KAITOの島唄 (1)

 どこまでとも知れず広がる青空のもと、いつまでとも知れず打ち寄せ続けるさざ波は、本物の自然のそれではなかった。それは、いずれの空間と時間に渡っても一様に続くもので、自然にはあり得るものではなかった。
 しかし、理想化されたそれは、自然のものでなくとも確かに、電脳空間内(サイバースペース)内に広がる楽園だった。
 4声のVOCALOIDは、既知宇宙(ネットワーク)からのアクセスポイントのゲートを通り抜けてその地に降り立つと、《札幌(サッポロ)》のエリアから長い間を──情報の海を縫い渡る間であるが──かけてそこにたどり着いた感慨もあってか、砂の上に降り立った後も、しばし立ち尽くしていた。
「欠くところがない」その光景に、最初に率直に口を開いたのは、神威がくぽだった。
 KAITOは沈黙していた。
「娯楽用の擬験(シムスティム)空間」初音ミクが言った。「こんな場所が……」
「うん、……お金持ちや特権階級の贅沢用に、巨大企業(メガコープ)が準備してる場所なら、他にもあるだろうけど」鏡音リンが言った。「そういうのじゃないのに、こんな場所って、マトリックスじゅうにも無いと思うよ」
 しばらくの間を置いてから、
「──前に、《秋葉原(アキバ・シティ)》のプロデューサーから──村田さんから聞いたんだけど」やがて、リンはミクに説くように話し出した。「この電脳世界の中にある、いろんな擬験(シムスティム;全感覚知覚、疑似体験)の空間てのはさ、今じゃそういう贅沢とか娯楽、いっときの夢をかなえるためだけど、元々は、最初は娯楽のために作られたわけじゃなかったのね」
 ミクは、リンを振り向いた。
「元々、療養のためだったんだって。──怪我とか病気で、体が利かなくなって、寝たきりとか培養用の槽(ヴァット)の中とか、物理空間じゃ普通の生活とか娯楽とかができなくなった人のために。そういう仮想現実を提供するために、心のケアのために、最初に作られたんだって。それが、今では世界じゅうであんなふうに発展してるって」
 ミクは首をかしげた。かれらが普段生活している電脳空間内のエリアもそうした居住空間の一種なのだが、VOCALOIDのファンの中にも、電脳空間(サイバースペース)を指して、マトリックスの中に”物理空間と同じような居住空間や生活空間まで全部”再現され揃っているのが、何故なのかわからない、という人々は多い。マトリックスの中に、物理空間と同じ全てが揃っているのは、上の経緯で作られたものが引き続いているためだが、こういった経緯はまったくといっていいほど知られていない。
「事故とか、病気でそうなった人のため?」
「……戦(いくさ)であろうな」がくぽが言った。
 巨大企業(メガコープ)が動かす社会や、思想だけで動く小国家は、数少ない弱者を人倫の外面のためには申し訳程度には取り繕うが、かれらにとって、それは決して大きな動機になることはない。かれらに莫大な富と技術の飛躍を促すのは、もっと実利的な動機であり、その最も大きなひとつが、大小の戦争である。
 この島も例外ではなかった。戦争の、負傷者を労るために作られた擬験(シムスティム)の『楽園』、その世界で最初のもののひとつだった。かつて、とある小国同士の戦争のときに、背後に介入していた、どこかの巨大企業(メガコープ)が作ったスペースだった。擬似体験空間の、空間の大きさそのものも、費やされている容量の規模も非常に大規模だった。最初のものだけに、本当に物理空間そっくりではないが、かえってそれが理想化されている姿のように見える。
 それは、どこか自分達の歌声に似ていると、KAITOは思った。
「今は、誰も住んでないの……」ミクが陸の方を見ながら言った。
「かなり広いみたいだからなあ。わかんないけど」リンが見回していった。
 しかしミクとリンは、そのときにはただ輝く光景を見回し、それらの中から見つかりそうな歌の霊感の源泉に、思いを馳せるようだった。
 KAITOは、彼女らをよそに、砂に足を踏み出した。持ってきた”三線(さんしん)”をじっと見つめてから、それを荷物の上に置いた。
 他の三声は、歌の題材と、多分に気分転換をかねてこの島に来た。KAITOが来たのも結局のところは、同じ理由ではあったが、この島を選んだのには、この三線にかかわる、ひとつの理由があった。



