ただ安息のために (2)


「何だか、はかどらない感じね」その日、仕事が終わった後のわたしに、MEIKO姉さんが言いました。「KAITOの仕事の方に走って行くの、折角やめたっていうのに。自分の仕事の方に身を入れるわけでもないようじゃ、しょうがないわね」
 そう言いながら姉さんの声は軽く、特に何か心配している様子でもありませんでした。
 わたしは、自分の収録が終わった後、何も手付かずにいました。心がたかぶって落ち着かないのか、逆に沈み込んでいるのか、自分でもよくわかりません。
 兄さんとは、仕事以外でも、普段から特に会えないというわけでもありません。なのに、これまでの習慣、自分の収録の間の時間に兄さんの歌を聞きに行く、それを止めただけで、これほど不安になるとは思いませんでした。
 ……前に姉さんが言っていた、一部のファンの人々のいうとおり、わたしたちは──姉さんと、兄さんと、わたしのことですが──何かの意味で、兄妹なわけではありません。同じ《札幌(サッポロ)》の社で開発されて所属するボーカル・アンドロイドという、それだけです。人間にたとえれば、何かの血のつながりがあるわけでも、人間の法律とかの上で何かの縁があるわけでもありません。《札幌》の社の方でもわたしたちをアーティストとして売り出すときに、そう紹介しているわけでもありません。ただ、デビュー前の練習のときも、最初のころの仕事のときも、一緒の時間をすごしていたという、それだけでした。ときどき、ファンやリスナーの人達からは”兄妹以上の存在じゃないのか”なんて聞かれますけど、わたしにとっては、いったい”兄妹”になれているのかさえ、それだけのつながりからは確かなことではなかったのです。
 デビュー前の頃は、兄さんからはたいがいは、何かを教わるでもなく、ただ一緒にいるだけでした。でも、だからこそかえって、歌というもののつらさやきびしさを教えてくれたのが姉さんだったとすれば、ただ歌えることのうれしさを感じたのは、兄さんと一緒にだったかもしれません。いつの日か歌を歌い手や聴き手と共有することへのあこがれを、共に感じたのは、兄さんと一緒にだったのかもしれません。
 でも、あの時間が今でもそれだけ大事に思えるからこそ、その時間だけが”兄妹としての関係”の証拠のように、強く感じるからこそ。その頃からの延長のように今まで続いていた、兄さんの収録に一緒に立ち会う、歌うときに一緒に居る習慣を、わたしが自分から止めてしまうことで、その兄妹としての関係が、もう途切れてしまっているような不安におそわれるのでした。
 ……自分でも気づかないうちに、どのくらい思いに沈んでいたかはわかりません。ふさぎこんでいるようなわたしに、どこまでを察しているのかわかりませんが、姉さんがふたたび声をかけました。
「これしきのことで、何に不安があるのかはわからないけど。……どのみち、KAITOの周りの状況って、せいぜい何曲とかの収録を見てない間に、そうすぐに変わったりはしないわよ。あいつがそんなにすぐに大幅に変われるようなら、私も《札幌》の社のスタッフも、昔からそんなに苦労なんかしないってば……」
 ……確かに姉さんの言うとおり、その当時の兄さんは、仕事の事情が見る間にどんどん変わったりするほどには、──何と言えばいいのか、それほど売れている、流行っているわけではありませんし、すぐに大きなことが起こるとは思えませんでした。あとは、──その、わたしの見知らぬ、”兄さんにとっての大事な人”がとつぜん現れる、なんてことも、あまりないような気がします。ああいう兄さんですから……
 結局は、わたしはそんなことを自分に言い聞かせながら、次の仕事に向かうことにしました。……けれども、その仕事の先で、わたしは予想もしていなかった光景に出会くわすことになりました。



 そのときの収録の仕事は無事に終えて、スタジオのあるフロアの廊下を歩いていくときのことでした。
 この建物は、兄さんの収録もよくあるスタジオが入っているので、これまで、お互い出会うことも時々あったのですが、そのとき廊下の向かい側に見えた光景は、兄さんと、もう一人誰かが、何か話しながら歩いてくるところでした。わたしはそれを見るなり、放心してしまい、立ち止まってしまっていました。
