ファンからすれば、兄妹設定なんて、邪魔以外の何でもないんですから。……カイトさんの女性ファンの中でも、兄妹設定とかが好きとかいうごく一部は、少しは離れるかもしれませんけど、カイトさんの人気は、私のプロジェクトがこれから作りあげていくものですし」



 わたしは呆気にとられたように、立ち尽くしていました。フリーPの言うことは突然で、しかも、ものごとの決め方、わたしへの提案の仕方が、まさに一方的そのもので、どんなことを言っていいのかわかりませんでした。
 さらにしばらくためらってから、わたしはまたようやく口を開きました。
「わたしに、何をしろっていう……」
「ええと、まずは、ミクさんにはなにかとカイトさんと一緒にいるのをやめてほしいのと。といっても、私のプロデュースの展開が始まったら、カイトさんにそんな暇なんてなくなるでしょうけど。……でも、当面やることは──最近、ファンやリスナーから質問が来てるでしょう? 『兄妹なのかそうでないのか表明してくれ』っていう。それに答えて、表明すればいいんですよ。確かに兄妹なんかじゃないって」
「……でも、《札幌》の社の方針では、それについては何も表明しないって……」わたしはかすれた声で、ようやく言いました。
「会社は、別にあとでいいんですよ。私のプロデュースしたカイトさんがそんなのより遥かに売れるってことがわかれば、会社もそんなことにこだわってるのは無駄だって、すぐにわかりますから。今は、カイトさんとミクさんが表明すればいいことですよ」
 フリーPは笑顔をたやさずに、ゆったりとした喋り方で続けました。
「いきなりの話ですし、迷うかもしれませんよね。でも、ミクさんにはそれをしてもらわないと、……カイトさんには、私のプロジェクトの通りのイメージ戦略になるようにしてもらわないといけませんから。ミクさんがそれができない、カイトさんに要らないイメージをつけるってことになると、カイトさんは、ちょっと私のプロデュースに適さない人、ってことになっちゃいますね。今動いてる成功法則のプロジェクトも中止ってことになりますし、その後も、大事な仕事は頼めなくなりますよねえ」
 フリーPは柔和に笑いかけて言いました。……兄さんの言葉からも、このフリーPの業界への影響力、確かに成功させる力があるのだろうと、わたしは思いました。そのフリーPが兄さんから手を引いたときの、失われるものの大きさも……。
「でも、私が仕事を頼まなくても、どのみち、お互いに兄妹がなにかと一緒にいようとするとかは、両方の仕事を、歌を狭めていると思うんですけど。……あ、今回はいいですよね、これは別に。ミクさんの仕事は、また次の話です」
 フリーPは言葉を切り、
「表明したくない? でも、会社が兄妹かそうでないか、どっちとも表明しないってことは、兄妹だってことにも、何か根拠はあるんですか?」
 わたしは背筋をびくりと震わせました。「根拠……って?」
「いえ、ただ一緒にいただけとか既成事実じゃなくて。カイトさんから、はっきり妹だとか、──あと、もっと深い関係だとか──その証拠を貰ったことがあるんですか?」
 わたしは呆然として立ち尽くしました。
「きっと、ないんでしょう? 信頼できるものなんてないから、収録のときにあわてて飛び込んできたりするんですよね」
 フリーPはわたしのあの様子さえも、観察していたようでした。そして、まさにそのとおりでした。兄さんから何の根拠を貰うこともできなかったからこそ、わたしはやっきになって、そんな行動で自分たちに関係があることを確かめようとしていたのですから……。
「──ミクさん、確かに答えましたよね。ミクさんにとって、カイトさんが何なのか聞いたときに。大事な仕事仲間さん、だって。ただの『仕事仲間』、それ以外の言葉は、ミクさんからは、どんなに聞いても、一言さえも出てきませんでしたよね?」
 わたしは今になって不意に気づきました。フリーPに最初に出会ったあのとき、わたしのおどおどした態度を見て、フリーPは助け舟を出したわけではありませんでした。そんなわたしの気性を把握すると、自分から出した言葉にとびつかせたのです。今、この話に利用するため準備していた言葉に。フリーPはこうやって、他人を操って業界を動かしてきたのでしょうか。
「ちゃんと言葉にできるような深い関係なんて何もないのに、あると思い込んでるんですよ。根拠も無いのに、何か離れちゃいけない関係があるなんて思ってるのは、ミクさんの方だけじゃないんですか?」