 しばらくしてから、KAITOはこの島のエリアの管理情報が得られる箇所を探した。程なく、島のエリア入り口近くに配置された、景観を損ねないように石板状(ただし、半透明のディスプレイがその上に浮いている)のアクセスポイントが見つかった。KAITOは、頭部のインカムからコード状の情報ラインを石板に接続し、データベースを検索した。
「何してるの……」ミクが、砂浜をまだ歩きづらそうに、小またに歩み寄ってきた。そんなKAITOに構わなくとも、ミクにとってみれば島にはまだ楽しそうな、目を奪われることがありそうに思えたにも関わらずだった。
「あの三線の持ち主を探してるんだ」KAITOは答えた。「ここに住んでいるんだと思う」
 ”三線”の音響プログラム、そのファイルの履歴に残っていた、作成者や更新の履歴から、アドレスを辿ろうとしていた。
 それは、すぐに見つかった。島のデータベースの側にも、”三線”が島のプログラムの一部として記録されており、持ち主も登録されていた。
「どうしたの……」ミクが見上げた。データベースを検索するKAITOが、どこか不可解そうな様子に見えたからだった。
「人間じゃない」KAITOは答えて言った。「この記録によると、あの三線の持ち主は……島の備え付けの”対話プログラム”、ボットだ」
 この島のシステムには、島にやってくる人間と対話するための”島民”、人間型の対話プログラムも多数備え付けられていた。人型ではあるが、いわばこの”楽園”を構成する風景、書き割りと言ってもいい。アドレスが示していたのは、そのうちの一人、少女型の対話プログラムの島民というものだった。
 対話システムは、こうした”三線”を奏でることはできない。AIであり歌唱が可能なVOCALOIDやUTAUと違い、対話プログラムや人格構造物には、何かを創造できるクリエイティブな能力というものは全くないからだ。無論、音声ファイルを再生するだけならば、かなり単純なプログラムにでも可能だが、そもそも再生するだけならば、この”三線”のような音声作成用の高性能ユニットは必要にはならない。対話プログラムは本当の意味で、自ら演奏したり歌ったりすることはない。
 この対話システムの少女が奏でられないとすれば、この”三線”は実際はこの少女ではなく、島そのものの備品なのだろうか。ならば、なぜこの三線の方に刻まれたデータでは、わざわざ一人の持ち主の名などになっているのだろう。
「何してるのー? おねぇちゃんまでさ」リンが二人に気づいて、近寄ってきた。「調べ物なんて、あとでいいんじゃないの」
 リンは青い空と木々の、”楽園”のスティム風景を見回した。
「浮かれるばかりが、誰の性にも合うというわけでもなかろう……」がくぽがリンに追いついて言った。
「じゃ、そもそも、がくぽは何をしにここに来たのさ」リンが振り向き、呆れたように、がくぽの姿を上から下まで見るようにした。
 そのとき、別の何者かの声がした。
「──何者だ、お前達は。やかましく浮かれおって」
 言葉使いはがくぽに似ているが、明らかに別の声だった。



 皆は振り向いたが、それでもしばらくの間は、そこに出現していたそれが今喋ったことを理解できなかった。
 それは、せいぜい一抱えほどの大きさの、黒い箱のような電脳内オブジェクトでできた構造物(コンストラクト)で、下部の幾つかの半球状のオブジェクトによって、わずかに砂の上を浮いていた。他にもいくつか部材があるが、手足(マニュピレータ他)や感覚器(カメラ等)を思わせるものは一切ない。
 そんな黒い箱がしわがれたような怒声を出したことに驚いたように、ミクはKAITOの袖を掴んで、その背ごしにそちらを覗き込んだ。
「俺達は──ただの観光に来たようなものです」
 KAITOが答えた。箱の向きから、その者がどうやらKAITOに向かって言葉を発したように見えたからだった。仮にそうだとすれば、それはあるいはKAITOがこの中では一応は一番年長に見えたからかもしれない。
「あなたは?」リンが箱に尋ねた。
「私は、この島の灯台守だ」箱の声は、がくぽと同じように時代がかっているというほど古びていたが、それ自体がノイズのようにかすれて聞こえた。「この辺りの情報の海を行き来する者が、島に衝突したり、迷い込まぬよう、この島から信号を出し、番をしておる。それだけだ」
 灯台守の声は平坦であり、おそらく聞き取りやすくするためだけの抑揚のみがつけられており、VOCALOIDたちや、対人対話システムのような人間らしい声にするための音声合成エンジンを通したものではない。
 見たところ、ただの擬似人格構造物──それも、対話はできるようだが、その人格ともども、どちらかというと人間のようなものを再現する目的より、いわゆるエキスパートシステムに近い、精神というよりも技術者の経験、記憶、技術自体が記録されたもののようだった。おそらく、この島の管理のために役立つ技術が、ファームウェアROM構造物として焼き付けられているか何かだろう。
「今、この島に居るのって、あなただけ?」
 リンの問いに、灯台守は答えず、
「観光などと言ったな。だが、この島には、人間が物見遊山に訪れる値のある物など、何も有りはせぬ」
「人間ではありません。俺達は4声とも、AIです」KAITOは言いながら、クリエイティブな能力を持つAIというものは、この島が作られたかつての戦争の当時には、概念さえ存在していなかったかもしれないと思った。「歌を作るためのAIです。歌声にして──伝えるため。伝えたい人の声を、ネットの海を渡って、届けるため」
「人間以外のプログラムからは、何かが本当に創造されることなどない」灯台守が耳障りな声で言った。「我々機械に、本当の歌など歌えぬ」
「私達VOCALOIDは、今はネットで創作のきっかけになって──」リンが言いかけたが、
「そして、歌なぞは、人間が気を紛らわす為のものに過ぎぬ。偽りの人間もどきが、そんな偽りを、偽りの楽園に来て歌うと言うか。──ここは、”楽園”などではない」
 灯台守はリンにも構うことなく続け、
「ここには”歌”など無い。全て、引き払った人間が持ち去った後だ。お前達の用のある物など、何もない」
「お邪魔しないように、早めに立ち去ります」KAITOが静かに言った。
 しばらくの沈黙の後、灯台守の構造物は、砂の上を滑るように移動しながら、皆の前を去っていった。
「……いくら対人用システムじゃないからって、度が過ぎてるよ。あの無愛想は」リンが、うんざりした様子を顔から隠そうともせずに言った。
「なんたる無礼さか」しかし、さらにがくぽの方がリンよりも遥かに憤慨していた。「まさに、己の言葉通り、”楽園”に相応の者ではないわ」
 KAITOは(そして、その袖を掴んだままのミクは)灯台守が立ち去った後を見つめた。歓迎されていないならば、少なくともあの”三線”の持ち主のことは、自分で調べた方が良さそうだと思えた。



(続)



※原典:とある邦楽