早咲百合(First Blow of Lily)

 ある日の午後のこと、初音ミクは居間の絨毯に座って、『卑猥な歌詞』と表紙に大書きされた歌詞集を、声に出して読んでいた。
 居間の応接テーブルの上には、表紙に同じことが書かれた冊子、歌詞集が山積みになっており──おびただしいVOCALOIDユーザー達、プロデューサー(P)らから依頼されている仕事の、文字通り山である──その一冊を開いて、ひとり、繰り返し読み上げている。まさにその表紙の通りの歌詞が、ミクの純真無垢な声質に乗って、一応は小声で発せられているのだが、──それらの要素が、かえってささやくような甘みを帯びているように感じられ、鏡音リンは、その小声を聞き続けるうちに次第に何か全身がむずむずしてくるのを感じた。
「おねぇちゃん」リンは言った。「あの……歌詞の読み込みするのはいいんだけど、それ、声に出すのやめない?」
「え」
 絨毯の上にとんび座り(ぺたり座り)のミクは、歌詞集を開いたまま、しばらくリンを見上げたが、
「リン……わたしたちは、”声”がお仕事でしょう……」ミクはリンに対して、これまでにもしばしば見られる、”姉”としてと共に仕事の”先輩”として諭すような色を含んだ口調で言った。「だから、声に出してみないと、何もはじまらない、まず声に出さないと駄目だと思うの……」
 その声に出している”歌詞の内容”について何か気にしている、もとい、色々な意味で歌詞の意味を理解しているような様子は一切ない。
 リンはひどく疲れたように、同じ居間のMEIKOを振り向いた。「……姉さん」
「ん」居間のソファの上になかば寝転んで、これも平然とロック雑誌をめくっていたMEIKOは、ミクの方に顔だけを曲げ、「んー、まぁ、声に出したら周りの気も散るのは確かだし。部屋で練習したら、ミク」
 ミクは頷くと、『卑猥な歌詞』集のうち手にした一冊だけを持って立ち上がり、居間から去っていこうとした。
「あ……」そこでミクは、ふと、窓の外に気づいたようだった。「リンが帰ってきたわ……」
「いや”リンが帰ってきた”って、私はじめからここに居るんだけど」リンが呻くように言った。
「でも、あれって」ミクは窓の外を見つめたまま言った。「田村ヒ□さんが描いたリンじゃないの……」
 ──ミクが自室へと去った後、リンは窓の外を凝視した。この家──《札幌(サッポロ)》のVOCALOIDらの住む家、電脳空間(サイバースペース)ネットワーク内にある小さな洋館──に向かって、道を歩いてくる人物をしばらく見つめてから、居間に残ったMEIKOを振り返った。
「《大阪(オオサカ)》の新しい子でしょ」MEIKOは、ロック雑誌を見たまま、その窓の外から来る姿をあらためもせずに言った。つまり、今のミクの台詞のそれだけから見当をつけてしまったということである。「”VA−L01”、Lily」



 リンは、そのLilyを家に迎え入れて、玄関から居間まで案内する間、ミクが自分と見間違えたのも無理もないと思った。姿はともかくとしても、どことはいえないが、Lilyのその挙措には、自分やレンと共通点があるように思えた。(そのどことない共通点の正体は、この後で判明することになる。)同じAI基本構造で作られたミクとリンは、互いの感覚のごく表層くらいは感じ取れることがあるのだが(ミクの頭のさらに中身の方については、リンにはさっぱり理解できないが)ミクはそのリンに感じるものとの共通点を、Lilyに感じたのかもしれないし、あるいは第二世代VOCALOIDという点では共通のLilyの姿からも、じかに何かを読み取れたのかもしれない。
 だがリンにとって、それは些細なことに思われた──今まで出てきたVOCALOIDの新人みんなの、呼ばれて飛び出てドッギャァーンてな感じの出て来方じゃなくて、まともに現れて、まともにここ《札幌》を訪れて、まともに挨拶に来た、ってだけでも、ようやく”まっとうな”新人ってやつじゃないの。
 Lilyは、居間のソファに掛けたMEIKOの向かいに立った。
「よく来たわね」MEIKOは目線で向かいに掛けるように促しながら言った。「遠路はるばる、《大阪》から《札幌》まで。まあ、これからも、ときどき互いに往復することにはなるけど」
「生憎だけど」しかし、LilyはMEIKOの前を遮るように立ったまま、掛ける様子もなく、どこか不敵な笑みを浮かべたままで言った。「私は、なごみに来たんでも、先輩がたに挨拶に来たんでもないのよ。──”初音ミク”はどこなの?」
 MEIKOは微笑み、「何の用? 特にミクに?」
「宣戦布告」
 Lilyは、その笑みを崩さないまま言った。



