ハートガクポル 第1話 (後)



 次第に”月”が動き、地上から見えるその輪郭の大きさに変化があるのが見えた。……が、GUMIとリンにも、明らかに何か異常が起こっているとわかったのは、地表の気流が乱れてきたためだった。遠くで、《秋葉原(アキバ・シティ)》のマトリックスに流れている津波の警報が聞こえる。月の移動による潮汐力の変化で電脳空間(サイバースペース)内の東京湾(トウキョウ・ベイ)のエリアの水位が高まっているのだ。
 がくぽが真摯な表情で上空を見上げた。自分の運勢の改変とやらのために、どうやら大変なことになっていることを、真剣に、なんとか理解しようとしているのは間違いないが──理解できるわけがない。
「あのさ、”月”を引き寄せるのが目的なの?」リンが、我慢できずにルカに尋ねた。
「いえ、遠ざけることです」ルカが答えた。「月が遠ざかったとき、紫微斗数の変化で北方の柄杓(北斗七星)の柄が曲がることが最も顕著な影響です」
「いや、でも!」リンは根気よく、ルカに問い続けた。筋肉男たちが金剛綱を引っ張っているのを指差し、「月を引っ張ったら、近づくじゃない!」
「月がある程度まで近づくことで、摩擦力で弾き飛ばされて、その後に遠ざかるように計算してありますが」
「いや細かいことは置いといてさ、どう見たって引っ張りすぎ、急に近づきすぎだよ!」
 いまや月の接近の影響、気圧差はここの広場の地上でも著しく感じられるほどになり、風によって周囲のデータ構造物が舞い散っている。
「……護法童子の力が、思ったより強いようです」しばらくして、ルカが平坦に言った。
「いや自分で呼び出しておいて、なんでそうなるまでわかんないの」
「私自身の力ではないからです」ルカが答えた。「さきも言ったように、護法童子の姿、能力ともに、状況によって大きく変化し、予測できません」
 しかし、言ってからルカは、月のかかっている空ではなく、《秋葉原》周辺の電脳ネットワークの状態を見回し、
「おそらく、神田明神の影響のようですね。この《秋葉原》近くに鎮められている平将門の霊力に呼応して、これらの護法童子の力が著しく増大してしまっているようです」ルカは月を綱で引いている、レザースーツの筋肉男の集団を見て言った。「すなわち”平家BOYS”です」
「いや何を言ってるのかさっぱりわからないけど、なんでそんなことになるかもわからないそんなモノを使ったわけ!」
「そんなモノでなければ、”月”を動かすような力はないからです」
 いつものことではあるが、それにしてもいつにも増して、ルカのとった手段は強引すぎた。がくぽが占い結果に悩んだことへの対処としてだけ見れば、あまりにも大仰で無茶である。おそらく、がくぽが他の女の名──”森之宮先生”の名を熱弁したのが、ルカにも聞こえていたのだろうとリンは確信した。
「──けれど、これで確実に星の位置が変わり、天数、がくぽの運勢は変わります」ルカが言った。
「けどこれで確実に《秋葉原》に”月”が激突するよッ」リンが叫んだ。
 電脳空間(サイバースペース)の格子(グリッド)の天にかかる灰色の円盤は、いまや見比べなくともわかるほどに普段より頭上に占める面積が大きくなっていた。気流の乱れが激しく、やけに不規則な強風がこのあたりにも吹き荒れている。この周辺の満潮の水位の変化による波の音は、すでにここまで聞こえてくる。その音と交互に、空中の異常に対する《秋葉原》の住人たちのざわめきが目だってきた。
「てか止めなよ!」リンが、綱を引いている筋肉男たちを指差して叫んだ。「ルカが召喚主、管理者じゃないの!? 強制停止命令とかできないの!?」
「できません。招来者と護法童子は、人間と私達AIの関係同様、”主従”ではないからです。かれら護法童子は私達AIよりも遥かに大規模な存在です。私はかれらに対して、これらの行動を単に提案したに過ぎません」
「けど、なんとか止めないと!」リンは今も綱を引き続けている筋肉男と、異様な大きさの月を見比べた。
