ただ安息のために (1)

 ──いつから、こんなにあわてて兄さんのところに走っていくようになったのか、よくわからないけれど。ただ、それは、わたしの曲が増えて忙しくなったからではなく、兄さんの曲が少しずつ増えはじめた、ちょうどその頃の時期からだったと思います。
 その日も、自分の曲の収録が終わるとすぐに、わたしはほとんど駆けだすように、スタジオから飛び出しました。目的の場に向かいながら、収録後の打ち合わせをあわただしく切り上げてしまったこと、人々が呼び止めこそしないけれど、そのわたしのあわてた様子に驚いていたことに気づきました。……それを思い出しながらも結局は、駆けているわたしの頭にあるのは、ただ、間に合うかどうか、ということでした。
 もっとも、その目的の場所、別の録音スタジオの部屋は、わたしのそれまでいたスタジオと、建物そのものは同じ中にありました。目的のスタジオに着くと、わたしはすぐに人ごみの中に、探るように目を移しました。……人々の中に、やっと見つかったKAITO兄さんの姿は、そのときの曲を作ったプロデューサーの一人と話しているようでした。ということは、兄さんの曲の収録は、まだ始まっていないようです。わたしは間に合ったことに安心して、息をついてそのまま立ちつくすように、兄さんの姿を見つめました。
 人々の中にはMEIKO姉さんもいて、もうわたしに気づいていたようで、
「ミク──」
 立ち止まったわたしに、どこか不可解そうに、そう声をかけました。姉さんはいつも、音の内容以外の細かいことにはこだわらないので、誰かのやることに驚いたり、とがめたりはほとんど無いのですが、ここに飛び込んできた時のわたしのあわて方は、その姉さんを驚かせるほどだった、ということかもしれません。
 こうして駆けてきたのも、今回の兄さんの曲が何か特別というわけではなく、実は、わたしがこうやって兄さんの収録を見に来るのも、いつものことなのでした。……デビューするより前から、兄さんが歌うときには、わたしは一緒にいました。その後も、電子シンガーとしてはなかなか人に認めてもらえなかった兄さんに、少しずつ仕事が来るようになったときには、わたしは心配と期待半分で、その収録を見に行くようになりました。以後、それが習慣として、ずっと今まで続いていたのです。
 けれども、この頃にはすでに、兄さんの仕事は増えて、あわただしくなっていました。今も、スタジオの中の兄さんの周りが、忙しい空気になっていることにもわたしは驚きました。前は、歌い手として認めてくれる人が少なかったためもあって、人の姿もまばらだったのです。けれど今は、今回の曲のプロデューサーやスタッフのほかにも、見に来ている人たちもいます。
 その中に、社のスタッフや今まで見たようなプロデューサーの人達とはちょっと感じの違う姿があって、少し驚きました。ひと目見たところ、いわゆるヒーリングとかの歌手か何かなのかと思いました。淡い色の丈のある服と、薄い色のふわふわと長い髪をしていて、動きのひとつひとつが、優雅にゆったりしています。年のころはMEIKO姉さんよりもきっと若く、兄さんと同じくらいでしょうか。KAITO兄さんの仕事を見に来た他のアーティストかもしれません。わたしには、その人ひとりの姿だけでスタジオの中の空気が、今までの兄さんの収録に比べて、ずいぶん変わって見えるように感じました。
 わたしは何となく、不安をおぼえながら、兄さんの収録が始まるのを見ていました。でも、兄さんの声も、それを活かそうとする今回のプロデューサーの曲も、いつもと何も変わらないものなのでした。