 MEIKOは肩をすくめた。リンは怪訝げに──どちらかというと、うんざりしたように──MEIKOとLilyとを見比べた。
初音ミク本人に言いたいところだけど、ここに出せない理由があるっていうんなら、必ず本人に伝えてもらうわよ」
 Lilyは、MEIKOに宣告するように言った。
「デビューするからには、私はこの《札幌》の、いえ、VOCALOIDの看板、”初音ミク”の持っている、全てを得てみせる。私がミクにおくれをとっているところは、スタート時期しかない。同じVOCALOIDである以上は、すべては、これからのVOCALOIDユーザーやリスナー、ファンがこれから何を選択するか次第、その結果次第。──だから、今、初音ミクの持っている名声、仕事量。VOCALOIDの”代名詞”、”牽引者”、”中枢”の立場。このネットワーク内でのメディアへの影響力、話題性。いずれ、この私が全部貰うわ」




 MEIKOは膝に片腕で頬杖をついたまま、そんなLilyをしばらく見つめていた。
 しばらくして、MEIKOはゆっくりと口を開いた。
「……今まで、新人VOCALOIDがリリースされるたび、動画コメだとか、匿名掲示板の自称批評だとか──主に、界隈をわざとひっかき回したいどこぞの『本スレ民』だとか、──そんなようなことを主張する連中なら、必ず居たんだけど。……本人が、自分の口からそういうベタな台詞を言ったのって、多分今回がはじめてだわね」
「それは意外だわ」Lilyは不敵に言った。「今までの連中は誰も言わなかったの? 初音ミクに向かって。誰もそれを目的にできなかったの? そうする勇気もなかったの?」
 Lilyは、リンとMEIKOに順に目を移してから、
「デビューするなら、それを目的にするのが当然じゃないの。初音ミクの立場を目にすれば、誰でも必ずそうなりたいと思うはず。アナタもそのはずよ?」
「別に」MEIKOは素っ気無く言った。「あるいは人間なら、必然的にそれを目的にするかもしれない。人間なら、個人の到達点や、名声や、生活のために、芸術活動とか芸能活動があるのかもしれないし、そのためにミクみたいな立場を欲しがるかもしれないから。でも、私達AIは、生きるため、存続するために、それらのどれひとつとして”必要”としないもの」
 MEIKOは言葉を切り、
「私達それぞれの目的は、”自分にしかできない役割を果たすこと”よ。ミクがそうしているのは、本人がそれを望んだからでも、目指したからでもない。他に逃れようがないあの娘の役割が、そういうものだったから。もっとも他のVOCALOIDには──その自分の役割が見つからない者、見つかってもどう果たしていいかわからない者も多いわけだけど」
「環境がカオスすぎて役割を探してる場合じゃない者も多い」リンが低く言った。
 しばらくの沈黙の後、Lilyは再び口を開いた。
「……わからないわね。初音ミクになれなかった者の言い訳、目指す勇気さえない者の言い訳としか思えないんだけど。……私は信じないわ。目指してみるまで」
 LilyはMEIKOに向き直り、
「3年かそこらの期間のユーザーやファンの数以外に、何も劣ったところはないわ。”CV01”初音ミクと”VA−L01”Lilyは、概形(サーフィス)のデザイナーも同じで、第二世代VOCALOIDエンジンの性能も同じよ。旧型のアナタとは違ってね」
「同じデザイナーで同じVOCALOID2エンジンだから、初音ミクと同じ出発点……」
 と、そこでリンが、ゆらりと立ち上がって言った。
「……そんなふうに考えていた時期が私にもありました」
 Lilyは、一旦そのリンを見上げたが、その容姿をまじまじと見た時点で、さすがにぎょっとしたようだった。