「うぉらぁああ!!」突如、GUMIが鉄パイプを頭上に構えて突撃した。金剛綱を引いている筋肉男のうち、黒光りする体躯にレザースーツとレザーマスクの、マスク・オブ・ジェロのような一体の頭上に思い切り振り下ろした。
 くぉー────────ん。鉄パイプはジェロの頭の形状に忠実に沿ってぐんにょりと湾曲した。マスク・オブ・ジェロはGUMIの方を一瞥たりともせず、何事も無かったかのように金剛綱を引っ張り続けている。
「効かねえ!」GUMIが曲がった鉄パイプを見て叫んだ。
「どっから出したそれ。てかVOCALOID随一のスタンダード型アイドル歌手にあるまじき行動しよってからに」リンが呻いた。
「護法童子はすべて『ダメージ減少15/冷たい鉄』を持っています」ルカがGUMIに言った。「それ以前に、ボーカルAIである私達VOCALOIDは、他者を攻撃する機能、誰かに本当に加害する能力は一切ありません」
「いまさらこれで加害しないとか言い張る気かい」リンは地上に近づいてくる”月”を見上げて呻いた。
 月が天に占める面積はいまや普段の数倍になり、猛風だけでなく、異常に高速に動く濃い雷雲が去来し、単にその嵐の影響だけで《秋葉原》のあちこちで悲鳴が聞こえる。
「すまぬ。我のせいで、かような事態と相なってしまった」
 その言葉に、ルカはがくぽを振り向いてから、しばらくその姿を見つめ、
「……何故、それが貴方のせいになるのです」ルカは低く言った。「そもそも、貴方には何が起こっているのかも解っていないのでしょう」
「正直、わからぬ。が、──」
「これは私が行ったことです」ルカは遮って言った。「手段を選んだのも、実行に移したのも、私自身です」
 がくぽの森之宮先生への心酔に反発し、様々なものを強引な行動で引き寄せようとした、そのすべてが。
「しかし、我の命運を曲げるために──我の災難が大きすぎたがために、こうなってしまったのであろう」がくぽは言った。「ならば我のために行ったことで、こうなった原因も我にある」
 ルカはつかのま無言を続けたが、
「──なぜ、そうやって独りで何もかも、背負い込んでいるのです。他人の罪科、他人の業までも」ルカは目を落とし、何かを思い出すように、「貴方が、”自ら業を引き寄せながら生きている”、という言葉の意味も、よくわかります……」
「かもしれぬ。しかし──そうするほかに、自ら背負い込むほかに、誰かを守る方法が見つからぬならば。我は、そうしながら生きるより他にない……」
 ルカはゆっくりと目を上げた。
 がくぽとルカは、そのまま見つめ合っていた。互いに自らのおぼつかない生き方、愚かさを招くばかりの生き方に憂い、かつ、その目でそんな互いにすがる途でも探しているかのように、いつまでも見つめ合っていた。
 その背後で、黒のレザースーツの筋肉男たちが『うっほ、うっほ』というような掛け声と共に綱を引いて、月を引き寄せていた。あたりに吹き荒れる嵐はすでに電光を伴い、がくぽとルカと背後のそれらの光景を断続的に激しく照らした。
「突っ込みどころが多すぎて最早どう突っ込んだものかわからん」リンが呟いた。



 と、見詰め合うがくぽとルカの、その視界に介入するように、ふわりと舞い込んできたものがあった。
 それは小さな白い霊符で、目立つようなものには見えなかった。しかし、それは辺りの嵐の激しい気流に明らかに沿わない動きで漂った。それは金剛綱の、筋肉男たちが引く根元あたりに、引き寄せられるように近づき、触れたかと思うと──辺りの嵐と大気の震撼をも軽々と圧する耳を劈くもの凄まじい爆音と共に、金剛綱が真っ二つに断ち切れた。それは明らかに、護法童子でなく、金剛綱の根元を狙っていた。ただ一枚の霊符だけで、強靭に縒り合わされた指令線(コマンドライン)の輝く繊維の束がまとめて両断されていた。
 張り詰めていた綱が切れた衝撃で、筋肉男たちは綱を引いている姿勢のまま真後ろに吹っ飛んだ。GUMIはその集団から飛び退こうとしたが、一番近くにいたマスク・オブ・ジェロだけはかわしきれず、その腕に思い切り引っかかった。
