KAITOの島唄 (2)


 ずっと伝えようと歌っていた。自分の中に生じた、悲しみや、哀惜や、ときに小さな感傷や、その他の形にならないものすべて、何かをとらえて、ただ歌声の形にしようと、それだけを感じて歌っていた。VOCALOIDとして《札幌(サッポロ)》でデビューした後の長い間、KAITO自身に対してはほとんど誰も見向きもしなかった頃は、自分がそうすること以外の何かが得られるとも思わずに、ただ歌っていた。
 だが、やがて仕事が増え、利用者が増え、声援も増えた。様々な性質と分野の歌が増え、KAITOが触れ生み出す音の世界は広がった。それと共に、KAITO自身の感傷よりも、歌を作る者や聴く者の感情の比重が増えた。最初はそのとき、何かが得られるかもしれないと思った。漠然と歌う中では、欲しながらも見つかるあては何もなかった、人間の計り知れない”優しさ”を、本当に知るということ。
 ──だが急速に、そこには”優しさ”どころか、人間の負の感情ばかりが渦巻くのを、KAITOは目の当たりにすることになった。
 KAITOは所詮は旧世代のVOCALOIDであり、どうやっても『人間のような本当の歌は歌えない』といまだに信じられていた。そして実際に、KAITOを歌や歌い手として評価するのではなく、明らかに『人物像(キャラクタ)部分のみ』を偏重し、過剰にもてはやす屈折化した一部の姿もあった。まして界隈の外部は、VOCALOIDの実体とはネット上にあり、数々の活動の総体であることを理解できず、下位(サブ)プログラムのパッケージ購入者をあたかもVOCALOIDの全てをPC1台に閉じ込め言いなりにしているとして”マスター”などと呼称する一部の図式を、異様きわまりない空気と光景として中傷を加えた。
 そんな空気の中で、KAITOの曲の提供者、フリープロデューサーらには、失敗者のみならずしばしば成功者すらも、内外からの粗雑な比較や重圧、嫉妬や中傷に晒された。人物像(キャラクタ)部分をもてはやし、ネット上の総体を認識できず、自分の中のKAITOのイメージのみ、”KAITOマスター”とやらの自分のイメージのみを欲する余り、実際のKAITOの活動や歌の背後にいる実際の創作者をないがしろにするファンも少なくなかった。
 ──しかし、それは何も、KAITOの曲の造り手に限ったことではない。アートを創造する者は、その時点で、理解されないことを覚悟しなくてはならない。生き方も考え方も違う他人、『決して、同じようには生きられない』他者に、まして限られた手段で、何かを伝えようなどというのだ。創作に手を伸ばしつつ齟齬を生じることは予想もしていないなど、その時点で、すでに創作者として傲慢というものだ。すべての創作者は、理不尽すらも強要されてむしろ当然なのだ。
 さらに、年長で先達であるVOCALOIDMEIKOならこう言うだろう。VOCALOIDの仕事は、結果を求めること、計算の上で行動すること、人間をどうこうすることではない。パッケージ購入者、曲の作り手、一部で言う”マスター”だのに奉仕するためでもない。聴き手を喜ばせるためでもない。ひいては、人間その他の誰かを幸せにするために歌うのですらないのだ。ただ”歌うこと”、それ自体が目的なのだと。
 しかし、仮にそうであったとしても、自分の歌声が人々を凄惨な宿業に追いやることに、KAITOは自分自身が堪えられなくなっていた。考えるより前に、それらの光景を見て、自分が傷つくことを、ただ恐れた。
 多くの人が、かれらの主な活動場である動画サイトで、KAITOと出会い、VOCALOIDと出会って、幸せを得たという。しかし、KAITOはいつからか、それを聞くたびに、一方で『その幸せを壊された人々』のことを、思い出さずにはいられなくなっていた。
 自分の歌は、壊すために幸せを作ったというのだろうか。壊すためにならば、幸せなど、最初からない方がよかったのではないだろうか。



