ハートガクポル 第1話 (中)


 巡音ルカは、常ながらの冷静な淡々とした様で、GUMIと鏡音リンから受け取ったプリントアウトに目を通した。
 リンは、そのルカの手許をなかば不安の入り混じった表情で見つめた。……できればルカには関わってほしくなかったところである。VOCALOIDらAIの中でも、ことにBAMA《スプロール》(北米東岸)仕込みの数々の電脳技術を持つルカがものごとに関わると、電脳技術に縁のない常人から見れば、とにかく面倒無しには済まされない。さらには、ルカは殊に神威がくぽに関わることになると、どういう動機で何を起こすかは、まるで予想がつかないのだ。
 ルカは、がくぽの占い結果をしばらく読みとってから、
「ここ電脳空間(サイバースペース)の中では、上空に見える”星々”、星座や星雲とその巡りは、つまるところ、マトリックス内の高度で大規模な情報の動きが視覚化されたものです」ルカはわずかに上空に目を移して言った。
 GUMIとリンは怪訝げに、いつものマトリックスの上空の光景を見上げた。電脳空間(サイバースペース)の格子(グリッド)の暗黒の宇宙には、大小の企業データベースの群星、さらに遥かな高みには巨大企業(メガコープ)の島宇宙や、国家軍事システムの渦状腕が伸びているのが見える。
「それらの星々、大規模情報の相互の位置関係とは、マトリックスの既知宇宙全体の流れでもあります」ルカは言った。「すなわち、その星々の動きを暦、天数として読み取る技とは、電脳宇宙全体を予測する高度な技術でもあります。それは情報流たる”風水”を読み取る術とも共通点がありますが」
「……つまり、星占いが”天数の理を読む匠の技”とかいうのは、ある程度は本当ってこと?」GUMIが尋ねた。
「あくまである程度は」ルカが答えた。
 ルカは、紙の隅の方の記号に目を通し、たいして時間も置かずに、
「この易算は正確ですね。卦と天数の読み方、すべて的確です。この星空ハグという者、ただの一介の主婦の類ではないでしょう。私達の同類、あるいは実はVOCALOID亜種か何かかもしれません」
 GUMIとリンは怪訝げに、その紙とルカを見比べた。
「して、ルカ」がくぽはさらに真摯にルカを見つめた。「その卦が確かに相違ないものとすれば、我は、如何にすればよい」
 ルカはそんながくぽを、無表情ながらかなり長い間見つめた後、
「──私達は、”天数”の影響を逃れるのは不可能です。ことに、マトリックスに漂う知性体の中でも莫大な情報の集積体である私達AI、VOCALOIDの必定として、それらの星の位置、つまり情報の趨勢の大きな流れからは、じかに影響を受けます。……『宇宙の原理そのものである《旧支配者》らは、”星辰の位置”が正しいときのみ本来の活動能力を得る』とは、人間のとある神話ですが──私達もそうしたものです」ルカは紙の記号を指差し、淡々と断言した。「がくぽがこれを逃れる方法はありません。この最悪の運勢、天数に従って一体となって生きれば、まっさかさまに運命は転げ落ちるのみです」
 がくぽは震えつつ立ち上がり、やがて、その場にがくりと膝と掌をついた。
「なんたることか……」がくぽは震える声で、むせぶように言った。「天数に従って生きれば、道往きは開けるものと、信じていたというのに……!」
 業を背負う生き方を脱することができる、という、森之宮先生の言葉を、ただ崇敬し信じていただけに、その絶望感はあまりに大きいようだった。
 そうであったとしてもあまりに大時代的にすぎるそのがくぽの仕草を、GUMIとリンはなかば唖然として見つめてから、やがて、がくぽにそんなことを容赦なく宣告したルカの側に、目を移した。
 ルカは何を考えてのことか、そのがくぽの姿をまったく無表情で、あたかも平然と見つめていた。
「……方法はあります」しかし、やがて、ルカは静かに口を開いた。「がくぽが天数からは決して逃れることができない以上、その方法とは、『天数の方をねじまげる』というもの以外にはなり得ないわけですが」