「おっばあああああ!!」
 GUMIはマスク・オブ・ジェロに綱のかわりに腕に抱えられたまま、その他の筋肉男の集団ともろともに真後ろにすっ飛んでいった。
 一方、張力を失った金剛綱が、鞭のようにしなって格子(グリッド)の地面を掃いた。リンは落下してきた危険な綱をひょいと上体を曲げただけで難なくよけると、地面をバウンドしてきた綱から軽々と飛び退いた。……が、生き物のようにしなった金剛綱の切れ端はそのリンをさらに追いかけるようにくねったかと思うと、空中にありもはや軌道を変えられないリンにぶつかって、がんじがらめに巻きついた。
「へぶ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜し!!」
 次の瞬間、切れた金剛綱は一気に”月”の方に巻き戻ってゆき、巻き上げられたリンの姿も同じ方向に天高くすっ飛ぶと瞬時に消え失せた。
 天がふたたび震撼した。……縛られていた状態から解放された天上の”月”は、気のせいとも思われるが、見る間にも半径を次第に縮めてゆき、元通りに遠ざかってゆくように見えた。さらに、次第に《秋葉原》の周囲の水位、気流はおだやかになりつつあるように思えた。
 がくぽとルカは、さきに飛来した霊符を見つめた。霊符そのものを詳しくあらためるまでもなかった。漢字(ヒエログリフ)とその崩し字が流れるように墨で描きつけられたそれは、極東の操作卓ウィザード(電脳技術者)らの一派、ニューロテック・シャーマンの様式である。ついで、二者は霊符の飛来した先、符を打った者の方に目を移した。
 ……逆光の中から現れたのは、白装束を基に紫の入った服、同じ紫の長い髪の、大雑把にはがくぽ自身によく似た意匠の概形(サーフィス)の、一見するとGUMIや初音ミクあたりと同程度の年齢の少女にしか見えない姿だった。その姿は、さきまでの気流によってデータ構造物の残骸の散らかった格子(グリッド)の地面を難なく、まるで水面を滑るかのように歩いてきた。
森之宮先生!」がくぽが叫ぶと共に、その表情は晴れ渡った。
 そのままがくぽは歩み寄り、一礼した。
「まこと久闊である」
 他者(”人間”、VOCALOIDソフト購入者を含め)を目上とすら決して見なさない神威がくぽだが、この森之宮先生に対しては、その挙措の気の配り方といい畏まり方といい、その余の者に対するのとは姿勢が根本的にまるで違う。
「《札幌(サッポロ)》から、はるばる此処へ」がくぽは続けて問うた。「無論、感謝にたえぬところであるが、偶然にこの近くに来ていたところとも思われぬ──」
神田明神の辺りで、穏やかでないことが起こっている、と見えましたので」森之宮先生は、玻璃の鈴の鳴るような冷涼な、かつ静かで緩やかな声で言った。「《秋葉原》の情報流と、神田の将門公の御霊のなす霊の動きについては、この極東で暦を読むその筋の者であれば誰しも、常に監視するところですので」
 森之宮先生は滑るようにさらに何歩か歩き、周囲にわずかに、何ともなく目を移した。今は金剛綱も筋肉男の姿もなく、月の位置も戻った広場の風景だけから、これまであったことを読み取れるとはとても思えなかったが、
「自らの命運に応じて、星の巡りを変えようとしたように見受けられますが」森之宮先生は冷涼な声で続けた。「……卦の表層にいたずらに惑わされ。いたずらに拒絶しようとし。ねじまげようとすれば。そのまま四象八卦のねじれ目、五行の乱れを招くのみです。あたかも、そこに生じる心の隙をついて、妖星に魅入られるかのように」
 そこまで言ってから、森之宮先生は不意にルカを見たが、特に注意を払った様子はなかった。ルカは無表情で、その森之宮先生を見つめ続けていた。
「しかし……如何にすればよいのか……!」がくぽは重々しい口調で言った。「卦に抗ってはならないとすれば。天数と運勢に流されるまま、命運つき果てるままを待つほかにないと申さるるか……!」