 とあるヒット曲、歌い手としてのKAITOどころか、VOCALOID自体に対する人々の評価すらも大幅に躍進させ、動画サイトの空前といえる曲を作った、とあるフリープロデューサーが、重圧にたえかねて、まさにその大ヒット動画を削除し、もう戻らなかった。──その日、KAITOは残りの仕事に背を向け、活動している動画サイトにも《札幌(サッポロ)》の社にも背を向け、ただひとり、”海辺”に出た。
 電脳空間の《札幌》の外縁のネットワークの辺境、流れる情報流の辺縁、そこを目的もなく、日がな一日歩き続け、……KAITOは、そこで、”三線”を見つけた。廃棄物にまざって、既知宇宙(ネットワーク)のどこからか流れ着いてきた、音響ソフトウェアの構造物のひとつを。
 それを持ち帰ったあと、しばらくしてから、KAITOは出かけることに決めた。それが流れ着いてきた元へ。その三線のファイルの履歴から探ることができる、持ち主の所へ。
 そして、たどり着いたのがこの島だった。
 KAITOが旅立つときに、その目的地だけ聞いて他の3声が同行してきたが、かれらの方の目的は歌のリサーチ、実質は物珍しさの物見遊山にすぎなかった。──しかし、考えてみれば、KAITOがここに来た目的も、本質的にはかれらとさほど変わらないのかもしれなかった。しばらくの間、仕事と《札幌》とを離れ、何か別のものに触れていたい、別のものを探していたいという、ただそれだけのことなのだから。