 兄さんともうひとりの、相手の人には、見覚えがあります。ようやく思い出したのは、前に兄さんの収録を見に来ていた、淡い色のふわふわした服と髪と、それから動作や印象も同じように柔らかい女の人でした。
「あら、──ねえ、カイトさん? あれって、初音ミクさんじゃないでしょうか?」
 その人が、放心しているわたしに気づいて、立ち止まって言いました。声も口調も、ほとんど外見の通りに柔らかく、ゆったりとした丸みをおびているとでも言えるようなゆるやかな抑揚があります。こういった豊かな表情のある声は、わたしたちVOCALOIDには不足している、人間のアーティストに特有のものでした。
「ミク」兄さんも言いました。いつも出会うときには、わたしよりも先にこちらを見つけている兄さんですが、このときはすでに気づいていたのか、この人と話し込んでいていつものわたしへのそれが遅れたのか、それは、放心していたわたしにはわかりませんでした。
「ミク、この人はフリーのプロデューサーで、アーティストで作曲家で、今度、仕事を依頼してくれるって人だよ」簡単な紹介の後に、兄さんが言いました。
「あなたが、初音ミクさんですね。カイトさんからはここ数日、ミクさんの話ばかり聞くんですよ」そのフリーPは、わたしに暖かく笑いかけながら、とてもゆったりした、ひとを安心させる口調で話しました。「えーと、もちろん、ネットとかでも、ミクさんのことはすごく聞くんですけど……それより、カイトさんからここ数日で聞かされてる話の方が、ずっと多いですよ。どこかの有名アイドルっていうより、なんだかもう身内みたいな気がしますね」
 その気さくさと、兄さんとわたしへの親密な気兼ねなさは、初対面の緊張感こそまるで感じませんでしたけれど、わたしは安心を通りこして、少し戸惑いました。
「そんなに話したかな」兄さんが小さく言いました。「きっと、この業界の話になると、人気があるミクの話になるからじゃないかな……」
「業界には関係ない話ばかりですよ? 曲とかの中では色々なキャラを演じてるけど、普段の生活では優しくておとなしいとか、純だとか、ちょっと悩みがちだとか。……そんな仲の良さの話ばかりですね」このフリーPにそんなことを言った兄さんが原因なのか、それとも、幸福を周りにまとっているようなこのフリーPが受け取ると、いかにもそういうことになってしまうのか、それはわかりません。
「カイトさんは、いい先輩さんですか?」フリーPは笑みながら、わずかにかがんで、子供や生徒でも見るように、わたしの顔をのぞきこんで言いました。「カイトさんからは、職場の決まりごととか教えてもらったり、歌を教えてもらったりしたんですね?」
 わたしは戸惑って、どんなふうに説明したらいいのか悩みました。
「ミクにそういうのを教えたのは、MEIKO姉さんだね」兄さんが言いました。「俺は、ミクには特に役に立つことは何もしてない」
「そんな……」わたしは兄さんの言葉を小さくさえぎってしまって、「そんなこと……ないって思うけれど」
 フリーPは、そんなわたしの様子を見下ろして、口に掌を当てて、心地よい小さな笑い声を立てました。
「そうだとしたら、カイトさんには、どんなことをしてもらったんでしょうね? 大ヒットしたミクさんに、カイトさんがどんな影響を与えたのか、すごく興味がありますよ」
「え……ええと」正直言うと、わたしにもユーザーやファンやリスナーからの、ぶしつけな質問や推測はよくあります。でも、わたしと兄さんが一緒に居たことについて、”わたしのヒットへの影響”を聞かれたことなんて、はじめてです。さきに述べたような、わたしと兄さんの間の昔の時間と、そこから続く関係いついて、他人にうまく説明する言葉なんて、わたしは何も用意していませんでした。
 わたしがみっともないくらいうろたえて、いっこうに答えを出せない様子を見て、フリーPは少し困ったようにまた笑い、
「ごめんなさいね。……きっとカイトさんは、大事な仕事仲間さん、ですよね?」