「天数を変えるといっても、私達自身の力では、”星”や”月”の位置を動かすことはできません」ルカは、マトリックスの蒼天に輝く情報の星雲に目をやってから言った。「電脳宇宙の星々の位置関係とは、既知宇宙(ネットワーク)の総情報の相互関係の反映です。私達はAIという最大規模の情報集積体といえど、その”情報の星々”を動かせるほどの能力はありません。このマトリックスには他にもAIが、チューリング登録機構に認定されているだけでも、各国に数え切れないほどあるからです。一体のAIや、私達数体の処理能力でできることなど、たかが知れています」
「じゃ、できることはないんじゃ……」リンが口を挟んだ。
「なので、”常道とは言いがたい方法”を使うことになりますが、ことの性質上やむを得ません」ルカは平坦に言った。
「いかなるものか」がくぽが、真摯にルカを見て言った。
「天空から”護法童子”を招来し、その持つ金剛綱で”月”を縛り上げます」ルカは無表情で言った。「月が縛られて、その動きが変化すれば、他の星辰との位置関係、天数も当然変化します」
 GUMIとリンはいきなり話に取り残され、その場に突っ立った。
「……ええと、まず、”護法童子”ってナニ」GUMIが額に両指を当てて尋ねた。
「既知宇宙(ネットワーク)の情報流を数式で括って具現化させる情報体プログラムという意味では、極東のウィザード(電脳技術者)らが使う式神(プログラムド・ダイモーン)に近いものですが、護法童子は陰陽や呪禁でなく法術で招来するもので、ここではより大規模です。金剛龍法で召喚される金剛羅漢や、むしろBAMA《スプロール》のウーンガンたちが招来するロアに近いかもしれません」
 GUMIは指を額に当てたまま考え続け、理解しようとしているようだったが、おそらく無駄である。毎度、ルカのこの手の言葉は、リン達に対しては何の説明の用もなさない。
「それがナニかは置いとくとしても、──いやちょっと待って」リンが、空を見上げて言った。「アレを縛るって?」
マトリックスの他の群星や星雲に干渉するのに比べれば、遥かに現実的です」
 GUMIとリンは、電脳空間(サイバースペース)の蒼天を見上げ、遠くに見える、灰色でまったく艶のない円盤状の輝き、ひときわ大きく見えるが鈍く目立たないその”月”を見た。……電脳空間マトリックス上の星々のうちの”月(ツクヨミ)”と呼ばれるものは、電脳宇宙の緒情報のうち、大量だが活性がない情報体群の視覚化、活動せずにただ”月を読む”だけの不活性天体の総称である。時勢によっては複数存在することもあるが、今天にかかっているのは、物理空間の天体の月よりもだいぶ小さいものの、一つである。
 ──巡音ルカはその場から二歩ほど踏み出してから、ブーツの踵を二度マトリックスの格子(グリッド)の床に叩きつけ、発声触媒(バーバル・コンポネント)としてのアディエマス語のスクリプトを自己の外語ライブラリから紡ぎ出し始めた。その呪(しゅ)を唱えつつ、両の拳を胸の前で合わせるようにしてから、手首を返し、ついで両側に何かを引き出すように拳を離してゆくと、その両拳の間のマトリックスから湧き出すように、禍々しい形状の刃を持つ黒い長剣(グラットンソード)が顕現(マテリアライズ)した。
 ルカは顕現した長剣を素振りのように一回転をくれると、短いサインを刻むかの如く切っ先を床に走らせた。指令線(コマンドライン)の電光が飛び散ると共に、声で大気に載せて紡いでいたスクリプトが床に一気に落着し、床面には禍々しくのたうつような字体で描かれた九頭龍(クトゥルー)の式が展開した。念を練成する八卦炉の術式に似ているが、増幅霊力の出入り口である追加の一極を持つ式である。
「念素が高まる」がくぽが、身を乗り出そうとするGUMIを制しつつ、床の式を解読するように凝視して言った。「九頭炉の式で念が集められ、護法童子らが引き出されるぞ」
 床の式の周囲のマトリックス空間をなす霊子網(イーサネット)の密度が急激に高まり、その質量に周囲の光りが歪んで見えたかと思うと、散乱する光の渦を伴って、幾つもの人間大の大きさの影が立て続けに膨れ上がり実体化した。それは確かに、何らかの力ある存在が高みから降臨する姿のように見えた。
「……ギーガーがデザインした怪物みたいな奴でも出てくるかと思ってたんだけど」GUMIが、出てきた一団を見つめながら、まず言った。
「護法童子の姿や能力は、童子から怪物まで、現れるたびに細かい条件によって様々で、予測できないものです」ルカが答えた。
 その集団は、いずれも大柄な人ほどの大きさの、黒光りする極めてたくましい肉体を持つ者達だった。鎖と鋲のアクセントのある黒いレザースーツのようなもので、全員が半身、幾体かの者は顔の半分も覆っている。
「いや、あのさ!」リンは召喚されたものたちを指差して、ルカに向かって叫んだ。「護法童子って──あれ、どう見たって、VAN様と闇の妖精軍団じゃない!」
「でも確かに綱は持ってるし縛り上げたりもする」GUMIが低く言った。
 すでにその筋肉男の集団は、光り輝く金剛綱(アダマンティン・ニーモニックコード)を操り始めていた。細くも堅牢な指令線(コマンドライン)がより編まれた金剛綱は、斜めの軌跡を描いて天に伸びており、その先は遥かな月まで届いているように見える。たくましいレザースーツの集団は、その筋肉を波打たせて、月に届いている金剛綱を、力をあわせて綱引きの要領で手繰り寄せ、引っ張りはじめていた。
 いまだ見たところの”月”に変化は見られなかったが、わずかでも星々との位置関係の推移がマトリックスに影響を及ぼすのか、かすかな低い衝撃音が電脳空間(サイバースペース)を覆い、天の蓋が震撼しはじめた。



(続)