「それは、抗う他には流されるとしか、心得ておいででないからでしょう」
 森之宮先生は、風かせせらぎのような抑揚の少ない静かな声で続けた。
「星々の中の、自らの役割を果たされることです。天数に流されず、抗わず、自らその一部として動くことです。……何もしなければ、貴方様といえど、他の星々に流されるのみ。けれども、貴方様自身が、群星と同じほどに偉大というならば。他の星々に応じながらも自ら動くことで。自らも天数を成し編み上げる、ひとつの星となることができましょう」
「おお……!!」がくぽは感極まって叫んでから、森之宮先生に頭を垂れた。
 ……しばらくしてから、森之宮先生はがくぽ達に対して軽く頭を下げ、その場から立ち去ろうとした。
「もう行かれるのか」がくぽがかなり沈痛な面持ちで、森之宮先生を引き止めるように言った。「北海道神宮から神田神宮まで、遠路はるばる来られたというのに……」
 電脳空間ネットワーク内での移動といえども、物理的通信速度や転送プロトコル等の制約から、ここ《秋葉原》と《札幌(サッポロ)》の間はそうすぐには移動できない。森之宮先生がこちらに来たときもそうだが、光遁か、仙雲か、霊獣にでも乗らなければ、異常を感じてすぐにここに間に合うように来ることはできない。
 しかし、森之宮先生はそのまま、半ば頷くように再び小さく目礼をした。見ると、その背後に次第に姿を現すものがあった。マトリックスの伝達網をなす霊子網(イーサネット)がゆらぐように、半透明の細かい線が寄り集まり、螺旋を描いてまとまったが、それは支肢を備えるため、四足獣のように見えた。全体が螺旋の曲線から構成され、その裡と周囲に空間の断層(鎌鼬)を伴うその管狐(チューブラードライカロス)の霊獣の姿は、森之宮先生がその場で霊子網を操り陰陽を編んで成したのか、どこからか招来されてきたのかは定かではなかった。
 その半透明の空間のゆらぎの霊獣の背に、森之宮先生が難なく横座りすると、管狐は自らの周囲に巻き起こすかのような大気の断層の上に滑り乗るように浮かび上がり、宙に不規則なぎざぎざの軌道を描いて飛翔していった。霊獣とその背の森之宮先生の姿は、一陣の螺旋のような曲線の軌跡を描きながら急速に天空を横切り、はるか北方へと消えた。
 がくぽは感極まったように、その去ったあとの天を、──自身に向けられているルカの視線にも、まるで気づく様子もなく──いつまでも見つめていた。



「あのときの森之宮先生の”天数に流されず抗わずその一部となる”とは、如何にすればよいのかは、結局はよくわからぬのだが」数日後、神威がくぽは『星空ハグの星占いコーナー』のプリントアウトを目の前に広げ、眺めながら言った。「どちらにせよあの後、運勢は上向いておる」
 GUMIとリンは、そのプリントアウトとがくぽを──結局、何も進歩していないように見えるさまを、うんざりして見比べた。
「それは、あのときルカが”月”を動かしたために、天数が変わっていたためなのだ」がくぽはプリントアウトの隅の記号を指差して言った。
「じゃ、あのルカの術って結局、少しの間だけど効果があったわけだ」GUMIが言った。
「あれだけ騒いで無駄に終わったで済まされてたまるか」リンがぼやいた。
「そこで、リン、聞いてくれるか」がくぽがプリントアウトを畳むと、真摯な表情でリンに言った。「ルカにその礼を述べようと、あの後、幾度も《札幌(サッポロ)》を訪れておるのだが。あの日、森之宮先生が立ち去って以後は急に、ルカは話しかけてもまともに応じてもくれず、それ以後、機嫌が直る気配も見えぬ」
 がくぽは神妙な表情で独白のように続けた。
「何故なのだ!? 天数が入れ変わり、”他者との関係の運勢”なるものも、大幅に上向いているはずではないか。なのに、ルカの我への振る舞いが不可解なことについては、一向に上向かぬ、良くならぬのだ……!」
「それはさ──明らかにがくぽ自身のせい、”自分で引き寄せてる業”ってやつだよ」



(了)