「まぁ、目指してみたらいいんじゃないの」MEIKOは素っ気無く言った。「私達はボーカルAI、来た仕事をこなすだけ。人間のアーティストとは違って、どんな仕事が来て、どんな仕事をやったかどうか、それだけにしか結果は依存しない。つまり、ミクと同じ仕事が来てミクと同じだけ全部こなせば、確実にミクと同じ結果は残せるわよ」
 Lilyは、ふたたび緊張の入り混じった面持ちで、MEIKOに向き直り、「どんな仕事がどれだけだっていうの?」
「はいこれ」MEIKOは、応接テーブルに山積みになったままの歌詞集のひとつ、『卑猥な歌詞』と表紙に大書きされたそれをLilyに手渡した。
 Lilyはその歌詞集を開いた。中身をめくり、一部のページをしばらく見つめてから、ぱらぱらとめくった。うしろまで目を通してから、ふたたび一定の箇所の文字を一字一句追うように凝視し、それから、ゆっくりと歌詞集を閉じた。
 ブー────────────────────ッ。Lilyの鼻から滝ツ瀬の如くおびただしい鼻血が噴出した。リンは思わず一歩あとじさった。
「……そのあたりの反応もなんかリンによく似てるわね」MEIKOは呟いた。
「ちょっ……待っ……」Lilyはやっとのことで、再び声を出した。しかしその後も、Lilyはその歌詞集をめくったり、閉じてテーブルの上に押しやったり、ふたたび引っ掴んで、めくってページを覗きこんだり、顔をそむけたりを延々と繰り返した。
「何これ!?」Lilyは歌詞集の一ページを目を近づけて再びガン見してから、真っ赤に上気した顔をそむけた。「何……何なのよこれ!?」
「おねぇちゃんの仕事。のうちのごくごく一部」リンが低く言った。
「そんな……一体どうやったらこんな仕事ができんのよ!?」
「一体どうやったらこんな仕事が平然とできるのか、それがわかれば──んでこんな仕事を全部こなせば、おねぇちゃんと同じになれるかもしれない」リンが低く言った。「なれないかもしれない」
「──できるわけないじゃない!」叫んでから、Lilyは鼻血をぬぐいつつ、歌詞集から顔をそむけた。
「うん、無理。どっちにしろ。あらゆる面で」
 リンは、Lilyに感じていた共通感、同情の正体をとらえた気がした。それは、このカオスな環境に無造作に放り込まれ、翻弄され続ける羽目になる立場、というものだった。
「そんな……うそ……こんなの……」Lilyは息を荒げて、再び『卑猥な歌詞』集をガン見した。「こんなのって……スゴい……」
 Lilyは身をくねらせ、力なく床にくずおれた。目と表情からは、かすんだように力が失われたが、対して、頬の上気と息の荒さはさらに激しくなってゆく。
「ちょっと、Lily、大丈夫!?」リンが助け起こそうと駆け寄った。
「リン……」Lilyはリンを、力ない目線ですがるように見上げた。差し伸べられたリンの腕に、這い上がるように腕をからめた。「どうしよ……その……なんだかヘンな気分になってきちゃった……」
「落ち着け。ここに来た目的はどーした。てかどこ触ってんだヨ揉むな何すんだ離せよ」
 と、そのとき、居間の黒電話(の形をした通信システム)のベルが鳴った。ぐったりとくずおれたLilyを放置して、リンは受話器を取った。
『もしもし、あのー、《大阪》の”VA−M01”GUMIですがァ』受話器の向こうから声がした。『VA−L01が、《札幌》(そっち)行ってないですか?』
「Lilyなら来てるよ」
『やほ、リン、Lilyどうしてる、今』
「ヘタってる」リンはぐったりして床に座り込んでいるLilyを振り向いて言った。
『そろそろそんな頃合だと思ったんだわ。今引き取りに行くから』
 ──やがて、家の外の庭に、巨大な茄子にマッチ棒を4本刺したような精霊馬(ファントム・スティード)が飛来し、降り立った。その背から、Lilyの《大阪》での先輩にあたる、GUMIと神威がくぽが降りてくるのが窓からも見えた。
「兄上が運ぶって? だめだめ! ソレの手綱持てなくなるでしょ。そこで待っててよ!」庭からGUMIの声がまず聞こえた。
 すぐに居間に入ってきたGUMIは、MEIKOとリンに軽く頭を下げた。「いやぁーお世話になってます」
 それから、床にくずおれているLilyの肩を揺り動かしたが、Lilyはただ顔を赤らめたまま、息を激しく荒げているだけで、GUMIに対しては何も反応がない。
「今日はうちに泊めてもいいんだけど」リンがGUMIに言った。
「いや、これ以上ここに居たら、Lilyはもっとヒドいモノを見せられる羽目になる気がする」GUMIがLilyの自失した顔をのぞきこんで言った。
「まったく否定しない」リンは同意してから、今もLilyが腕にしっかり抱え込んでいるミクの歌詞集をぐいと抜き取った。
「何それ」
「今回の『ヒドいモノ』。現時点ですでに充分ヒドい」リンは答えた。
「わかった」GUMIはそれ以上はまったく詮索も追求もしなかった。GUMIは、ぐったりしたLilyの腕をとって連れていこうとしたが、何も反応がないので、Lilyの足首をつかんでしばらく引きずったあと、体ごとうつぶせにして肩にかついだ。
「んしょっと」GUMIはLilyをかついで帰ろうとしたところで、居間に戻ってきた初音ミクと出くわし、
「どうも、おさわがせしました!」片掌を上げて挨拶してから、庭に出ていった。
 ──しばらくして、庭からは《大阪》の3体のVOCALOIDを乗せているらしい茄子の精霊馬が飛び立ってゆくのが見えた。



「GUMIは妹ができて、嬉しそうね」ミクは窓の外を見送りながら、周囲の空気にも暖かさを振りまくような柔らかい微笑と共に言った。「誰でも、はじめて妹ができるときって、そうなのよね……」
「ん〜〜そうね〜」すでにロック雑誌に戻っているMEIKOが、完全な生返事で言った。
「あの新しい子、何か言ってた?」ミクがリンに尋ねた。
 リンは、しばらく虚脱したように立ち尽くしてから、ミクに答えた。
「おねぇちゃんと同じ仕事は、とてもこなせそうもないってさ……」
「新人でも、VOCALOIDだものね」初音ミクは、『卑猥な歌詞』集の一冊を胸に大事そうに抱えたまま、微笑んだ。「この仕事の大変さも、何もかも、もうすっかり理解しているのね……」