 いつもと同じように収録が終わると、MEIKO姉さんはまず──なぜか、兄さんや他のスタッフらと話すよりも先に──わたしの方にやってきました。
KAITOの収録を見に来るのはいいけれど、走ってまで来てるの?」姉さんは突然、そう切り出しました。「自分の仕事に、さしさわりとかはないの?」
「ええ……」わたしはためらいながらも言いました。わたしたちVOCALOID、ボーカル・アンドロイドは、『疲れることもなく24時間、依頼に対して無限に仕事をこなす』ことができます。わたしたちの所属する、開発した《札幌(サッポロ)》の社の売り文句によれば、ですが。
「できるかできないか、の問題は置いとくとしてね」姉さんは続けました。「KAITOの曲も増えてきたし、そのつど毎回来るのは、ただの習慣としてはちょっとやりすぎじゃないの。ミクもKAITOもこれ以上仕事が増えてきたら、現実的じゃなくなるわよ。……無限に仕事が受けられるって言ってもね。仮に、KAITOの仕事がVOCALOIDでいう無限に増え続けて、今のミクと同じ仕事量になったとするでしょう。それを見に来るたび、仕事と関係ない行動で、タスクが2倍になるってことになるじゃない。そろそろ、止めたらどう」
「そろそろって……」
 わたしはためらいました。兄さんにとっての収録は、一曲ごとそれぞれが、その後の評価や仕事を左右するかもしれない、大事な場面でもあると思います。それを目にしない、というのは、わたしにとって、何となく考えられないことだったのです。
「要は、昔の小さい頃に一緒に歌ってた頃の気分なんでしょうけど。ずっとってわけにはいかないでしょう。ミクも、そろそろ”兄離れ”したらどう」
「え……」
 そのとき姉さんから出た、思ってもみない話題に、わたしはとまどいました。
 姉さんはいったん言葉を切り、自分の片ひじをつかんで、握った手を口元に当てました。これは、考えをまとめながら同時に話すときの、姉さんの癖でした。
「──実を言うとね。ここ最近になって急に、ミクのファンやリスナーや、曲の作り手の中からも、『初音ミクKAITOが兄妹なのかそうでないのか』を、《札幌》の社に質問したり、関係を表明しろとかいう声が、妙に増えてきてるのよ。……まあ、特にミクの男性ファンからは、以前からは沢山あったけどね。同じ社の所属ってだけで、兄妹なんて表明はないはずなのに、なんで一緒くたに出てくるんだとか。──それが最近もっと増えたのは、KAITOが売れてきて、知られるようになってきてるから、かもしれないけど」
 姉さんは言葉を切ってから、
「別に、そういう声自体を本気で気にしてどうこうする必要は、何もないわけだけどね。社でも、家族とか兄妹とかは、肯定も否定もしない方針だし。……ただし、単なる声援や感想にしては、何か妙って部分についてはね。原因がわかるまでしばらくの間は、アンタが頻繁にこういうやたら目立つことをして、あえて刺激するのは良くないわ」
「──俺の方にも、よく来るよ」
 見ると、KAITO兄さんが言いながら、こちらに歩いてくるところでした。収録後の打ち合わせは終わったらしく、スタジオに人の姿はかなりまばらになっていました。
「ミクの男性ファンから『動画のここに出てくるKAITOが邪魔だ』とかさ……」姉さんの言葉に少し苦笑ぎみに微笑みながら、いつもの兄さんらしくもない冗談を言いました。「あとは、女性リスナーからも、聞かないこともない。前から少しずつだけど」
 それから兄さんはわたしを見下ろして、その微笑のままで、言いました。
「ミクがいつも来てくれるのは、嬉しいけど。……あんまり不自然ってことなら、止めた方がいいだろうね」
 兄さんが、まるでこだわる様子がない──わたしが来ようと来まいと──ことに対して、わたしはほとんど衝撃を受けました。兄さんの側から見た、今までわたしが見に来ていたことの兄さん側からの意味や、兄さん自身の気性からは、よく考えてみれば、当たり前のことだったのかもしれないのですが……。
 わたしは、さらにためらいましたが、ややあって、小さくうなずくしかありませんでした。……ともかくも、兄さん自身にもそう言われれば、その習慣を止める他にありません。けれども、それが、その時に予想していた以上の、不安のはじまりでした。



(続)