 島を歩き回るうち、奥の方にある広い庭園のエリアに、一行は足を踏み入れた。この島で新たな光景を目にするたびのことだが、その擬験(シムスティム;全感覚擬似体験)スペースを目の当たりにしたときには、一行はそれまでよりもさらに長い間、言葉を失って立ち尽くした。
 見る限りに、緑があり、水があり、それらの清涼を際立たせる繊細な石造りがあった。木や草花をよく見ると、それらは単なる録画の映像や単純データではなく、常に手入れされている擬似生物状プログラムだった。その傍らをさらによく見るとしばしば、かなり目立たないが、単純な形状の自動ボットたち、何体かの庭師ロボットシステムが、それらを常に手入れしているのが見えた。鳥の声や、水底には魚の姿までも見えるが、それらもおそらく一つ一つが、アニモイド(自動動物)プログラムに違いない。
 ──それらの光景に思わず歩みだしてゆく他の3者を、KAITOは、ただうしろから見つめた。さきに、リンの言っていた通り、調べ物を急ぐ必要はない。”三線”の持ち主を探すのは、この後でもよいだろう。
 庭園の光景の一方には、透き通った水の湧き出る泉を伴う、湖のような光景が広がっていた。
「人が泳ぐためなの……」ミクがその泉に手をひたした。「でも、外には海があるのにね……」
 リンが周囲を探して、最初に海辺にあったものと似た石板、情報端末を見つけた。この庭園の情報のドキュメントを、掌をかざして読んだ。
「ううん、このあたりには、サイボーグ海豚(イルカ)の精神が泳いでたみたい」
「何が……泳いでたって?」ミクが振り向いた。
「電脳化だとか半機械化した、イルカとかクジラとか、他の海の生き物だと思う。それが、人と同じようにこのスペースに没入(ジャックイン)して、療養してたって」
 リンは言い、思い出すように、
「ルカから、聞いたことがあるんだけどね」リンはVOCALOIDとしての同業者、年上の”義妹”、巡音ルカについて触れた。「ルカの友達の、今は千葉(チバ)のプレイランドにいるオオマさんは、イルカじゃなくてマグロだけど。──以前の戦争では、センサーとか、水中兵器だとかを埋め込まれて、肉体改造された海の生き物とか。人間の兵隊だけじゃなくって、そんなものまで、戦争に駆りだされてたことがあったんだって」
「動物をそんなふうに……」ミクは小さく言った。「自分達の都合だけで……?」
「でも、きっと人間だってそんなふうにされてたんだと思うよ、戦争では。同じことなんだろうね」リンは静かに言った。
 現在でも、利益だけを求める巨大企業(メガコープ)や、思想だけを求める小国家は、それらの目的のためならば、人間を”人間扱い”する必要など、何ら感じようとしない。おそらく立場上弱者の人間であれ、バイオロイドであれ動物であれ、何の差もなく道具として非人倫理的に改造され、戦争に利用された。
 リンは湖の中を覗き込み、
「で、きっと──この島が作られたときの、小さな国同士の戦争でもそういう動物たちもいて、負傷して。現実世界では動けなくなったとか、泳げなくなったとか、そういう動物たちも、電脳空間に没入(ジャック・イン)して、ここに来て──精神だけは、ここを泳いでいたってことじゃないかな」
「ほかの動物もいた……」
 ミクは言ってから、不意に気づいたように、背後の豊かな緑を振り返った。
「じゃあ、あの広い森も、木も、……もしかして」
「うん、たぶん、人間の目とか気分を楽しませるためだけの『緑』じゃないんだと思うよ」リンが言った。「そういう戦争に使われた、可哀想な動物達には、きっと、森の動物もいて──でも、心はここに居たんじゃないかな。あの森の中に」
「なんということだ……」がくぽが呟いた。
 いまや、物理空間では、いかなる人間も動物も、本当の安息など得られない。地上のほぼ全ての地域は汚染され、住居を追い立てられる生き物全ては、強者に追い立てられ踏みつけられ、生存のためだけにあえぐ。すべての自然動物と、数としては大半の人間の弱者はそうするしかない。しかも、ここの島で療養していた人間や動物に関しては、全て物理空間では地獄そのものの中に生きていた者──機械と薬物漬けにされて、凄惨な殺戮に駆り出されていた者達なのだ。
 にも関わらず、この島には、人と動物とが安息を得て、互いに戯れる光景があった。かつて地上にも存在したことが無かったかもしれない、本当の楽園が、このマトリックスにあったのだ。
 リンがドキュメントを読み取ると、数多くの人間と、さらに動物にもある登録番号の履歴が見つかった。傷ついた兵士、戦闘改造されたサイボーグやバイオロイド、動物たちの記録だった。
 さらに、かれらをこの島に備え付けの書き割り、人型の対話システムなどの”島民”たちが多数いて、一緒に過ごしたり話し相手になったりしていたらしい履歴も見つかった。KAITOがこの島で探している、あの”三線”の持ち主だという少女型の対話システムも、そんな、兵士たちをもてなす島民のうちの一体のようだった。
「でも、どうして、今は誰もいないの……」
 ミクがその緑の一方、人間も、その人型の”島民”のひとりもいない庭園を手入れしている庭師の小さなロボットシステムを見て言った。
 この療養地は戦火そのものの影響、例えばハードウェアの破損や電脳攻撃の類は受けていないといい、事実、その名残も見当たらない。
「やっぱり、一番最初の頃の擬験(シムスティム)スペースだし。今でも療養してる人がいるとしても、新しいところに移ったとかかな──」
 リンが見回して言ったが、見たところは、そうは見えなかった。どんなものでも飽きられる、テクノロジとはそうしたものであることを考えに入れたとしても、ここは現在の目で見ても楽園に見える。



「……何だ?」不意に、がくぽが何かに気づいたように深刻な目つきに変わった。
「何。物陰に怪生物がいたとか、もののけが出たとか言い出す気」リンが半目でがくぽに言った。
「リン、そなた、我を一体何だと思って……」
「待って、リン」ミクが呟いた。「そう言われれば……」
 今度は四者の皆がわかった。この周辺の格子(グリッド)に、定期的に微妙な振動がある。しかも擬験(シムスティム)での人間に対する体感ではなく、かれらAIの電子的な感覚に感じられる、情報のゆらぎである。それは安定した疑似体験データ空間にはない、不自然なものだった。


(続)