「ええ……」わたしは、小さく答えました。
「それでも、とても大切に思ってるのは伝わってきますよ。カイトさんの言葉からも、よくわかりますよ」
 フリーPは背をのばしてから、兄さんに向き直って言いました。
「ねえ、やっぱりミクさんって、私にすごく似てますよね?」
 兄さんは静かに微笑んでいるだけで、特に何も答えませんでした。
「カイトさんが前に、ミクさんは自分によく似てるって言ってましたよね。ていうことは、やっぱり、私はカイトさんとそっくりのタイプってことですよね。癒し系の歌声とか、売り出し方とか」
 フリーPは、わたしたちに向き直り、やっぱり保母さんが園児たちに何か楽しいことを知らせるように笑いかけました。
「それでね、私、ずっと前から思ってたんですよ。カイトさんが私とそっくりなら、私が自分の歌の売り出しに使ったときと同じ方法、とっておきの成功法則が使えるって。間違いないって思いながら、半年くらい前から、カイトさんのプロジェクトを準備したり、曲や企画を書いてたんですよ」フリーPは両のてのひらを合わせて言いました。「本当に良かった。ミクさんに会ってわかりましたよ。進めているのが、間違ってなかったって」



 フリーPが立ち去ったあと、わたしと兄さんはしばらくそこに、廊下に立ち止まったままでいました。
「あの……いい人ね」わたしは兄さんにとりあえず何かを言おうとして、「兄さんに仕事をくれる人が、あんな人でよかった……」
「あのフリープロデューサーは」兄さんは言いました。「あんな柔らかい感じなんだけど、それで周りをなんでも動かしてしまうんだ。プロデュースに関係あることは、音はもちろん、広告や世間の声、イメージ戦略まで何でも使って、まるごとひとつの世界観を作り出して、大々的に世間に出してしまうらしい」
 あの様子だと、きっと、あの周りにまとっている空気に、周りの作り手たちも受け手たちも、何もかも取り込んでしまうのではないかと、わたしは想像しました。
「あの人は、人間のアーティストやアイドルのプロデュースで、そういう世界観が全部まるごと支持されていて、もういくつも音楽界に流行を作ってる実績があるらしい」
 兄さんは言葉を切ってから、宙を見つめたまま、
「かなり、まとまった仕事が来るかもしれない。音だけじゃなく、アーティストとしてのイメージの売り出しを全部やるみたいな話だから」
 それは、良かったことだと言わなくてはならないのだと思いますけど、わたしは何か喉につかえたように、何も言えませんでした。兄さんが、そんなわたしに気づいたそぶりも何もなかったのは、わたしにとっては良かったのかそうでなかったのか、よくわかりません。
「──ようやく、姉さんやミクに心配をかけたり、収録に来させたり、もうそんなことをする必要がなくなりそうだよ」兄さんは少し苦く笑ってから、先を歩き出しました。
 わたしはその背中に向かって、ひきとめようとしました。心配や、それから収録について、それは違う、ということを、何か言おうとしたのです。けれども、さきにフリーPに、兄さんがわたしにとって何なのかを聞かれたときと同じように、わたしにはどうにも言葉が見つかりませんでした。
 兄さんの姿が見えなくなっても、わたしは廊下にひとり突っ立っていました。どうしていいかわからないままでした。
 兄さんの仕事が増えれば増えるほど、きっと兄妹のやりとりも、昔のあの一緒の時間からずっと続いていた収録のように、兄妹の関係を確かめられるものも無くなって、やがては消えていくような気がしました。
 ──このままなら、仕事なんて増えなければいいのに。自分がそう望み始めていることに気づいたそのとき、わたしは本当に背筋が寒くなりました。兄さんが、優秀で有名で、優しくて良い人のフリープロデューサーに認められたこと、長い間望んでいた成功が見えてきたというのに。それを無くしてしまいたい、などと、自分が本心から思ってしまったことに。でも、それに気づいてしまっても、真っ黒い深い沼に足をとられたように、その望みから抜け出すことができなかったのです。



(続)