「……まあ、いきなりなので、決心できないかもしれませんけど。ミクさんってきっと、いつも迷ってるような人ですよね、そうやってる様子だと。……でもね、迷ってもきっと同じだと思いますよ。どのみち、カイトさんからは、もう答えを聞いてるんですから」
 フリーPは、そこで唐突に言葉を切りました。
 わたしはためらって、伺うようにしばらくフリーPの笑顔をたびたび見てから、我慢できなくなって、かすれた声で尋ねました。
「──答えって、何を?」
「何をって、もちろん、カイトさんの方は、とっくに承諾してるってことじゃないですかー。ミクさんが確かに妹じゃないって、そういう表明を出すって」
 わたしはフリーPの笑顔から目をそらしたまま、言葉を失いました。
「そんなに、ひどくびっくりするようなことでもないと思うんですけど? さっき言ったとおり、別に離れちゃいけない強い理由なんて最初から無いんですから、大きな仕事と世間に出るため、将来のためならカイトさんにとっても当然ですよね? あとはミクさんの承諾だけですよ。それでカイトさんの成功は、確かになるんです」
 わたしはそれからもしばらく言葉を失って、
「でも……わたし……」
 さっきよりも、もっとかすれた声を出すことしかできませんでした。
「ええとー、でも、いいんでしょうか?」フリーPはぼんやりと考えるように、宙を見て指を頬に当て、首をかしげると、「今、ミクさんが断ったら、承諾しなかったら、カイトさんに仕事が頼めなくなるのは、『ミクさんのせい』だってことになりますよ? 仕事から干される、ミクさんのせいで歌えない、って形になっちゃいますよね?」
 フリーPは言葉を切ってから、またわたしに向き直り、
「あ、いえ、形の上だけのことですから。それにもしミクさんのせいでそうなったとしても、そういう事情って、私だけしか知らないことですから。だから、そうなっても、別に気にしなくていいですよ?」
 つまり、もし断ったとしても、このフリーPだけに、わたしと兄さんの関係についての弱みを永久的に握られる、そういうことになるわけです……。
 わたしは目の前が真っ暗になるような気がしました。
 わたしのせいで、兄さんが歌えなくなる。……この場に来るまでの間は、以前のように収録に駆けつけることができるように、兄さんの仕事がこれ以上増えなければいい、それだけを考えていました。それが、あの一緒に過ごした時間を守ることだと、ひとりで考えて、泥沼のようなその考えの中に自分から沈み込んでいました。
 けれど、今、わたしがこのフリーPの言うことを断れば、兄さんと一緒にいることにこだわれば、まさにわたしのたった一言で、兄さんは仕事を失い、歌を失い、世に出る機会を失うのです。わたしは今まさに、自分の安心を守るだけのために、兄さんのすべてを裏切ることができるのです。
 けれど……わたしは深く息をつきました。知らずに不規則になっていた息と鼓動を落ち着かせようとしました。どうしてもそうなりませんでした。それでも、その中から、騒音の中に聞き取れる大事なものを、見つけ出そうとしました。
 ……毎回収録に駆けつけていたときに得られていたのは、自分のためだけの、その場かぎりの安心でした。けれど、わたしがその場かぎりの安心を守って、兄さんと自分の仕事を犠牲にすれば。──あの一緒に過ごした時間と歌の意味を、歌うこととその喜びを人々と分かち合うことに一緒に憧れていた、あの時間の意味を、なくしてしまうでしょう。──わたしがそれを裏切ることは、わたしの中で一番価値があるもの、わたしの中の兄さんとの思い出の意味、それを通して、わたしの中と兄さんの中に今もあるものの意味さえも、すべてなくしてしまうでしょう。



「……わかりました」わたしは震える声で言いました。「わたしは、兄さんをひきとめません。兄妹だから、とかいうことでは……だから、できる限り世界を見せて、できる限り兄さんを歌わせてください」
「確かですね」
 フリーPは、今までで一番大きな、あたたかく柔らかい、そして、心底ぞっとするような笑みを浮かべました。
「それじゃあ、リスナーから来ている質問に対して表明を……」
「──黙って聞いていれば、出鱈目を並べ立てるのも大概にしときなさいよ」
 それはMEIKO姉さんの声でした。
 わたしはスタジオの入り口を振り返り、そこを見て、足が立たなくなりました。……そこには、MEIKO姉さんと、……その隣に立っていたのは、KAITO兄さんだったからです。



(続)